作家の特徴 ——「渺茫」に寄せて—–
- 2016年 4月 5日
- カルチャー
- 藤倉孝純
地 獄 を さ ま よ う 魂
――高橋たか子・洗礼まで――
目 次
【Ⅰ】 作家の特徴 (今回掲載分)
―『渺茫』によって―
【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?
―「ロンリー・ウーマン」―
第一章 乾いた響き
第二章 なりすまし
第三章 「それは私です」
【Ⅲ】 眩めく灼熱を歩いたのだ
―『空の果てまで』―
第一章 エピソードいくつか
第二章 哲学少女
第三章 第一の犯行
第四章 第二の犯行
第五章 火急の自分
【Ⅳ】 心性への侵犯
―『誘惑者』―
第一章 言いようもない
第二章 私、不安だわ
第三章 ロマンのかけらもない
第四章 なんでもできる
第五章 詰襟の学生
【Ⅴ】 自分探しの旅路
―「奇妙な縁」―
第一章 老女るりこ
第二章 出会い
第三章 幻影
第四章 羽岡フレーズ
高橋たか子(1932~2013)の最初の小説集、『彼方の水音』に収められている「渺茫」は作家が夫、和巳の看病に忙殺されていた1970年、『文学界』十一月号に発表された。『彼方の水音』そのものは、和巳が直腸がんで死去した後、同年8月に「渺茫」を含めた五本の短編をまとめて刊行された。作家はその出版を見届けて、二度目のヨーロッパ旅行へ出た。『彼方の水音』は、その後二十五年に及ぶ本格的な作家活動のスタートラインに位置するものである。収録された五編の作品には、後の作品に見られるような鋭利な心理描写はまだ顕著ではないが、文学に対する作家の基本スタイルは十分に読みとれる。特に「渺茫」は、作品の仕上がりに生硬さがあるものの、テーマの設定、表現手法、結末の意外性等は後々の作家の長編に直結する内容となっている。
1981年、パリのカトリック系ある宗派に属して隠修者として祈りの生活を始める以前の作家の創作活動期を仮に“前期”と表わすとすれば、「渺茫」は彼女のスタイルが整った第一作と言えよう。「渺茫」に読みとれる作家のいくつかの特徴を指摘して、それらが後の作品群の萌芽となっている点を以下確認したい。
なお、本書全体に関して、本書で特段の断りがないかぎり「作家」は高橋たか子を、「本編」は当該論評作品を指す。「筆者」は本拙論の筆者、藤倉である。
本編は他の諸作品と同様に、「語り手」によって内容が展開される。登場人物の心理描写や情景説明のすべては語り手によって進められる。よく言われるように、語り手は作品世界の隅々までも知悉する神の立場に立つ。作家は語り手をも相対化するような作品は作りあげていない。語り手は同時に作家その人と見てよい。したがって読者は作品を通して、作家の内面生活を見ることになる。作家の精神世界と読者のそれが何処かで共鳴した時、その作品は読者に大きな感銘を与える。反対に、作家の内面生活に同調できない時には、重厚で、細緻な心理描写は読者を混乱させる。「渺茫」はどうであろうか。
白濁した河をゆっくり胎児が流れていく。胎児は蒼ざめた表情のない顔を時折もたげ、こちらにむかって拒否するように首を左右に振った。あなたとは全く赤の他人だよ、金輪際なんのかかわりもない者だよ、とでも言っているかのようだった。胎児はまだ不定形の肉の塊にすぎなかった。だが眼だけは深くたたまれた二筋の皺のような形をなしていた。そっと薄目をあけて、その眼がそう言うのである。そして眼をとじると、ぶかぶか浮き沈みしながら流れていった。雨後のように水嵩があり濁ってはいるけれども、河は波だたず泡だたずに途方もなく間伸びした趣でうごいている。どこからともなく薄陽が射していて、水面はどんよりとした半透明な光の色をたたえていた。そんな河を胎児が流れていって、河につづく同じ色の空のなかへ消えていった。かすんだように茫々とけむっている空には何もなかった。誰もいない。
