2003年対イラク戦争前夜のセルビアにおけるアメリカ外交官の暗(明)躍
- 2016年 10月 23日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
W.モンゴメリーなるアメリカ元外交官がいる。駐ブルガリア(1993~96年)、駐クロアチア(~2000年)、駐セルビア(~2004年)のアメリカ大使であった。78日間にわたる対セルビアNATO大空爆(1999年3月24日~6月9日)をどうにかしのぎきったセルビア大統領ミロシェヴィチを隣国の首都ブタペストに拠点を構えたW.モンゴメリーが見事に失脚させた謀略事件に関する彼自身の成功譚については、「ちきゅう座」「時代をみる」の2010年11月16日と12月5日で紹介してある。
ここでは、元アメリカ外交官のもう一つの自慢話を関心ある人々にお知らせしたい。材料は、彼の著書Kad Ovacije Utihnu Borba s demokratskom tranzicijom、DAN GRAF、Beograd、2010、『歓呼が静まる時 民主的移行との格闘』(ダングラフ社、ベオグラード2010年)の第11章「イラク」である。(pp.143-150)
ミロシェヴィチを逮捕し、2001年6月28日にハーグ戦犯法廷に彼の身柄を空輸したその翌年2002年10月に事件の発端が起こった。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)に駐屯するSFOR(1996年1月~2005年12月、BiHの平和秩序を維持するNATO管轄下の多国合同軍)部隊がビイェリナ(BiHのセルビア人共和国の町、セルビア共和国に隣接)にある軍事工場「オラオ」を捜索した。そこでロシア製軍用航空機の予備部品とそれに関する諸文書を発見した。「オラオ」工場は、軍用機を修繕し、ベオグラードに本社のある国営貿易会社「ユーゴインポルト」を介して、サダム・フセインに送り出すことになっていた。
これは、アメリカにとって重大な発見だ。セルビアが国連の対イラク武器禁輸をひそかに侵犯している事の具体的証拠だ。「数ヶ月先に」対イラク戦を始めようとしているアメリカと他の諸国にとって、「爆発的」ニュースとなろう。このニュースがアメリカのタカ派やメディアに知られたら、自分がDOS(セルビア民主反対派、反ミロシェヴィチの19諸党派の連合体)と共に創り上げた、新生の民主主義的・市民主義的セルビアのイメージがアメリカ国内で大変に傷つく。そうなったら、新政権への援助も困難となる。
このように考えて、駐セルビア・アメリカ大使は、DOS政権内の最も親しい一人物にただちに会った。「軍用装備のイラクへの輸出に関する生々しく具体的な情報を何でもすべて私に提出するように要求した。」(p.145)
わずか数時間後に、二つの文書がとどけられた。第1は、ミロシェヴィチ政権が1999年にイラクに提案した軍事協力の諸可能事項に関する100頁。第2は、1999年にバグダードを訪問した新ユーゴスラヴィア(セルビアとモンテ・ネグロの連邦国家)代表団の議事録。
アメリカ大使は、二つの証拠文献をもって、対外経済協力相ミロリゥブ・ラブスと首相ゾラン・ジンジチに別々に直談判した。この問題の処理如何に対米関係がかかっている。アメリカで知られたら、「爆発的」さわぎとなる。そうなる前に、禍を転じて福となすように行動しなさい。具体的に言えば、セルビアがこれまでイラクとの間でやって来たことすべて、今もやっていることすべてを断ち切るように勧告した。今日中に決定しなさい。首相と経済協力相の二人は、すぐに納得した。そして、アメリカ大使にとって、信じ難いことだったが、二人は、「オラオ」工場の問題は、軍を統制するコシトゥニツァ大統領に責任がある、と大統領を非難した。
アメリカ大使館の政治担当グレン・チェヴィチと駐在武官マイク・マーティネズがこの問題の実地調査を実行した。彼らは、数十人の政府高官と企業長=社長達と面談した。関係する諸企業や諸代理店は、どんな書類・文書も出したがらなかった。しかし、多くの場合、DOS政府高官が個人的に経営者達を説得して書類・記録を提出させた。かくして、DOSのセルビア政府は、「ユーゴインポルト」社長ヨヴァン・チェコヴィチと新ユーゴスラヴィア軍の武器産業を担当する防衛副大臣イヴァン・ジョキチを解任した。またバグダード事務所を閉鎖した。
アメリカ大使は、セルビアが問題ある国々へ武器を輸出する事に関してアメリカ大使館が意見・勧告・コメントを出すことの出来る手続ルートの形成に参加した。「時に私達の勧告は、(決して命令ではなかったが、)強力であった。『そんなことしないでね。お願いします。』と言うことだ。」(p.148)更に、専門家チームを派遣して、セルビアが「武器輸出監視システム」を確立するのを手助けした。
この武器輸出問題調査の過程でチェヴィチとマーティネズは、多くの関連文書を発見した。セルビアが近東において、イラクにおいて建設産業の輸出に積極的であった事が判明した。「彼らは、セルビアの多くの建設会社のアルヒーフを調査して、あらゆる種類の建物と地下掩蔽壕の青写真、設計図、技術詳細、附属文書を見付け出した。私達の空軍と陸軍が行っていたイラクにおける起こり得る衝突に対する準備作業にとって本質的に重要であると思われる諸文書の量が余りにも厖大だったので、私達の軍は、諸文書のつまったトランクを運び出すのに、輸送機を一機ベオグラードに差し向けねばならなかったほどだ。」(pp.148-149)
以上が自分の実行した最も成功した作戦であるとアメリカ大使が高言する事件の概要である。御覧のように、作戦成功にとって、セルビアの市民主義・民主主義の政治家達の協力が必要条件であった。ジンジチ首相とモンゴメリー大使は、隣近所に生活しており、家族ぐるみの交際をし、日頃徒歩で訪ね合う間柄であった。そのほかに、「反ミロシェヴィチ・カンパニアの相続財産として、私達から莫大な支援を得ていた。(セルビアは2001年に1億ドルを、小さなモンテ・ネグロは8700万ドルを得ていた。)」(p.122 丸カッコ内も原文) ちなみにセルビアの人口は710万人、モンテ・ネグロは65万である。いかにアメリカがミロシェヴィチ打倒のために金を使ったかがわかる。この金力の効力がまだ市民主義・民主主義の政治家達の間に生きていた2002年だからこそ、この作戦が成功したとも言えよう。
それ故に、コシトゥニツァ大統領のようなセルビアのNATO加盟反対をかかげ、アメリカ金力の外側の人物が実力を持っていたら、モンゴメリー大使の成功はあやうかったかも知れあない。コシトゥニツァは、自他ともに認める民族主義・民主主義の政治家である。
平成28年10月23日(日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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