1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて(その7)
- 2016年 12月 6日
- スタディルーム
- 折原浩
- 19.残された詰め――本人の証言による「T先手」仮説の検証
*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月 にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)
さて、筆者は、文教授会「12月1日半日公開文書」の内容を、発表直後から学生側の文書内容と比較・照合し、上記の「理解社会学」的「解明」を経て、つぎの命題には、さほどの遅滞なく到達した。すなわち、「築島氏がN君に(いかなる態様であれ、ともかくも)先手を掛け」、これに「N君が後手で抗議した」という認識命題である。そして、この行為連関について、「築島氏側の先手が、かりになかったとすれば、N君が、他の教官委員とりわけ委員長の玉城氏をさしおいて、すでに扉外に出てしまった平委員の築島氏に、もっぱら行為を向けて『並外れて激しく』抗議することが、「客観的に可能」とは考えられず、その公算は低い。しかし、それにもかかわらず、じっさいには「並外れて激しい抗議」がなされ、先験的には想定可能な他の動機 (上記①②) はいずれも棄却されるので、築島氏の先手が「じっさいにあって、現実に作用した」結果、N君の後手抗議が生じた、と考えるほかはない。このようにして、「築島先手-N君後手」という「因果連関」の「明証性」も、(明証性とは区別される)「経験的妥当性empirische Gültigkeit」も、相当程度の公算をもって立証されたわけである[52]。
そこで当然、この所見を「東大紛争」の現実の状況に実践的に投企し、文処分の白紙撤回、少なくともその根本的再検討に向けて、事態の打開をはかることが、考えられようし、じっさいに考えられた。というよりも、そうすることが、上記のような「理解社会学」的動機解明と因果帰属に取り組む前提であり、目的であった。ところが、筆者には、ひとつには原則論的、いまひとつには状況論的な、躊躇があって、論証結果の公表と実践的態度表明には踏み切れず、無為に時を過ごして、1968~69年1月18~19日の機動隊再導入を迎えてしまった。
原則論的な躊躇とは、ひとつには「文化科学」(「理解科学」を個性的連関の因果帰属に適用する「現実科学」ないし「歴史科学」と、同じく「理解科学」を反復的生起に適用して一般経験則を抽出する「法則科学」)の方法論上の要請から、いまひとつは「近代市民法にもとづく裁判の審理手続き」を想定するところから、生まれるものであった。筆者は確かに、争点の文処分問題について極力「文化科学のプロフェッショナル」として対応し、教授会側の所見 (甲説) と学生側のそれ (乙説) とが相容れずに対立している状況で、「教授会メンバー」の「存在被拘束性」に翻弄されるままに、甲説を受け入れて荷担する、というのではなく、さりとて、正反対に、乙説を(かえって「過同調overconformity」気味に)擁護する、というのでもなく、双方の狭間に立つ「境界人 (マージナル・マン)」の「立ち位置」を選び、双方に「距離を取り」、双方の主張の「存在被拘束」的「誇張」「抽象化」「沈黙」「隠蔽」を見破って補正したうえ、相対立する所見内容を「価値自由」に比較・対照し、理非曲直を解き明かし、真相に迫っていこうとした。そうするうえで、先人マックス・ヴェーバーやカール・マンハイムが、かれら自身の実践のなかから紡ぎ出した方法や技法が、筆者自身の実践を孕む真相究明にも、おおいに役立ったことは、上述のとおりである。