清子は居間のソファから立ち上った。
「はなれていった」
と、小さな声で言った。ただ一人でいる時にそっと呟く言葉である。(「渺茫」p113 『彼方の水音』所収 講談社 以下同文)
本編主人公、清子は病院先で流産した。麻酔からはっきり醒めきらない身体をベッドに置いて、彼女は「白濁した河をゆっくり胎児が流れ」去る光景を想った。そしてその想いは退院後の今も続いている。不定形な肉の塊にすぎない胎児がまるで一人前の意思を持っているかのように、「あなたとは全く赤の他人だよ」と「こちら」へむかって拒否するように首を左右に振って言った、というのだ。「こちら」とは何処で、誰を指しているのだろうか。清子一人を指しているのだろうか? 夫、姑と暮らす清子の家庭を指しているのだろうか。「どんよりとした半透明な光の色をたたえて」、「途方もなく間伸びした趣き」で流れる河の情景から察すれば、「こちら」とは日常生活を営む世間一般、“濁世”を言ったものであろう。
不定形な肉の塊で顔の輪郭も定まらない胎児の眼だけは、しかし、二筋の皺のような形を成していた。薄目を開けたその眼は、「あなたとは何の関係もないんだ」と告げているようであった。茫々とけむる空には何も無かった。誰もいなかった。“どんよりとした半透明な光を映した河”、“河に続く同じ色をした茫々とけむる空”—-,これが清子の現実社会を見る眼である。始まりもなく、終わりもない、ただただ流れ去って行く永劫の無意味さ、ニヒリズムという表現すらはばかれる無機質な現実という空間、大げさに言えばこれが彼女の世界認識なのである。彼女は心の深層に、ある暗い澱みを隠し持っている。この暗い澱みは彼女を何処へ導くのか—-。この設問が本編「渺茫」の主題である。
清子は夫や姑と違って、流産を悲しいとも、残念とも思っていなかった。彼女は流産した胎児を「(わたしから)はなれていった」と表していた。胎児はあたかも自分の意思をもって濁世と離別して、永劫の彼方へ去っていったのである。とは言うものの、彼女は「はなれていった」の一言を、ただ一人でいる時に、そっと小声で呟くのであった。流産を他人へ聞こえよがしに、声高に嘆くこともあるまいが、彼女はこの一言を自分へ語りかけるときにも遠慮がちに小声でささやくのであった。彼女の夫は流産を「惜しいことをしたな」といたく残念がった。義理の母親は四人の子を生み、三度堕した女で「女の腹は大地のようなもの、まだまだ無尽蔵ですよ」と清子を慰めた。夫の慰めも、義母の言葉も清子にはただ煩わしく感じられるだけだった。ここから、彼女の暗い想念の世界と彼女を取りまく実生活との葛藤が生まれる。暗い、重い心の澱みを隠しながら、実生活では夫や姑に心配りして生きているのが、清子であった。
本編主人公、清子という女性は作家の作品に常に現われる女性のプロト・タイプである。親友の赤子を盗みだす秋庭久緒(『空の果てまで』)、学友二人の自殺を幇助する鳥居哲代(「誘惑者」)、恋愛妄想が昂じて友人を殺害する久美子(『怒りの子』)、彼女らはみな、内面に煮えたぎる想いを抱きながら、現実世界との矛盾や葛藤に苦悩する女性たちであった。彼女たちは現実社会の矛盾と対決して、犯罪へ突きすすんだ。清子は彼女らの原型としてここに登場しているのだが、しかし、清子は上に挙げた主人公ほどに強烈な個性を持ってはいない。彼女は日常生活をそつなくこなしつつ、自己の暗い想念を内部にじっと抱え込んで生きている。
