「権」と「利」と「理」――権利の3要素
- 2011年 2月 7日
- 評論・紹介・意見
- 宇井 宙権利の3要素
はじめに
遅ればせながら、松野町夫氏の「権利と right -権利は「権理」としたほうがよい-」を拝読しました。私は20年ほど前、大学のある授業で、「「権利」という訳語は「権理」と訳すべきだった」という話を聞いたことがあり、その先生の推薦で柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)も読んでいたのと、その後も別の人の著作で同様の指摘を読んだことがあったので、松野氏の論説のタイトルを見ても、特に目新しい説とは思わず、中身を読まずに放置していたのですが、その後何人かの方のコメントが出たのを拝読し、改めて松野氏の論説を拝読した次第です。
1.「権」と「理」、あるいは力と正義
まず、「「権利」は、英語の「ライト」“right” を翻訳したことばである」とあり、その通りではありますが、アメリカ一辺倒・英語一辺倒になってしまった第2次大戦後の日本と異なり、幕末~明治初期の日本は、西洋思想の輸入に関して、英独仏蘭などある種の多言語・多文化主義を採用していたため、「権利」という言葉が、英語の “right”だけでなく、 “droit”(仏)、 “Recht”(独)、 “regt”(蘭)などの訳語でもあったということにも留意すべきでしょう。そして、これらの言葉がいずれも形容詞としては「正しい」という意味を持っていること、また、英語では「権利」を意味する “right” と「法」を意味する “law”とは別の言葉ですが、フランス語、ドイツ語、オランダ語では、 “droit”, “Recht”, “regt” が同時に「法」という意味も持っており、さらにドイツ語の “Recht” とオランダ語の “regt” には「正義」という意味もある、ということにも留意が必要でしょう。また、近世までのヨーロッパにおける「共通言語」であったラテン語においても、 “jus” は「権利」と同時に「法」をも意味します。つまり、これらの西洋語においては、「権利」は「法」とともに正しさへの志向性、すなわち正義要求を内包していることがわかります。
一例として、19世紀後半のドイツの公法学者イェーリングの古典『権利のための闘争』を取り上げれば、その邦訳(村上淳一訳、岩波文庫)の中では、「世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである」というように、「Recht」の訳語として随所に「権利=法」という表現が見られます。訳者によれば、これは「Recht」が権利と法の両義を持っている場合であるが、他方で、権利のみを指す場合には「主観的意味におけるRecht」、法のみを指す場合には「客観的に意味におけるRecht」という言い方も使われているようです。
しかるに、日本語の訳語である「権利」という言葉は、力を意味する「権」と利益を表す「利」とから成り立っており、 “right” ( “dorit”, “Recht”, “regt”, “jus” )の本来の意味である「正しさ」を表す言葉がどこにもありません。後述するように、もしかすると「権利」を構成するかもしれない「力」「利益」「正しさ」の3要素のうち、最も中心的な「正しさ」を表す文字がなく、「力」と「利益」という“最悪の”組み合わせになっているのです。そこで、「正しさ」を含意する「理」を「利」に代えて「権理」という訳語を使おうという松野氏のご意見ももっともです。
しかし、力を意味する「権」の文字についてはどうなのでしょうか? この点について、松野氏は、「「権」には、どこか力づくの押しつけがましさがあるが、法律には強制力がつきものなので、ま、これは一応認めることにしよう」と、割合あっさり肯定されています。ところが、柳父氏はこの点に関して、「rightは、西欧思想史上、むしろ力とは、厳しく対立する意味のことばであった」として、「権」という語とrightとの意味のずれに拘っておられます。両者の立場の違いは何に由来するのでしょうか? 私見では、松野氏が端的に法的権利を想定しているのに対して、柳父氏はむしろrightの道徳的権利としての側面を考察しているように思われます。この問題は、実定法と自然法との対立、法実証主義と自然法思想の対立にもつながっていく問題のように思われますが、ここではそこまで論じる余裕はありませんが、「権利」概念における「力」と「正義」の関係について、もう少し見ておきましょう。
さきほど取り上げた『権利のための闘争』の中でイェーリングは、「片手に権利=法を量るための秤をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。秤を伴わない剣は裸の実力を、剣を伴わない秤は権利=法の無力を意味する。二つの要素は表裏一体をなすべきものであり、正義の女神が剣をとる力と、秤を操る技とのバランスがとれている場合にのみ、完全な権利=法状態が実現されることになる」と述べています。つまり、力と正義の両者のバランスがとれてはじめて権利=法状態が実現されると説いているわけです。しかし、このことはもちろん、力と正義のバランスが常に保たれていることを意味しているわけではなく、むしろそうしたバランスをとるのが至難の業であることを含意しているとも言えるでしょう。
2.「利」と「理」、あるいは利益と正義
それでは次に権利における利益と正義の要素については考えてみましょう。権利の本質は何かをめぐっては、伝統的に意志説と利益説が対立してきましたが、意志説によれば、権利主体の意志の支配領域を確保するところに権利の本質があり、権利の正当化根拠は意志の自律であるとされるのに対し、利益説によれば、権利者の利益を保護するところに権利の本質があり、権利の正当化根拠は保護利益の重要性であるとされています。したがって、少なくとも利益説に立つ限りは権利と利益とは密接な関係があることになります。この意味では、権利は権利主体の利益を保護するためのものだと言えそうですが、それでは権利は既得権や利権やごね得といった利己主義的利益の保護まで要求しうるものなのでしょうか?
法哲学者の井上達夫氏によれば、そうではない、と言われます。権利概念はその西洋諸語に見られるように、「正しさ」=正義理念を内包しており、正義理念は権利主張の公共的正当化可能性を内在的制約として要求しているのです。どういうことかといえば、たとえ権利が権利主体の利益要求であるとしても、その利益要求が、自己の特殊利害や特異信念を超えた公共的理由によって正当化可能な要求である場合にのみ、権利の地位を獲得できるというのです。公共的理由によって正当化可能であるとは、自他の視点を反転させたとしてもなお受容しうべき理由によって正当化可能であるということであり、そのような普遍化可能性・反転可能性テストをパスしうるか否かが権利と利己主義的利益要求とを分かつメルクマールとなる、というのです(『現代倫理学事典』の「権利」の項参照)。つまり、権利が利益と関係しているとしても、それは、権利概念自体に内在している正義や公共性といった理念による内在的制約を受けた利益である、ということに注意しなければならないのです。イェーリングが「権利の存立のためには不法に対する勇敢な抵抗が必要である」としたうえで、そのような抵抗、すなわち「権利のための闘争」は、「権利者の自分自身に対する義務である」と同時に、「国家共同体に対する義務である」と述べているのは、権利が決して自己の利己主義的利益の追求などではなく、むしろ場合によっては、自己利益を犠牲にしてでも権利(主観的意味におけるRecht)のための闘争を行うことが同時に、他者の権利をも等しく保障する「法(客観的意味におけるRecht)のための闘争」としての意義を有することを明らかにしていると言えるでしょう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0329:110207〕
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