ところが、文処分問題へのこの適用例を、さらに自己批判的に再検討すると、筆者はなるほど、双方の文書に表明されたかぎりの、「事実」にかんする主張内容は、十分に尊重し、半ば無意識裡に隠蔽されていたと思われる「事実」も含めて「解明」につとめ、双方の「恒常的(ないし類型的)習癖」にかんする「一般経験則」も援用して、「T ⇄ N行為連関」の「明証的」かつ「経験的に妥当な」「説明」にまでは首尾よく到達した。しかし、「客観的可能性」の範疇による推認命題は、事実上の生起にたいしては、やはり仮説の域を出ず、この仮説を、さらに「史実 (論) 的知識」に照らして再検証する余地が残されている。少なくとも科学者としては、それまでに到達した知の限界をわきまえずに、「完全知」「全体知」に絶対化する「科学迷信」に陥ってはならない。そこには、「すべては疑いうる」「もっともラディカルな懐疑が認識の父である」という学問の要請と、「疑う余地のない確信・自己確信」にしたがうかのように振る舞うのが有効という政治の要諦との、架橋し難い深淵がある。
とりわけ、「築島先手」という肝要な一点については、前後の状況証拠にもとづく推論を重ね、上記のとおり「現実になされた」と推認するほかはない、と考えるにしても、なお「史実(論)的知識」による検証を詰め、証拠を固める必要があった。当時は存命の築島氏本人に、「先手を掛けたのかどうか」と問い、氏自身の証言によって「半日公開文書」の最後の空隙を埋める段取りである。「紛争」の渦中とあって、大きな困難が予想されるとしても、絶対に不可能なことではない。
「文化科学」の方法論の問題に一般化していえば、狭義の「歴史科学」においては、過去(非同時代者)の主人公について、行為の条件、経過、および結果の「観察」から「史実(論)的知識」を取得し、そこに「法則(論)的知識」を援用して、行為の「動機」を「明証的」に「解明」したうえ、「かりに当の動機がなかったとすれば」と仮構し (「実験科学」における「対照群」を構成してみ) て、「そこでは行為の経過がどうなったか」と問い、そのような「思考実験」(他の諸条件を一定に制御する実験室的状況の設定は不可能な、「非実験科学」としての「文化科学」に残された「因果帰属」の方法) にもとづく「客観的可能性」判断として、当の「動機」の因果的意義をひとまずは確定することができる。しかし、その結論は、与件変更による再「解明」に向けて開かれており、とりわけ「理解科学」中、狭義の歴史学とは異なり、主人公が同時代者で、「史実(論)的知識」の補正・補完が可能な社会学においては、そうした同時代者への調査研究が、インタヴューあるいは質問紙によっておこなわれ、その技法・方法論も開拓されている。
他方ではまた、かりにN君が、公の裁判所に、無期停学処分の不法・不当を訴え、身分保全の訴訟を提起して受理されていたとすれば、裁判官は必ず、築島氏を証人として喚問し、原告、被告双方の尋問、反対尋問、再主尋問にさらして、「先手」の有無と態様を究明するにちがいない。N君自身が訴訟を提起しなかったとしても、「かりにそうしていたとしたら、その場合には、どういうふうに審問が進められ、どんな結論がえられたであろうか」と問い、そうした経過を仮構して、現に進められた文教授会の手続き、事実認識、および結論と対比することはできるし、そうすることによって、N君にたいしても、築島氏にたいしても、いっそう公正を期することができるわけである。
さて、筆者も、「社会学的調査法」を修得し、「聴き取り (ヒアリング) の技法」を、「東大紛争」の現場にも適用し、双方の文献調査に加えて、学生側からはしばしば「聴き取り」も実施していた。ところが、肝心の教員側主人公・築島裕氏にたいしては、もとよりインタヴューを企画しはしたが、本人の忌避と文教授会のガードが固く、実現は難しかった。
仄聞するところ、築島氏は「10月4日事件」の「摩擦」の直後、教授会室に駆け込み、興奮した口調で「一部始終を告げ」、当該学生への処分を強く要請したという。文教授会が、この要請に応えて、というよりも引きずられて、N君を無期停学処分に付していた以上、築島氏が、当の処分の問題点について、みずから「口を割って」証言し、教授会とくに(当時の学部長・評議員ら)処分の責任者を「危険に曝し」「窮地に陥れ」かねないことは、「教授会への裏切り」とりわけ責任者を「二階に上げて梯子を外す」にひとしい仕儀と感得されて、忌避されたにちがいない。文教授会の長老たちも、「八日間団交」と並行して法華クラブで実施した「現場再現」に、肝心の築島氏を召喚せず、なにか「腫れ物に触る」かのように気遣う風情であった。築島氏を、教授会メンバーとしての「所属集団への忠誠」と、科学者としての「事実と理への忠誠」との板挟みの窮地に追い込み、前者から後者への急転を招くことを、内心虞れていたのではあるまいか。[2015年1月9日記、つづく]