だから清子は日常生活に不満を抱いて、当てもなく都会の雑踏の中へ向かう。私鉄の支線を幹線に乗り換えて大都会の雑踏を歩く。だれかに会えないものだろうか、家族同士、友人同士、同僚同士等の関係性の中の人間ではなくて、いっさいの関係から切り離されて、くっきりと孤独に生きてゆく、そんな「貴男」、「貴女」に会えないものであろうか。「彼方の水音」(『彼方の水音』所収 p269)の主人公、有子によれば、血と肉の生々しい情欲を削ぎ落として、透明性のある堅固な物質へかぎりなく近づくとき、精神ははじめて肉体から自立できる。そして人は肉体性を離脱して、硬く明るい物質になったとき、はじめて救済を与えられる、と言っている。「渺茫」の清子はここまで強固な思想にはまだ到達していないが、しかし肉欲に対する、そして肉欲の延長線上にある子供に対する嫌悪は明確である。ここから、女は生殖機能を持った肉塊という考えを隠さない彼女の義母に対する憎悪が生まれる。
清子の暗い想念がどれほど反倫理的であろうと、彼女が都会の雑踏の中に「貴男」、「貴女」を求めているうちは、社会にとってそれは無害である。彼女が雑踏の中に「貴男」、「貴女」を求めることが出来ないと自覚した時、彼女の暗い想念は社会に対する復讐へと変わる。本編の清子は反倫理的な思考は持っているが、まだ反社会的な行動へは至っていない。清子が反社会的な行動へと進み出たとき、清子は「ロンリー・ウーマン」の「咲子」へ転換する。
ある朝、清子の家のそばにある雑木林へ一台の小型トラックが止まり、4~5人の男が林の奥まで入って、木を手で押したり、高さを目測したりしていた。清子が男から聞いたところによると、雑木林を全部切り倒して、アパートを建てるとの話であった。郊外の閑静な丘陵地帯に持ち家がある近所の人びとに、宅地造成の噂はすぐ伝わった。住人が集まって情報が交換されたが、地主が誰で、施工主が誰であるかも分らないまま数日過ぎるうちに、近隣の住宅を見下ろしていた雑木林は全部切り倒されてしまった。清子はやむなく市役所へ行って、実情を調べることにした。
市役所の都市計画課へははじめて行った。受付課の部屋を訊ねると案内係りは、手馴れた様子で、左手の廊下をまっすぐにお行きになると、二つ目の曲り角で右に曲ってください。それをずうっと奥までおはいりになれば階段があります。それは昇らないで、もうひとつ右にある小さな階段をお昇りになると、別棟の建物につうじています。その中二階で、もう一度おたずねくださるといい。(p126)
…と、返事がかえてきた。「左手の廊下をまっすぐに」行って、「二つ目の曲り角を右に曲って」云々というこの事務的な言い回しのなかに、筆者はなにやらカフカ文学の匂いを感じる。迷路にも似た、暗く、狭い、汚れた廊下をとぼとぼと歩いてようやく目指す事務局へ到達したと思うと、そこは目的の事務局ではなくて、下部機関であることがわかって、再び前と似た暗く狭い廊下を歩くことになる『審問』の「K」—–、形式的な煩雑さがいっそうの煩雑さを招き、到達地点は先へ、先へと延ばされる不条理さを上の引用から感じとるのは、筆者の我田引水であろうか。ついでながら、「中二階」というイメージはカフカ文学では大事な役割を果たしている。中二階だからむろん一階ではない、と言って二階でもない。一階と二階に挟まれた不恰好で、不安定な空間、ときには天井の低さが人を不安にさせる空間、これが中二階なのである。フランソワ・モ-リヤックから多大な影響を受けたと自認する高橋たか子に、はたしてフランツ・カフカからの影響というテーマが成立するのか否かについては、浅学の筆者にはにわかに断定しかねるが、上の引用に限れば、作家はカフカを意識していたのはたしかである。
