テレビのことを気にかけながら一日中考えていたこと
- 2011年 2月 25日
- 評論・紹介・意見
- 「自己決定権の樹立」三上 治構成的権力
テレビのことを気にかけながら一日中考えていたこと(一)
ちょいとした外出でもテレビのことが気になる。むかしまだ熱烈な巨人ファンだったころは野球の結果が気になって腰が落ち着かないことがあったが今は違う。そうなのだ。リビア等のことが気になって仕方がなかったのである。もう革命というか、カダフィ独裁の打倒に行くと思うが…やはり気になる。
次のニュースまでには帰ろうとして外出した。夕飯の準備も兼ねてのことだが三軒茶屋の方までの歩きついでにキャロットタワーの展望台まで上った。いくらか靄がかかっていたが暮れなずむ暮色のなかの富士さんは綺麗だった。夕暮れ時に僕の住むところからでも富士さんは見えるがことのほか美しかった。こういう感傷とは別に頭にはリビアのことが浮かんでは消え、消えては浮かんでいたのだった。
日本の政治の動きだってなかなかわからないのに中近東でのことなんて分からないに違いないのだというのが不断に沸き起こることではあるが、頭はいつの間にかこの伝えられる動きを分析している。これは一種の病みたなものなのだろうと思いながら自然と考えが行きつくところは1960年代から1970年の季節に流行った理念などだった。例えば、当時に民族解放―社会主義という言葉やイメージだった。これらの視線というか認識への反省を含めていろいろのことが浮かんだのだのである。僕らが子供のころはかつて西欧の植民地であった地域では民族解放運動が伝えられていた。西欧諸国の帝国主義的支配から脱しようとした運動は共感を呼び起こすものだった。これらはアジア―アフリカの民族解放運動として現れ、国家の独立として結果した。この解放運動はナショナリズムを伴う革命として期待もされた。1970年のころはこの運動はアメリカのベトナム戦争を介在して反帝国主義―第三世界の革命として発展するかのように思われていた。だが、民族解放闘争を経て独立した諸国は軍事独裁か宗教的原理主義の支配するところとなった。ちょうどソ連や中国などが社会主義の名の下に専制的―独裁的権力を保持に結果したのと類似している。これらの旧植民地地域、あるいは非西欧的地域でのナショナリズムの革命は民族解放―社会主義へ発展するという期待にもかかわらず、専制的―独裁的権力国家に収斂してきた。今、これらの地域で政治権力(統治権力)の専制的―独裁的なあり方に抗する運動が津波のように広がっている。僕はこれをこれらの地域の特殊なことではなく、政治権力の在り方をめぐって世界史に生じていることとして理解している。これは共時的に世界においてあることなのだ。
(2月22日)
テレビのことを気にかけながら一日中考えていたこと(二)
リビアの動きを中心に中近東での民衆の専制的―独裁的権力に対する抵抗が伝えられ中で、自分の記憶にあるかつての像とは明らかに異なると思えるものがある。一つは外国からの支配(帝国主義の植民地支配と呼ばれていた)に抗してナショナリズム(民族解放)に結集して行く動きではないことがある。専制的―独裁的な政治権力に抗して民衆(大衆)の動きであるということだ。それにもう一つは何らかの政党や団体(例えば民族解放戦線など)が中心になってこれがあるのではなくネットメディア(ソーシヤルメディア)がその役割を担っていることである。メディアをも含めて近代的な前衛的なもの《政党、学校、メディア》などが主要な役割を果たしているのではないのである。
独裁的―専制的権力の支配から解放されるものとして民主制的なもの、あるいは真に立憲的なものの樹立が言われているが、これは現在のところそのような言葉しかないためである。これは民衆の自己権力の登場という意味合いで構成的権力の登場というべきである。民衆(大衆)の意思が権力の主体になるという意味での構成的権力の具現というべきである。これは世界史的なものであって、先進地域での政権交代などの動きと共時的にあるのだ。そしてこの構成的権力が構成された権力(構成的権力を代表するもの、革命的権力)との間で矛盾を持って現象してきたことはフランス革命以来のことである。中近東でのナショナリズムの革命が軍事独裁などに結果したことをあげてもいい。この構成的権力の登場としての革命と革命後の権力(構成された権力)の間の矛盾をどう解決して行くかは世界的課題であると共に思想的には未知に属することである。僕らが中近東の民衆の動きに期待を寄せると同時にかつての轍を踏まぬことを祈るのもこうした世界的課題を考えているからだ。つまるところ政権交代後のオバマ政権や日本の民主党政権への失望と同じことが訪れることを危惧もしている。非西欧的地域の統治権力が専制的―独裁的な構造から脱していくためには近代西欧の思想制度に到達すべきであるという見解がある。統治権力の近代化である。歴史的な段階として統治権力の近代的段階と非近代段階があり、非西欧的諸国は独立国家になったが非近代的段階にあり近代的段階をめざすべきだというのだ。アメリカが中近東の「自由化や民主化」というときこれを指している。民主党政権の面々が自由や民主主義という価値観を共有した国家というとき統治権力の近代化を達成している国家という文脈でこれを使っている。この見解は何処に問題があるのだろうか(?)
