出家とFラン大学
- 2018年 3月 17日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
十年以上前にみたテレビ番組で、確かタイだったと思うが、若い人たちの出家を社会的な経済損失と言っていた。その国のありようにまで関係することを、そんなに簡単に言い切っていいものなのか、なんとも釈然としないが、「経済」という一つの尺度で測ってみれば、そういうことになるのだろう。確かに言われるように、就労年齢にいる若者が仏門に入って生産活動に携わらないのは、貴重な人的資源を活用していないようにしかみえない。宗教の縛り希薄な日本で生まれ、経済効率を重視して工業化を善として育っ たものには、経済合理性に基づいた結論に疑問の余地があるとは思えない。近い将来に経済成長など望みのようない後進国ならまだしも、経済成長が始まった発展途上国において、歴史に培われた文化が出家を必要としているにしても、出家に肯定的にはなれないでいた。
その通りと思ったまま随分時間が経って、一年ちょっと前にタイの紀行番組をみて、その通りとは言い切れない、見落としていた視点があることに気づかされた。出家には歴史に培われた仏教国の社会福祉の一面がある。貧しくて学校に行けない僻地の子供が口減らしもかねて出家する。寺では厳しい修行が待っているが、修行のなかには基礎教育も含まれている。
寺で基礎教育を終えて、なかには高等教育、さらに大学へと進学する若者もでてくる。特異な例なのだろうが、一人の修行僧が大学進学を、ゆくゆくは国際的な職業にと英語を勉強していた。寺での限られた勉強を補おうと自由時間に街にでて、外国人観光客相手にボランティアのツアーガイドのようなことまでして、会話の能力を高めようとしていた。たまにチップをもらえることもあるしという笑顔には、仏門のおかげなのか経済合理性とは違う穏やかな輝きがあった。
経済合理性からみた経済的損失なのか、それとも文化に培われた社会福祉なのか。それぞれの出家僧や寺や地域社会の状況次第のこともあるだろうし、一概にどちらがいいとも言い切れない。ましてや部外者の評価は、その国の歴史や文化から距離をおいた視点から話にすぎない。視点が違えば評価も違う。ときには評価が正反対になることもある。
そんなことを思っていて、はたと日本の高等教育のありようを出家と比較してしまった。極端な例を上げたほうがわかりやすい。どこかの進学塾か何かが大学入試の学力指標をわかりやすいようにと言い出したことらしいが、偏差値三十五以下の大学を「Fラン」と呼んでいる。
Webには、Fラン大学を受験しようかと考えている高校生の質問もあれば、在校生の自虐的な書き込みもある。なかには講師の立場で、大学生とはとても思えない学生の学力や熱の入りようのない授業風景を伝えるものもある。受験を考えている高校生に、在校生が、別の選択肢をと、まるで諭すかのように書いているのをみると、はたして行く意味のある大学なのかと思ってしまう。たとえ一所懸命勉強したとしても、勉強してきたことを活かせる職業に就ける可能性はまずない。それどころか正規雇用にもありつけずに、アルバイトの延長のような仕事についてというケースがほとんどらしい。
なかには中退して残ったのは返済しなければならない奨学金だけという人もいれば、返済し得る職業につけずに、奨学金破産に陥る人もいる。最悪の場合には自殺まで、ここまでくると、それはもう立派な社会問題で、一Fラン大学の問題ではなくなる。
Webでみる情報からだけなのだが、Fランと呼ばれる大学に四年間在籍して何を得るのだろう。なかには生涯の師を仰ぐ先生や友人との出会いもあるだろうが、それが一般的とは思えない。安くはない授業料を払って、何を学ぶわけでもなさそうだし、まさか二十歳前から社会人は早すぎるから、アルバイトをしながら青春を謳歌するための大学ということでもないだろう。
仏教国の就労年齢の若者たちの出家を社会の経済的損失だというのは、宗教感覚の希薄な経済大国日本の視点でしかないのではないか。就労年齢にある若者たちがFラン大学へ進学して、生産活動に従事しないのは経済的損失ではないのか。アルバイトと正規労働では経済効果に大きな違いがあるだろうし、まさか経済学の視点で、アルバイトをしているから経済損失ではないとは言えないだろう。
産業化の始まった発展途上国における歴史的に培われた文化のありようとしての出家とそこに付随する社会福祉に対して、とても教育の場とは思えないFラン大学。何か得られるとも思えない四年間にわたる時間と経費の浪費に近い。どのような視点でみても出家の方が、たとえ経済効果は限られているとしても、社会と文化を培う、民族として社会としての意味は十分すぎるほどあるようにみえる。
Fラン大学は経済損失以外のなにものでもないと思うのだが、それはそれで教育という体裁のもとで禄を食んでいる人たちにとっては、生活の基盤を提供する、なくてはならないものなのだろう。豊かな日本の浪費ともいえるFラン大学という社会的浪費で生きている(失礼?)教育関係者への社会福祉のようなものかもしれない。
その教育関係者のなかに少なくはない経済学を専門とされている先生もいらっしゃる。出家はタイなどでは民族の文化の根幹にかかわるが、Fラン大学が日本の民族や文化のは、どう贔屓目にみても考えられない。であれば、「経済」の視点に戻るが、経済学者として、Fラン大学にどのような社会的な価値や意味があるとお考えなのか、余計なお節介だと言われるのを承知でお聞きしてみたい。「経済」という視点でみて、まさか社会的に意味も価値もないところに経済学者としている?仮にも経済学者、なにがなんでもそりゃないだろう。高等教育にも教育関係にも縁のない素人の誤解であってほしいと思う。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7486:180317〕
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