清子は目指す都市計画課へたどりついた。廊下を隔てた課の前に硬いベンチがあって、清子より5~6歳年上の女性が人待ち顔ですわっていた。二人は三人がけのベンチの両端に坐を占めた。二人の間には黒い摸造皮が伸びていて、二人の間隔を程よく調整していた。二人はときどき会話を交わしたが、会話そのものよりも、その余韻を楽しむ風があった。清子はこの年上の女性になんとなく厚意を持った。相手の方も、清子に同じことを感じているらしい。清子この女性に自分のまだ「見知らぬ空間を生きているような気配」を得た。もしかしたら、この女性は私が探し求めている「貴女」の一人ではあるまいか——。
長い時間待たされて、清子はようやく担当事務員に面談できたが、彼女の訊ねたいアパートの用件はその日一日では片づかなかった。日を置いて清子が幾度も例の中二階の事務室を訪ねてようやく分ったことは、地主は市会議員で、その土地を市が買い上げて、鉄筋コンクリート四階建の市営アパートを建てる、手続きは全部済んでいるとのことであった。市側にこれだけ話が整っていては地域住民の容喙する余地はなかった。
清子は中二階の事務室を訪ねるうちに、例の年上の女性と顔見知りとなり、自然と挨拶を交わすようになった。ある時、二人は用件が十分に済まないまま、春の兆が空全体を明るくしている外を連れ立って歩いた。それから二人は郊外電車に乗って、家へ帰ることにした。車内はすいていて、空席があったが二人は坐らず、吊革を握ったまま車窓を流れる外の景色を黙って見つめていた。洗濯物がひらひらする低い家や、町工場のさびたトタン屋根や小学校のからっぽなプールを、車窓は土色に濁った川に映しながら後方へ流れていった。郊外電車はなにごともなく二人を目的の駅へ運んでいるように見えた。だが、このとき二人に異変が起こっていた。以下、長い引用になる。
(電車が)土色に濁った川をわたった時、葦の茂みにそった水面を、一艘の古びた小舟がゆるやかにのぼってくるのが見えた。乗っているのは船頭と一人の男だけだった。男は小舟の真中に突っ立って、船尾のほうに顔をむけている。清子はその時、船尾につづく水面に、ゴム引きの布のようなもので包まれて縄をぐるぐるかけられた、長く大きな不定形のものが曳かれているのに眼をとめた。
「水死人ですね」
と、女が言った。
二人は窓のほうへ前のめりになって見おろしたが、電車は川をわたりきってしまった。
「降りませんか。見に行くんです」
女は次の駅で言った。そして清子の返事を待たずにホームへ出たので、清子も思わず後にしたがった。五、六分行くと川にでた。冬枯れたままの乳色の草を踏んで、小舟の見えるところまで二人は歩いていった。堤に一台の車がとめられていた。小舟は水面へおりる石段のところにつけられようとしていた。
「家族の人かしら」
清子は小舟に乗った男のほうを指でしめした。
「刑事ですよ」
女はそっけなく言った。
「そういえば家族なんてもう要りませんものね」
女が訝しそうな顔をむけたので清子はさらに言い足した。
「ああなればもう完全ですもの」
二人は草に腰をおろした。刑事と船頭はゴム引きの布でくるんだ物体を縄の先でひっぱりあげている。車からでてきたもう一人の男がそれを手伝った。
「完全? もうおしまいといわずに完全とおっしゃる」
女は笑った。
清子は大きな水溜りのような女の眼を強く見た。
「ああならせていただくまでにはそれはそれは忍耐が」
「ならせていただく?」
今度は清子が笑った。
「そうですとも。ああなるのはむつかしいことですよね」
「自殺でしょうか」
と、清子は水死体のほうに眼をやりながら言った。
「自殺なら、どうなんですか」
女は興味ありげに訊ねかえした。
「なまなましい死なんていけませんわ」
「あれもなんだかそんな感じですね」
女はそう言って車のほうを見た。鈍重で大きな塊が、ゴム引きの布をおっとせいの肌のようにぬめらせながら車に乗せられようとしていた。(省略)
