1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて(その5)
- 2016年 12月 4日
- スタディルーム
- 折原浩
- 13.「林文学部長軟禁事件」のコンテクストと意義
- 14.「沈む泥船のファッシズム」
- 15.「なにがなんでも収拾へ」の動きと「黄色ゲバルト部隊」の導入
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
そういうわけで、「10月4日事件」の「行為連関」の事実については、1968年11月4~11の「八日間団交」(世上は「林健太郎新文学部長軟禁事件」ないし「缶詰団交」)にいたるまで、文学部教授会と文学部学生とが、正式に対座し、議論を交わし、理非曲直を究明する機会は、皆無であった。学生側からは、相手方の「自己正当化」文書が、全学の弘報委員会『資料』に公表されて、少なくとも自分たち当事者の実感と主張からは懸け離れた所見が、学内「多数派」(他学部教員および学生一般) に広められ、先入観が誘発され、補強されていく事態に、不信と反感をつのらせ、相手方と直接対決して、理非曲直を明らかにする機会を、なんとしても持ちたいと、それだけ切望していたにちがいない。
ところで、11月に入ると、それまで文処分を論外として、いっさいの話し合いを拒んできた大河内執行部が退陣し、「加藤新執行部」が、こんどは「学生との話し合い」を旗印に掲げて登場した。ということは、当事者の文学部学生にとっては、前年の「10月4日事件」以来、初めて、文学部長をはじめとする文学部教員と、文学部内の教室で、文処分の事実関係に遡って「話し合い」、質疑応答によって議論を噛み合わせ、理非曲直を究明する機会の実現可能性が、やっと開けてきた、ということであろう。それが11月4~11日の「八日間団交」だったのである。
ところが、マスコミが、それがどういう機会か、会場内で何が議論されているのか、といったコンテクストと内容にはおかまいなく、興味本位に、三島由紀夫氏による「ジョニー・ウォーカー黒、差し入れ」を書き立てたり、「ハップニング合宿」と揶揄したり、なんと学内からも、丸山眞男氏らが、(同じ本郷キャンパスの隣接の建物内にある「団交」会場まで、丸山氏の研究室からはほんの200メートルたらずなのに、みずから足を運んで、学生から直接事情を聴こうともせず[33])もっぱらマスコミの報道に頼り、「不当監禁」「林文学部長にたいする人権侵害」「大学を無法地帯とする暴挙」などと、マスコミ向けとしか思えない大仰な声明をもって呼応し、注目をさらった。この声明が、早くから態度表明を期待されていた丸山眞男氏の、初の公的発言であった。ところが、そういう「内外野スタンド」の喧騒にまみれて、「『10月4日事件』の事実関係につき、初めて立ち入って議論を尽くすべき機会」という「八日間団交」の内実と意義は、それだけ霞んで、見えなくなってしまった。
他方、その間、文学部の長老教授たちは、そこはやはり当事者として「危機感」をつのらせたにちがいなく、上野・池之端の「法華クラブ」に本部を構えて、(なぜか「摩擦」事件の教員当事者・T助教授と、早くから処分に疑問を呈していた藤堂明保教授らは除外して)「密議」を凝らし、「団交」会場への出入りが自由だった文学部教員からの報告をもとに、「10月4日事件」現場の「再現」を企てたらしい。その「結論」を集約して、1968年12月1日の午前、文学部教授会名の文書「N君の処分問題について」が発表(文学部事務室で配布)された。しかし、どこからか横槍が入ったらしく、午後には配布・公開が中止された。
しかし、(12月1日午前に運良く入手できた) その文書を読むと、「10月4日事件」当日の事実経過にかんする記述が、後段の§16 で検討するとおり微妙に変更されている。ともかくも文教授会が、事実関係について、多少は立ち入った釈明を企て、8月15日に発表されていた学生側の所見と比較・対照して、「10月4日事件」当日における双方の「行為連関」を再構成するのに足る手がかりだけは、遅きに失したとはいえ、ここに初めて、半日かぎりで、全学の学生・教職員のまえに示されたのである。