そういうわけで、筆者は、「築島先手」の推認には到達してからも、上記の原則的要請を受けて、自分の論証の、なおありうべき不備をわきまえ、少なくとも直接証言によって検証を詰める必要は自覚していたから、自分の仮説を添えて議論を呼びかけることはできても、「自説が正しい」と前提して文処分の白紙撤回を要求することには、なお逡巡を感じていた。教養学部の教授会や教官懇談会で西村秀夫氏とともに発言した趣旨も、文処分の再検討への呼びかけであって、文処分の白紙撤回を、教養学部教授会で決議し、学部長会議や評議会に提案すべしと、いきなり提唱したのではない。再検討への提案さえ受け入れられれば、なんらかの形で、築島喚問が実現され、最終的な詰めがなされると予想し、そのときには、その情報公開を求め、要所で発言を重ねていきたい、と考えていた。しかし、楽観的にすぎた。
相手方、まず文教授会は、「眦を決して」いた。「もはや、理非曲直や真相など、どうでもよい、なにがなんでもN処分の既成事実を固守する」という政治的態度決定に身を固め、再検討への呼びかけなど「歯牙にもかけなかった」。文教授会メンバーの有志40名は、11月20日付けで、連判状をしたため、秘密裡に加藤総長代行に送っていた。後に明らかとなった[53]その内容は、「10月4日事件」の真相も、当時本郷キャンパスで頻発した「武力衝突による流血」も、「どこ吹く風」といわんばかりに、「収拾を急ぐあまり、いたずらに学生側の無法な要求に妥協することは、紛争の真の解決ではなく、新たな紛争の糸口になりかねない」との抽象的「ドミノ理論」を掲げ、「大学当局としては、譲りえない線を学生に明示し、それにたいして学生がいかに暴力的に反抗してきても、一歩も後退せぬ毅然とした態度をとれ」と叱咤激励するものであった。専門上の業績では著名な名誉教授たちも、これに呼応するかのように、背後で動き、「上から」極秘裡に、加藤執行部に圧力を加えたようである。[1月20日記、つづく]
[52] この点については、「理解社会学」の方法論上の要請を参照。「ある行為が、どれほど『明証的』に『解明』されたとしても、そのこと自体が、当の『解明』の『経験的妥当性』までを証明しているわけではいささかもない。外的な経過や結果においては同一の行為ないし自己行動Sichverhaltenが、きわめて異なった動機の布置連関から生ずることもありうる[分かりやすい例としては、「飛び下り自殺」と「転落事故死」]ので、そうした動機連関のうち、理解できる明証性を最高度にそなえたものが、つねに現実に作用したものdie wirklich im Spiel geweseneでもある、とはかぎらないからである。むしろ、いかに明証的な解明も、それが妥当性もそなえた『理解による説明』となるためには、当の連関の『理解』はさらに、他領域では普通におこなわれている因果帰属の方法によって、できるかぎり検証されなければならない」(M. Weber, Gesämmelte Aufsätze zur Wissenschaftslehre, 1922, 7. Aufl., 1988, Tübingen, S. 428, 海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未來社、pp. 9-10)。
[53] 東京大学新聞研究所・東大紛争文書研究会編『東大紛争の記録』(1969年、日本評論社) pp. 339~400に、全文と署名者名が収録されている。
初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study797:161206〕
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