家族主義に関わる雑感(御返信)続
- 2016年 8月 17日
- 交流の広場
- 熊王 信之
中野@貴州 様。
日本を含めて、東洋では、欧米諸国のように王侯士族から自身の権利を奪い取って来た歴史がありません。
民主主義とは、一般民衆の戦いの歴史であり、それら王侯士族から奪い取った経過も含む自身の権利は、全て文書にされ、今も一般民衆の権利主張の典拠とされるのです。
従って、例えば英国では、国家の根本規範である憲法典は存在しません。 諸外国で制定される処の憲法典は、英国の場合には、マグナカルタ等の古文書、裁判所の判例集、議会の典例等、更には慣習等、の諸種の文典として存在しますが、憲法典は、存在しないのです。 言わば、歴史そのものが憲法なのです。 英国憲法の解説書で謂われる処の「英国は、憲法を持つが、憲法典は持たない」と言うもので、別言すれば「不文憲法」なのです。
そのような、言わば、権利主張の強い社会では、争訟等において、特徴的ですが、自身の権利を徹底的に主張し尽すのが普通です。
その例を他に挙げれば、契約締結の折です。 あらゆる契約交渉時には、既に、各自の権利主張の戦いは前哨戦の如く始まっている訳で、その結果、英米を中心に欧米の契約書には、日本とは違う一定の特徴があります。
それは、日本の一般的な契約書の如く「甲乙協議条項」が無い、ということです。
それは、どう言うことか、と言いますと、当該契約に伴う、凡そ想定されるあらゆる場合を契約書中に書き込む、と言うものです。 その結果、当該契約文書に定めの無い事項に関しては、甲乙で協議して対応を決める、と言う一項を書き込む必要が無い、と言う恐ろしく精密で、膨大な契約書に為る訳です。
その結果は、欧米との輸出入契約で、変事が生じた折には、日本企業は、次々と敗北してしまった、と言う無残なものです。
以上は、80年代の話題の著書、田中 斎治・上野 幹夫 両氏著「契約意識と文章表現―契約書にみる和魂洋才」からの要点・引き写しです。 専門書なのに一般の評判が良かった著書で、何度か読み直したことがあります。
人治、法治を問わず、凡そ、「治」を考える折には、その社会の成立ちと歴史、その中で育まれた人々の権利意識等の考究が要るのでしょう。
処で、中国では、契約文書中に、「甲乙協議事項」があるのでしょうか?
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