後段では、この手がかりから、当の「行為連関」を再構成し、文教授会の事実誤認と、これを鵜呑みにして再考さえ怠った、加藤執行部の失態と責任を明らかにしていくであろう。加藤一郎氏は、法学部の一教員で、この法学部とは、前述のとおり、学部の理念と本来の設置目的からすれば、「特別権力」の発動による当事者への不利益処遇の事実と当否に、真っ先に関心を寄せてしかるべき「専門」部局であった。ところが、加藤一郎氏は、不勉強で、みずから公言した「再検討」を怠っており、機動隊再導入直前の1969年1月10日に「七学部 (当事者の医・薬・文、三学部を除く、非当事者性の勝る七学部の学生) 代表団」と「十項目確認書」を取り交わした時点でも、再導入後にその「解説」を書いて公表した時点でも、「文協閉会後に、退席しようとしたT教官を学生のN君が阻止しようとして、そのネクタイをつかみ、罵詈雑言をあびせた」と、10月28日文書の所見をそのまま踏襲し、明記している[34]。加藤執行部の特別輔佐を務めた(同じく法学部教員の)坂本義和氏も、後に、「学生ホール管理運営問題についての学生と教官の協議を打ち切ろうとした一教官のネクタイを、N君という学生がつかんだ」と回想-記述し、加藤氏の「文協閉会後」を「協議を打ち切ろうとした」時点に繰り上げて、わずかにくい違いを見せてはいるが、「T ⇄ N行為連関」の正確な認識を欠いている点で、加藤氏とまったく変わりはない[35]。「七学部代表団」の学生たちも、加藤執行部の政治操作に乗せられたのか、むしろ好んで便乗したのか、「同心円の外縁に侍る非当事・決定権者」群団に抱え込まれて、理非曲直と真相には目をつぶり、大学として致命的な事実誤認は不問に付した。
他学部の教員はどうか、といえば、圧倒的多数は、「なにがなんでも、煩わされまい」という「研究至上主義」の「本能」と、「組織」維持を自己目的とする「没意味」的利害関心から、全経緯を、理非曲直ではなく、もっぱら「勝敗」という「政治的」範疇で捉えていた。「医処分で『負け』、こんどは文処分でも『負ける』のか」という「厭戦」気分、あるいは「このうえ『負けて』たまるか」という「敵愾心」を、つのらせるばかりであった。
教養学部の教官懇談会や教授会で、西村秀夫氏[36]と筆者は、「全共闘が加藤執行部による『話し合い』の呼びかけに、いまのところ応じようとしないのは、この点にかぎっては双方が一致して認めているとおり、文処分問題が未決着だからで、ついてはここで、当の文処分問題を、事実関係も含め、再検討しようではないか」と提唱した。すると、つねひごろは本郷の教員よりもリベラルとの印象を受けていた駒場の教員ではあるが、「なに? 文処分の事実関係? なんでそんなことを、いま教養学部で話題にしなければならないのか? もはやそんな段階ではない!!」とざわめき、感情的反発が勝って、とても議論にならなかった。「そんなことをすれば、林文学部長の『頑張り』を『無』にしてしまうではないか?」「丸山教授らの声明を『反故』にする気か?」と口に出す人さえいた。
「あァ、これはもう沈む泥船のファッシズムだ」[37]という絶望感が、一瞬筆者の胸をよぎった。まともな科学者ならば、甲説 (教授会説) と乙説 (学生説) とが対立して、並行線をたどっているとき、双方の主張を、情報源に遡って(場合によっては「改竄」「歪曲」「誇張」「隠蔽」などの問題がないかどうか)検証したうえ、それぞれの内容を比較・対照し、どちらに理があるか、具体的に根拠を挙げて論証し、判定しようとするであろう。自分の専門領域における学問研究をとおして、そういう明晰と知的誠実のスタンスを身につけ、それが「エートス」とも化している「真正なプロフェッショナル」の科学者であるならば、自分個人にとっては専門外の問題についても、(高橋晄正・原田憲一両氏や荒瀬豊氏のように) おのずとそうした「エートス」に適うように思考し、みずからできるかぎり理非曲直を解き明かし、学内に議論を呼びかけ、「専門家」にも鑑定を乞うて、意見表明を求め、議論を重ねるはずではないか[38]。ところが、世上は「科学者」「知識人」と見なされ、「理性的に振る舞う」と思い込まれている東大教員が、ことほどさように状況に翻弄され、直近の現場に足を運んで事実を確認しようともせず、「医・文教授会→(議事録も公開されない、密室の)学部長会議・評議会→自分の所属する教授会への学部長報告」という一方的ルートの「天下り」情報と、マスコミの報道と(普段は批判的に見下している)論調とを、ほとんど「鵜呑み」にし、その時々の状況における派生的な出来事 (林健太郎氏の「頑張り」や、丸山眞男氏らのマスコミ向け発言) に引っ掛かっては、自分個人としての原因究明は怠り、事柄の本質を見失って「浮足立つ」のである。
