映画「ゲッベルスと私(A German Life)」を観て―「悪の凡庸さ」とは何かー
- 2018年 6月 22日
- カルチャー
- 内田 弘専修大学名誉教授
この映画は、ナチス宣伝相ゲッベルスの秘書であったブルンヒルデ・ボムゼル(1911-2017年)が103歳の時におこなった証言の記録映画である。彼女への問いはナチズムへの荷担について、いまどのように考えているかである。ただし画面では、インタビュアーの問いは省略され、もっぱらボムゼルの証言が写しだされる。その証言のあいだに、それと関連する記録映画が挿入される。この映画の原題名「或るドイツ人の生涯(A German Life)」には、「教訓に満ちた或る典型」という意味が含まれている。
[103歳の闊達なボムゼル] 証言する103歳の彼女の顔には、いたるところに皺が克明に刻み込まれている。その独特の風貌を赤裸々に画面が映し出す。しかし、彼女の頭脳は明晰であり、語り口は明確であり力強い。記憶もしかりしている。証言の要旨は、「わたしは何も知らなかった。私には罪がない」である。
[悪の凡庸さ] この映画のパンフレットが指摘しているのと同じように、彼女のこの主張に、ハナ・アーレントによるアイヒマンの裁判観察の結論、すなわち、アイヒマンがかつて自分の行っていることを考えようとしなかったと、裁判のときも考えようとしない「悪の凡庸さ」を重ね合わせて、ボムゼルに「悪の凡庸さ」を見出し、それを批判する者が多いのであろうか。しかし「悪の凡庸さ」とはなんであろうか。
ボムゼルがゲッベルスの秘書になったのは第2次世界大戦の最中の1942―45年の3年間である。職場はベルリンのゲッベルスの秘書室であり、仕事は書類の整理、タイプライターによる文書作成である。彼女が直接、人間の殺戮を命令したことはない。ナチズムという巨大な組織の一員(organization man/woman)である。もっとも、ナチス組織の末端ではなく、ナチス宣伝の命令を下す要所に彼女は働いていた。
[ゲッベルスの人間像] 彼女の証言によれば、ゲッベルスは、身なりのきちんとした、言葉遣いの丁寧な紳士であった。好ましい人柄であったという。ただし、「いざ、演説」というときになると、普段とはまったく異なる風貌に急変し、デモンに取り憑たような人物になったという。ゲッベルスは、非常に珍しくただ一度だけ、職場で激怒したことがあるという。
[楽しかった秘書職] 老女ボムゼルのゲッベルス経験はそのような限定されたものであり、ナチス軍のスターリングラード敗戦を転機に、職場も陰鬱になったけれども、それまでは、職場は非常に明るく楽しかったと証言する。この老女は彼女の当時の実感をそのまま語っているのであり、嘘をついてはいないであろう。そうであるからこそ、戦後、ゲッベルス秘書としての責任を問われ5年間収容所に収監されたことに納得してはいないようである。ナチスに抵抗して殺された「白バラ(Die Weisse Rose)」の抵抗運動(1942-43)について、《あのようなことをして死ななくてもよかったのに》という。この老女の述懐には、《なんとしても生き延びなけりゃね、損よね》という本音が控えている。
[存在するのは悪のみ] 映画の最後にさしかかって、老女は断言する。
「神は存在しない。けれど、悪は存在する。正義なんて存在しない。」
[急変する世論] 徹底したニヒリズムである。それは、ゲッベルス秘書室での仕事は結構楽しかったという経験を敗戦後収監されて踏みにじられた経験から生まれた信念ではないだろうか。ドイツ人のほとんどは、ナチス時代にはナチスに反対せず、むしろ「時の勢い」(丸山眞男)に乗って、その勢いを強化していたのに、敗戦となると急変し、実はナチスには反対だったと言い逃れをする。そのような「世論なるもの」に対するルサンチマンが、この老女をしてそのようなニヒリズムを語らせるのであろう。
[死屍累々は老女と無関係か] 映画の最後のころ、息をのむ場面が映し出される。強制収容所に収監されていて、かろうじて生き残ったひとの中に、立つことさえできないユダヤのひとびとがいた。その姿の記録映画が挿入される。連合軍に解放された直後の姿である。生き残れなかった人々の死体の山、物のように、大きな穴のなかに投げ込まれ積み重さなれ埋められるひとびとの遺体。そのように遺体を処理する人々。老女の楽しい職場が君臨して実際に行った行為結果の現実の一部である。
[死体の葬列] 戦後まもなく、占領軍は敗戦国ドイツで、ユダヤ人の死体を入れてもその棺に蓋はしないで、敗戦ドイツ国民の成年男子二人にその棺の前後をもたせ、棺の葬列を展開させた。《ドイツ人よ、君たちが行ってきたことは、これである。よく直視せよ》という。その葬列を目撃するドイツ人はみな周章狼狽している。《ひどい、こんなこと知らなかった》という表情である。いま、長い間の悪夢から覚めたのであろうか。長いコートを着た婦人は、白いハンカチを鼻と口に当て、「たまらないわ」という風情で眼を背ける。