(2月24日)
テレビのことを気にかけながら一日中考えていたこと(三)
僕は中近東での民衆の行動を伝え聞きながらこの間の沖縄の人々の行動のことを考えた。中里効は沖縄の人々の動きを「自己決定権の樹立」に理念化しながら、構成的権力の登場として世界史に連動していると述べていた。示唆に富む優れた見解として記憶に残る。何故に彼らは「民主主義」ということではなく、「自己決定権の樹立」と言う言葉を使うのか。これには理由がある。日本やアメリカは「統治権力の近代化=自由化や民主化」にある国家だと民主党の面々が言う時、彼らは沖縄の人々の意思(意識)である自由や民主主義とは違っていることを知っているからだ。同じ、自由や民主主義という言葉を使っていても明らかに異なるのである。
「近代化された統治権力」はそれを生み出した民衆(大衆)の意思(意識)にある自由や民主主義の意識や感覚(現存の意識や感覚)とは違う。制度として現象する近代化された統治権力は構成された権力である。そして日本も含むかつての非西欧地域ではこれは近代西欧の思想制度として移入されたものである。ここで歴史的には二つの問題が生まれた。非西欧地域では「統治権力の近代化」を受け入れても大なり小なり、非近代的な統治権力を存続させなければならなかった。日本の近代における天皇制(アジア的専制)の存在はその代表例と言えるかもしれない。もう一つは自由や民主主義と言ったところで、違う意味があることであり、これは先のところで構成的権力と構成された権力の違いと言ったことである。この違いを考えるとき「近代化させた統治権力」というのも民衆の意識としてあるものと、制度としてあるものとは違うということだ。僕は日本などの非西欧的地域では非近代的な統治権力が独裁や専制を生み出しやすいことと近代化された統治権力の矛盾(違った意味)に留意する必要がある。「近代化された統治権力」が民衆(大衆)の自由で民主的な意識や意思を抑圧し、それを疎外するというところがあるのだ。日本やアメリカの政権への国民に反発、沖縄の人々が「自己決定権の樹立」ということを言わなければならないところを考えればよく分かる。構成的権力として歴史的登場した民衆の意思(民主制的意思)は構成された権力として一度も現れてはいない。西欧の近代思想制度は構成された権力であって、民衆の意思とは違っていたのだ。構成的権力の世界的登場(共時的存在)の中で「近代化された統治権力」という近代思想も相対化される段階にある。構成的権力(民衆の意思)を実現できる構成された権力の登場は世界的な課題である。
(2月25日)
テレビのことを気にかけながら一日中考えていたこと(四)
「占領政策成功例の日本かアメリカに従(つ)きイラクへも行く」(『雪月の家』田宮朋子)。最近の楽しみは散歩のついでにブックオフという古本屋に寄ることだが、この歌はそこで見つけた本から拾ったものだが僕は作者のことは知らない。中近東におけるアメリカの動向を考えていたので引用させてもらった。アメリカのブッシュ政権はイラク侵攻の理由として「イラクの自由化や民主化」を掲げた。また中近東の自由化や民主化をも。一方でチュジニアやエジプト、バルーンなどの専制―独裁国家を支持していた。それらの地域で権力の変革をめざす民衆の行動が起きていることを思えば矛盾に満ちたものである。
「統治権力の自由化や民主化」をアメリカは地域紛争やテロの解決として提起しているのだが、ここには非西欧地域の非近代統治権力は近代の西欧の思想制度に到達すべきであるとい思想がある。確かに非西欧地域には歴史的に見たときにアジア的段階というべき統治権力の形態を残し、それが専制的―独裁的権力の存在と結びついてきたことはある。だが、明瞭にすべきことは構成的権力(民衆の自己権力)が統治権力の主体になるべきとする思想は普遍的で世界的なものであるが、その制度的表現として現れた近代の統治権力形態(ヨーロッパ近代制度)は相対的であり、世界的なものではないということだ。これは僕が構成的権力としての自由や民主主義と構成された権力としての自由や民主主義とは同じではないし、違いものだと述べたことでもある。アメリカの矛盾は「近代化された統治権力」をそのまま普遍的で世界的なものとしていることだが、これはアメリカが世界的権力として自己の存在を保持する上でのイデオロギーに過ぎない。これは日本やドイツに占領政策として押し付けたものであり、成功例としてイラクなどに広めようとしているものだ。だが、日本の占領政策が成功裏に見えるのは民主化の表面で裏では天皇制下の官僚支配を温存させてきたためであり、これはアメリカが独裁国家を支援してきたこととさして変わりはしないのである。僕らがかつて「戦後民主主義」を批判し、構成的権力の視座からこの変革をめざしたのもここに理由があった。アメリカは日本の占領政策を成功例として世界に広げようとするが、それは世界権力としての振舞いであり、民衆の「自由や民主主義」とは矛盾するものだ。アメリカは世界に近代的統治権力を押し付けるのではなく、自国で存在している国民の意思や意識とこのイデオロギーの矛盾に注視、そこから世界的な民衆の構成的権力としての登場に連なる道を見出すべきである。
(2月25日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0353 :110225〕
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