「戦後民主主義」の最良のオピニオン・リーダーとして尊敬を集めていた丸山氏にして「このとおり」とすれば、「ましてやその他大勢においてをや!!」。筆者が、丸山氏について、「これでは、戦争前夜と戦中には、一言も『戦争反対』といえなかったわけだ」と直言すると、氏の弟子筋らしいある進歩派の教育学者が、「そりゃー、国家権力が総力を挙げて弾圧してきて、気楽にものがいえる時代ではなかったのだ」と凄んだ。「それはそうでしょう。それならあなたもいま『気楽に』発言なさったらいかがですか」と問い返すと、黙ってしまった。かれが、個人としての (つまり、「党派」「組織」の役割分担・承認・後援は想定し難い) 発言を、あえて状況に投企するのを、見聞した験しがない[39]。
そういうわけで、学内一般の政治気流は、この「八日間団交」を境に、文処分の撤回 (つまりは「政治的敗北」) 反対、というよりも文処分問題そのものの抹殺という方向に、急速に傾き始めた。そこに、出所は不明であるが、「全共闘は、『七項目要求』が『ほとんどすべて呑まれてしまった』ので、こんどは『呑み方がわるい』と言い出し、闘争そのものに固執している。これでは、いつまで経っても終わらない」という (双方の主張内容を比較・対照して、ほんとうに「呑まれた」のかどうか、自分で検証しようとはせず、「もうこのへんで、なんとか終わってほしい」という「同心円の外縁にいる形式的決定権者」大衆の「非当事者・第三者」的「収拾願望」には応える) 巧妙なデマが流れ始めた。これと「入試中止」「東大閉鎖」のキャンペーンをきっかけに、それまでキャンパス内の議論には加わろうとせず、「ネトライキ」を決め込んでいた学生大衆が、「なにがなんでも『スト解除』『授業再開』(その延長線上の『卒業証書取得』)」という (「保身-出世第一主義者」としては切実な) 利害関心に駆られて、徐々に蠢き始め、「『みんな』で渡れば怖くない」とばかり、「徒党を組み」始めた。
そこに、11月12日土曜日の夜半 (つまり、翌日曜日の新聞朝刊を編集する締め切り時刻を過ぎ、報道記事が翌々月曜日の朝刊までは載らず、見送られる公算も高い、ちょうどその頃合いを見計らって)、短い樫の棒を携え、黄色いヘルメットを着用した、明らかに訓練の行き届いた「ゲバルト部隊」が、本郷キャンパス中央図書館前に導入された。最前列には、(にわかにかき集められたにちがいない) 素人学生群を配置し、全共闘の (にわかに買い集められたにちがいない) 長ゲバ棒を持つ集団と対峙し、正面衝突した。武闘の勝敗は明らかであった。長ゲバ棒の第一撃が、最前列の素人学生群を襲っても、すかさず背後の武闘専門家が前面に躍り出てきて、長ゲバ棒の第二撃以前に、数秒間滅多打ちにし、長ゲバ棒の「烏合の衆」を追い散らした。流血の惨事であった。
社会科学研究所の藤田若雄氏、石田雄氏、農学部の原島圭二氏、西村秀夫氏、文学部学生の加納(旧姓木下)孝代さん (石田氏以外は、無教会のキリスト者) らと筆者は、翌日の夜から度々、「流血回避・非暴力連帯」のたすきをかけて、本郷キャンパス内の衝突が予想される要所に立ち、あるいは座り込んだ。怪我人が増え、重傷者も出た。そういう丸腰の人垣で衝突を避ける努力はつづけるとしても、それには限度があり、死者も出かねない。「こういう状況では、警察力の導入もやむをえない」と思った。藤田、石田、西村氏らも、同意見であった。
しかし、事態がここまで険悪になっても、加藤執行部は、文処分を再検討して「話し合い」による解決を一歩前に進めようとはしなかった。「もはやそんな段階ではない!!」「『暴力』に押されて『理非を曲げる』のか」「『毅然たる』態度をとれ」という抽象的な政治的・感情的非難のほうを虞れたのであろう。丸山氏らの声明以後、そういう政治気流が、意図された目的かどうかはともかく、にわかに強まり、学内にみなぎったことは確かである。それにたいして、わたしたちは、「理非を曲げる」どころか、「当の『理非』を、事実に即して再検討せよ、そうすることこそ、『暴力』を止める本道」と主張し、それぞれ単独者としての決意にもとづいて、身を挺して発言し、勧告していたにすぎない。
ちなみに、丸山眞男氏は、このときも現場には姿を現さなかった。その後、法学部図書館内の「明治文庫」には泊まり込んで「文化財は擁護」し、これを大義名分として加藤総長代行に機動隊導入を要請したという。丸山氏には、突き詰めれば「人命」よりも「文化」とりわけ「学問」という「形式」のほうが大切だったのであろう。後に「人生は形式です」と「凛然と言い放った」[40]そうである(事後に「人生は、そして文化は形式です」と訂正したという)。
いずれにせよ、加藤一郎総長代行も坂本義和特別輔佐も、文処分問題を、原則論的に、内容に即して再検討しようとはせず、そのために生じ、嵩じ、険悪となっている衝突に、状況論的・場当たり的に対応するのみであった。それでいて、「衝突-流血回避」を、機動隊再導入の名分には謳った。