水死体をはこびさる車の音が遠ざかった後も、二人は提にぼんやり腰をおろしていた。船頭だけを乗せた古びた小舟が、濁った川をゆっくりくだっていく。櫂の音は聞えなくなり、船頭の単調な身振りだけがすこしずつ小さくなりながら反復されていった。水面の澱みになったところに、一枚の新聞紙が平たく浮いてゆらりゆららと回っていた。
「それじゃ」
と、女は立ち上った。
清子は女をもうすこし引きとめるために、なんでもいいなにか言葉をさがした。
「なにかの御縁ですね」
そう言った。(p138~141)
突然、古びた小舟が出てくる。つづいて水死人が出てくる、刑事も出てくる。坦々と推移する日常生活の中に、何の前触れもなく非日常の情景が連続する。日常が非日常と、非日常が日常と間然するところなく繋がる情景は、日常を基点とすれば幻視とも幻影ともいえる。日常が“現実”であれば、非日常は非現実的な心象風景にすぎないという考えは当然ありうる。なにが現実でなにが非現実であるのか、両者はどこで線引きされるのか等の煩瑣な議論をはじめたらきりがないので、その種の議論は全部省いて、日常生活に連続する非日常が心象風景だとして、しかし、その心象風景が重要なのである。人の深層心理に棲まう憧れ、希望、欲望、死の想念等々は心象風景という形をとって、折に触れて日常生活のなかに表出する。作家はこうしたシューレアリスムスの手法をたびたび使う。この手法が成功している場合もあるし、逆に作家の意図した内容が読者にまったく伝わらず、読者をいらだたせる場合もある。後者の例は『空の果てまで』において指摘する折がある。上の水死体の情景は、本編結末と関連して所を得た成功例ではあるまいか。引用部分の内容をすこし検討してみよう。
引用文では作家は清子の相手の女性を、単に「女」とだけ記している。とすればこの「女」はA子でもなく、B子でもない女性一般を指していると見るべきであろうか。しかし清子と会話を重ねるこの「女」には、普通に言われる世間一般の女性にない特殊な様相がみられ、清子はそのことを好ましく受け取っている。たとえばこの「女」の特殊な様相は、「水死人ですね」、「降りませんか。見に行くのです」、「刑事ですよ」等の断定に現われている。留保のない強い断定には、この「女」が何がしか独自の意見を持っているという印象を清子に与えた。だからこそ、清子は「女」にうながされて途中下車して、水死体が岸へ揚げられるのを見に行ったのであろう。
「水死体」は自殺なのであろうか、それとも事故死なのだろうか。二人が舟を見たとき、死体は布でぐるぐる巻きにされていた。清子は自殺ではあるまいかと見当をつけて、「女」に「自殺でしょうか」と話をむけた。すると、「自殺なら、どうなんです」という興味深い返事が「女」から返ってきた。常々この世に生きる意味を見いだしかねていた清子は、知り合って間がないこの「女」に自分と同じ暗い想念があるのを嗅ぎとった。そこで清子は大胆にも、「あんなになればもう完全ですもの」(傍点、筆者)と言い添えた。「完全」—-、生きるうえでの懊悩は死によって円環を閉じる。自らの意思によって円環を閉じる自殺は、苦悩からの完全な解放なのである。清子はこのように「水死人」を理解したがっている。「女」は「完全? もうおしまいといわずに完全とおっしゃる」と清子に応じた。「女」は、「水死人」を生きる上で万策を尽くしたうえでの余儀ない死、と捉えたいようである。ついでながら、作家の自殺についての拘りは尋常ではない。自殺についてなにがしか言及していない作品の方がまれである。処女作と言われている『没落風景』(1959年 27歳頃執筆)の最後の場面は、四人の大学生がアパートの一室で集団自殺を遂げる。四人は大学の「自殺研究会」の主要メンバーであった。作家は自殺についてさまざまな想いを、作中人物に語らせている。作家のこの拘りは—-推測ではあるが—-作家自身に自殺願望があったことを窺わせる。
