【追悼】[塩川喜信] 砂川から六〇年、共に歩む ――塩川喜信を偲ぶ
- 2016年 10月 29日
- ちきゅう座からのお知らせ
- 土屋源太郎塩川喜信
「オニギリ」をリヤカーで運んできた
塩川と最初に出会ったのは、1956年夏砂川闘争の現場でした。
米ソの冷戦が激化するなか、抑止力の名のもとで近代兵器の開発競争が激化し、核実験なども進められ、核兵器を搭載する大型、長距離爆撃機が作られ、滑走路の延長が必要となり、立川米軍飛行場拡張のため農民の土地収用が強制的に行われようとしました。これを阻止するための地元の農民たちが立ち上がり、その支援のために全学連も反対闘争に参加したのです。
私たち学生は砂川中学の講堂で泊り込んでいました。そこにリヤカーに「オニギリ」「味噌汁」「つけ物」などを運んで来た人たちの先頭にいたのが塩川でした。女子学生と一緒に楽しそうでした。
塩川の第一印象は、明るくてなんとなくさわやかで美青年、当時の活動家にはないタイプに思えました。
砂川闘争の総括をめぐり全学連書記局では対立が発生しました。書記局の高野秀夫、都学連委員長の牧哀が、1000人からの負傷者を出した闘争は極左的だ、総評にうまく使われて踊らされたなど批判が出され、共産党中央もそれを支持したので激しい論争になり、その結果高野、牧は退任することになりました。全学連、都学連の再建が必要となり、たまたま私が都学連委員長に選出され、塩川が副委員長となって再会し、今日までともに歩んできました。
塩川は「理論家」「作戦家」だけではなく理解力も秀れ平衡感覚にも優れ読書家でもあり、なによりも彼の人柄は、明るくて素直で正義感にあふれ、だれもが信頼し、彼を支えるために人が集まってくるタイプでした。もちろん動くことが好きなバリバリの活動家でした。
都学連執行部は、都内の大学のオルグを担当するので、塩川は学芸大、都立大など数校担当しました。学芸大は女子学生も多く塩川ファンが多く大変もてました。都学連で取り組んだ闘争は、1957年米軍基地内に侵入した砂川闘争、教育三法反対闘争、原水爆禁止の署名活動、アメリカ大使館、イギリス大使館への抗議デモ、ソ連の核実験に抗議など、いろいろありました。狸穴のソ連大使館にもデモを行いました。
都学連の五人組、山西英一先生に学ぶ
1957年7月岸首相が60年安保改定の事前協議のため渡米することになり、アメリカ大使館に安保破棄を要請する抗議行動をすることが決定されました。前日の書記局会議で、明日は無届デモであり抗議集団をしっかり守ること、塩川はデモ指揮の責任者だから絶対逮捕されないようにという私の発言に対して、塩川はまかせておけと返答しました。しかし当日抗議団がアメ大の前に集まった時、突然塩川がアジ演説を始めたため、都条例違反で公安に逮捕されてしまった。東大の古賀も抗議行動中に逮捕されました。
二人の逮捕に抗議し、釈放を求め警視庁の反対道路でテントを張り、座り込みをやりましたが、夜中に大雨に降られ全員ビショぬれになりました。塩川は拘留のため一九五七年の砂川闘争には参加出来ませんでした。
1957年~1958年にかけてソ連共産党20回大会でのフルシチョフ演説、ハンガリー事件などに抗議する中で、ロシア革命の先頭に立っていたトロツキーを知り学ぼうとした折、塩川の中学の先生が山西英一さんだと知り、当時の都学連執行部の塩川、鬼塚、柴沼、吉沢、私と五人で三鷹のお宅にうかがい先生からトロツキーや第四インターの熱い話を聞き、本も読み、革共同への参加、第四インター関東ビューローの結成などを行いました。この五人は信頼できる終生の友人です。1958年11月~1959年6月まで全学連委員長塩川、書記長土屋の体制となりました。
1960年安保闘争の前後の闘い――警職法反対闘争(廃案になりました)、国労新潟闘争、三池炭鉱闘争の支援、勤評闘争などがあり、塩川は勤評闘争では和歌山大の現地闘争でバリケードを作るなど激しい闘いを指揮しました。
(この間に全学連反主流派との対決、主流派内部の対立、 共産党中央への批判と除名、革共同参加とブント創立とのかかわりなどさまざまなことが起こりました。
持続する東大闘争
塩川は1966年に東大農学部助手になり、東大闘争においては、助手共闘に参加し活躍しました。学生たちの全共闘が終息後も、東大の臨時職員たちの闘争は継続していました。塩川はこの臨職闘争にも助手として最後まで連帯して闘いました。
そして東大助手時代、また退職後もさまざまな社会運動に精力的にかかわっていきます。フォーラム90s運動、トロツキー研究所の創立、ウェブサイト「ちきゅう座」の設立とその運営、九条改憲阻止の会の立ち上げと反戦・改憲阻止闘争への参加。
(これらの多様な文化・社会・政治運動に塩川は最後まで熱心に、また中心的に取り組んでいました。)
ゆるぎない人生哲学
2008年、アメリカ国立公文書館で、砂川事件最高裁裁判中に田中最高裁長官とマッカーサー駐日アメリカ大使が米軍駐留は違憲とした伊達判決を破棄するための密議密約をした電文が発見されました。その砂川闘争の被告の私をはじめ昔の学連仲間などで日本側の情報開示を要求し、伊達判決の意義を広めるため、「伊達判決を生かす会」を結成し、塩川も共同代表となり吉沢弘久事務局長と私のなつかしい都学連トリオも復活しました。
現在の最高裁の裁判は全く公平さを欠いているため、憲法第三七条違反として再審請求を行っています。その渦中に、中心にいた塩川の死はわれわれの運動にとって大きな痛手です。
最後に塩川の人間としての素晴らしさ凄さについて話をしておきたいと思います。
その一つは東大臨時職員闘争で塩川は仲間五人と共に1974年に逮捕され、4年にわたる裁判闘争を行いました。この間大学側から再三にわたり好条件で他大学への移職の提案があり、OECDへの派遣まで提案がありましたが、自分の信念の正しさを貫き一切を拒否し、生涯助手を貫いたのです。ゆるぎない塩川の人生哲学、生きざまは素晴らしいものです。
第二は病いとの闘いです。31歳で結婚し、二ヶ月で肺結核になり九ヶ月の闘病生活をおくり、それでも四人の子供を個性的な人間に育てた夫婦愛は大変なものです。58歳で舌ガンになり、その後も食道ガン胃ガンなど五回に及ぶ手術でガンと闘った気力は凄まじいものです。
これらと闘って来たのは塩川の信念と勇気ですが、奥さんの啓子さんやお子さんたちの応援があってこそのことです。塩川もきっと感謝していることでしょう。啓子さん御苦労様でした。
塩川がいなくなったことは本当に淋しい。長い間の厚い友情ありがとう。そのうち俺もそっちに行く、その時また一緒になにかをやろう。それまではゆっくり休んでください。
さようなら、ありがとう塩川。
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