じつは、1967年10月4日に始まる文処分の事実関係を、「科学者」として誇り高い東大教員が、「加藤執行部」の構成員はじめ、科学者として当然の手続きにしたがい、相対立する双方の主張を、情報源の検証から始めて、相互に比較・対照し、問題の発端に遡って、原因を「価値自由」[41]に究明し、文教授会の事実認識を追跡し、論証し、事実誤認があって冤罪と分かれば、当然ながら白紙撤回を求め、責任者が責任をとっていたとしたら、つまり東大が、一年余の間に、「学問の府」「理性の府」として「あたりまえのこと」をしていさえすれば、その後の経過はまったく異なり、1969年1月18~19日の機動隊再導入も、入試中止も、なされずに済んだ公算が高い。
では、どうして、そんなことがいえるのか。「済んだこと」について「もしも別様だったら」と問うこと (historical if) 自体、「ナンセンス」と主張する向きもあろう。しかし、そういう「素朴実証主義」は、既成事実を正当化して、歴史から学ぶ道を閉ざし、同じ類型の過ちにたいしてそれだけ無防備な「居直り」を補強するばかりではないか[42]。とまれ、抽象論はさておき、文処分の具体的事実に戻ろう。 [12月2日記、つづく]
[33] 筆者は、「監禁」との報道に接して驚き、本郷キャンパスに駆けつけたが、会場の入り口で文学部社会学科学生の久保真一君に会った。同君は、教養課程の学生のころから、見田宗介氏と筆者の研究室をよく訪ねてきていたので、信頼できる顔見知りであった。同君の話では、「文学部の教員は、事実関係の議論を詰めようとすると、みな逃げ出して雲隠れしてしまうので、学部長だけは居残ってもらっている。ただし、文学部教員、林健太郎氏夫人その他、関係者の出入りは自由で、林氏の健康には、青医連の医師が付き添って、特別に気を配っている」とのことであった。6月28日の大河内一男総長の大衆会見のさいにも、総長が「まず私の説明を聴いてから、質問しなさい」といって話を切り出したが、質疑応答にいたらないうちに、健康上の理由で退出した。しかしそのとき、青医連の医師は、聴衆の不満・ブーイングに逆らっても総長の退出を止めずに認めた。筆者は、この前例を思い出し、今回も青医連の医師は久保君ともども信頼できると考えて、駒場に引き返した。
[34] 加藤一郎『東大問題資料1、「七学部代表団との確認書」の解説』(1969年3月28日刊、東大出版会、pp. 75-76。
[35] 前掲『人間と国家』下、p. 11。
[36]「東大紛争」とくに文処分問題にたいする西村氏の取り組みについては、同氏著『教育をたずねて――東大闘争のなかで』(1970年、筑摩書房)参照。
[37] オルテガ・イ・ガセが、『大衆の叛逆』を公刊し、専門科学者は「学問という巻き上げ機につるされた駄馬」で「知識人」ではない、と言い切ったのは、1930年で、「大恐慌」の直後、ファッシズム・ナチズムが台頭して政権を奪う前夜であった。
[38] オルテガは、「そうではない」という。専門科学者は、自分の狭い専門領域で「そこそこの」業績を上げ、その道では「権威者」として遇され、まつり上げられると、自分には皆目分からない他の領域についても、やはりなにか「権威者」になったかのように思い込み、「自分には分からない」と正直にはいえず、愚にも付かぬ意見を「権威者」然と「まことしやかに」語るようになる、というのである。
[39] 丸山氏もその後、「自己内対話」と称して、「東大紛争」中の自分の去就について語り、氏への批判に応酬し、縷々釈明しているが、注目すべきことに、医処分・文処分のような紛争の争点にはまったく触れない。
[40] 苅部直『丸山眞男』2006、岩波新書、p. 209.
[41] 自分の「価値理念」を堅持し、その時々の「価値判断」は明確にくだしながらも、それに囚われたり、引きずられたりはせず、不都合な事実も事実として見据える、というように、「価値判断」と「事実認識」とを範疇として峻別し、緊張関係においてともに堅持する態度をいう。「没価値性」ではない。
[42] 後述のとおり、マックス・ヴェーバーによる「歴史的因果帰属の論理」の定式化と、それにもとづく比較歴史社会学の構築は、まさにこの「素朴実証主義」にたいする批判として位置づけられよう。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study793:161204〕
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