細かな点では二人は考えを異にするであろうが、ともあれ、二人はわざわざ電車を途中で降りて、駅から五~六分歩いた堤に腰をおろして、こんな話を交わしたのであった。この会話に清子は何がしかの満足を覚えた。もしかするとこの「女」こそ、日ごろ探し求めていた「貴女」ではあるまいか—–。死体を引き上げて、舟は濁った川を音もなくゆっくりとくだっていった。二人はぼんやり川を見ていた。澱みになった水面に一枚の新聞紙が平たく浮いていた。
しばらくして「女」は「それじゃ」と言って立ち上がった。清子はもうすこし「女」と話をつづけたかったが、咄嗟のことで引きとめる言葉が思いつかなかった。かろうじて「なにかの御縁ですね」とだけ言って清子は「女」と別れた。遠ざかっていく「女」の後姿を見送りながら、清子はしかし、“おやっ”という軽い違和感にとらえられた。水死体についての「女」の思慮深い応答から判断して、「女」が日ごろの暮らしにおいても内省的で控え目で、服装の好みも地味な趣味であろうと漠然と感じていた。だから、「女」は黒のセーターを着ているとばかり思いこんでいた。だが、「女」は異性の眼を意識したかのような真っ赤なセーターであった。清子のこの想い違いは、作家が設定した伏線であって本編の結末に直結する。
ところで市営住宅の事である。冬に始まった造成工事は着実に進捗して、夏には四階建の集合住宅が二棟完成した。緑の雑木林が消えて、巨大な灰色のコンクリート壁が現われた。毎日幾組かの家族が大型トラックで家財を積んで入居して来た。一気に住民が増えた。規格化された同一の床面積、同一の間取り、どの部屋も同じ外観をもつ団地。ベランダにはにたりよったりの派手な洗濯物が吊り下がり、夜はほとんど同じ色の灯がともる空間——、建物にはなんの個性もなかった。そして規格化された空間に住む家族にも個性がなかった。その空間の中に夫婦は生温かい巣を作り、やがて子を孕み、子を産む暮らしが続く。そこに住む家族たちは、何者かから押し付けられた画一化に違和感を抱くどころか、画一化に順応して満足している。周囲から屹立する“個性”の発揮こそ、ひとに与えられた唯一の凛質であると固く信じている清子にとって、没個性的な日常は憎悪の対象であった。
巨大なコンクリートの空間が作る息苦しさから抜け出すために、清子は以前に増して街中をあてどなく歩く。一切の規格化、画一化を断ち切って、こわばった背をしっかりと伸ばして、前かがみの姿勢で強い歩みを続ける人に、清子は「貴男」と、呼びかける。手を伸ばす。男は振り返らない。「貴女」と、呼びかける。手を伸ばす。思いきり伸ばす。届かない。清子が求める「貴男」、「貴女」は遠く、遠く、あまりにも遠くにいるらしい。その隔たりを清子は、“渺茫”と意識せざるをえなかった。
ある暑い日曜日の昼過ぎ、清子の夫がめずらしく庭先で大工仕事をしていた。義母も機嫌よく台所にいるようだった。清子は玄関先を掃除していた。見たことのある女性が手を振りながらこちらへ近づいてくる。夏の暑い照り返しを受けながら、サンダルをはいた小さな足が重たげな身体をのろのろと運んでくる。「お宅はここでしたの? なにかのご縁ですね」と女は言った。清子は驚いた。あの女だった。女の話では、市役所の例の中二階の吏員の手ずるでうまく団地に入居できたのだが、その吏員が実は、女の「主人」でもあった。
「すこし早すぎるんですけど、そら、もうすぐなんです」
女はそう言って、右手で腹をおさえた。ゆるやかな筒形のドレスにかくされていた、下腹部の大きな膨らみがあらわれた。
「あなたが?」
と、清子は低く言った。
「私だって仕合わせになれそうですわ」
「仕合わせ?」
耳馴れない言葉のように清子はそれを口にした。その言葉もまたいつの頃からか清子の用語のなかに無くなっていた。
「いまからだってどんどん産みます」
「そうでしたの、あなたは」(p159)
数少ない「貴女」として選びとったはずのこの女が、よりにもよって「繁殖」に連なっていたのだ。清子は裏切られたと言う思いを強く持った。女の夫である例の吏員が団地の路を下りてきて、清子に挨拶した。三人の声を聞きつけて義母が玄関を出て挨拶しに来た。義母は初対面の二人に饒舌であった。<御新婚さんですか、なんとなくそんな>、<それに、奥さまはどうやらおめでたらしいし、ほほ>、<うちは残念なことをしましてね、初めての子でしたが>、<ええ、女の腹は大地といいまして。来年あたりまたできましょう>。 清子の夫も大工仕事の手を休めて話しに加わった。
清子は四人の輪にはいらず足許をじっと見ていた。夏の暑い日射しが庭にまで延びている。清子の視線はそれを追って日曜大工の工具箱で止まった。鋸、ハンマー、釘、かんな、のみ、ドリル—-、
そう、あれだ、ドリルがいい。清子は手をのばす。そっとドリルをつかみ取る。眼の前に女の黄色いサック・ドレスが垂れていた。その下腹部がゆるやかな曲線を描いてせりだしていた。清子はドリルの先を女の腹にあてる。右手でハンドルをまわしはじめる。ぎりぎりと強くまわす。螺旋状に刃の巻いた金属の細棒が、女の皮膚をつき破り、その奥の子宮を切りこんでいく。繁殖は存在のほろびなのだから。清子は手に力をこめる。ドリルをまわす。女の子宮を胎児もろとも螺旋状にえぐっていく。(p163)
短編小説の出来は結末の首尾にかかっている。簡潔な作品の構成、単純な人物の輪郭、直截なストーリー、そして意想外な結末、それらによって短編は人生の実相を一閃描き取る。高橋たか子は他の短編家と同様に、特に結末に意匠を凝らしている。たとえば「ロンリー・ウーマン」、「お告げ」(『ロンリー・ウーマン』所収)の結末は読者に強い印象を与えて終わっている。結末の意外性、これがこの作家の特徴の一つでもある。それにしても、本編のこの結末はどうであろうか! 産み月の妊婦の腹にドリルで孔を開けるという、猟奇な妄想は作家の暗い想念の激しさ、自己の内面を凝視する作家の執念の激しさと重なっている。作家は自己の内面を見つづけ、その奥に暗々とした悪を発見したのである。自己の内部に棲まう“悪”への凝視、これこそがこの作家のメインテーマになっていく。
はたして清子は「あの人」に会うことができたのであろうか。出来はしない。なぜなら清子が理想としたあらまほしき人は、イデアの世界の住人である。それが過不足なく実現することはありえない。清子はそれを十分自覚している。だからこそ、本編の最終行は、「貴男、と呼びかける。貴女、と手をのばす。なんと渺茫たるひろがりだろう」で終わっている。しかしながら、あらまほしき人がイデアの住人であればあるほど、清子の内面に鬱積する暗い想念は激しさをます。清子の反倫理的な暗い想念が激しさをまして、心中に留おくことができなくなったとき、作家が描く登場人物は“現実”へ一歩踏みだす。作家は“反社会的”な人物の創造へ向かうであろう。
本編はまとまりの良い仕上がりになっているが、難点を言えば「女」の描きかたである。前半で清子は「女」に好意をよせた。清子の好意にはそれなりの理由があった。後半、臨月の「女」は凡俗な女性として、清子の前に現われる。「女」の変貌が外観描写だけに頼ったために、「女」が「貴女」から突然俗物へ転化したという印象をまぬがれない。
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