[ドイツ人は何も知らなかったのか] しかし、その反応になにかを隠していないだろうか。彼らドイツ人は1933年のナチス政権樹立以前から、ナチスの暴虐をあちこちで目撃してきた。ダビデの星印をナチス突撃隊がユダヤ人店舗にペンキで書き殴っている行為を黙認してきたではないか。敗戦になって、初めて知ったことばかりではないであろう。
[私は除いてね(ohne mich!)] このくらいのことなら、といってナチスに協力した自分たちの行為が累積して巨大な社会的力になる。こうして、ナチス権力を下からささえなかったのか。突撃隊が真夜中に近隣のユダヤ人を急襲し勾引してゆく。身を潜め、自分たちでなくてよかった、と安堵し見過ごしたのではなかったのか。そのような身辺で展開する大小のナチス悪の一つの事例が、この老女の若い頃(当時32-34歳)のゲッベルス秘書官の仕事であろう。したがって、アーレントのいう「悪の凡庸さ」はアイヒマンやボムゼルに限定されはしない。
[上海で日帝の罪を問われる] この5月下旬に5年ぶりに訪中した。上海の復旦大学で《『資本論』のシンメトリーという編成原理》について、哲学専攻の大学院生に講義するためである。しかし、ここで指摘しなければならないのは、その講義のことではない。講義の合間に訪れた上海の伝統的な街並みが展開し商売が繁盛する「豫園」での経験である。
豫園にも「スターバックス」がある。これは経験になると思って入ってコーヒーを飲んでいると、隣の席に座っていた30歳代ぐらいの韓国から来ていたカップルと(英語で)談笑することになった。しばらくすると、穏やかに「わたしたちは日本に長い間支配されてきました。ご存じですね」と尋ねられた。私はすぐに「もちろん、知っています。韓国には或る団体の代表として、贖罪の思いを込めて訪問したことがあります。日帝が敗北したとき、私は満6歳でしたけれど、一人の日本人として、韓国の人々、共和国の人々に心からからお詫び申しあげます」と返答した。相手二人は笑顔になって、今後とも仲良くしましょうと応えた。
[台湾植民地統治を問われる] そのあと、斜め向かいの建物の中で本・文房具・家具などをみて、その2階にある中国茶が飲める店に入った。私の席の長いテーブル右半分を老夫婦と若い女性がお茶を飲みながら談笑していた。しばらくして若い女性が日本語で「日本の方ですか」と尋ねた。「そうです」と応え、私の現役時代の台湾出身のゼミ生のことなどについて語り合っていると、「台湾は長い間、日本の統治下にありました。ご存じですね」と尋ねられた。「もちろん知っています」と応え、先の韓国の連れ合いに行った返答と同種の謝罪で応えた。私たちは和やかに別れた。
[《悪の凡庸さ》の発生メカニズム]「ゲッベルスと私」を観て教えられることが多い。その要点はほぼ上に書いたけれども、まだ書いていないことがある。それは、「悪の凡庸さ」は如何なるものか、それは如何にして発生するかという問題である。
[悪の習慣化=思考停止=凡庸化] 悪も繰り返しおこなっていると、異常なこととは感じなくなる。悪に慣れ、習慣化すると、悪は普通の正常な事柄に見えてくる。アリストテレスが『形而上学』でいうように、人間は異常なことに驚き、その驚異の原因を考える。しかし普通(になった事柄)には、人は驚かない。考えない。「思考の経済」(マッハ)が作動し、思惟活動は停止する。これが、悪の凡庸性の発生メカニズムである。《悪は反復し習慣化すると、悪は正常な事態にみえるようになり、それについて考えなくなる》のである。
[悪を加速化深化する集団] 特に悪を集団で実行している場合は、その異常の正常化は早く深くなる。これがアーレントのいう「悪の凡庸さ」が発生するメカニズムであろう。「悪の凡庸さ」・「思考停止」は悪の習慣化の結果である。このような習慣化は誰にでも派生しうる事柄である。アイヒマン、この老女など特定の人間のみを「考えることをしなかった凡庸な人間」と評価して済む問題ではない。
[悪が日常化した人的資源処理工場] ユダヤ人の遺体の口を開き、そこから金歯をペンチで剥ぎ取り、その重量を一個ずつ正確に計り、帳簿に正確に記録する。その仕事を日々黙々と、集団で整然と並んだデスクで続ける。同じ作業は、眼鏡、櫛、手袋、靴、靴下、ボタンなどのユダヤ人からの剥奪物を、計量し記録する仕事でも行われた。遺体から刈り取った髪の毛で絨毯を製作する。遺体の皮膚を剥いでハンドバックを製造する作業も、日常化した平凡な作業になる。
[バイオ・インダストリー] アメリカ経営学が「人的資源(human resources)」というとき、私が連想するのは、この日常化し習慣化した人的資源処置工場である。人的資源の産業化は、21世紀の今日、《臓器移植を含む医療・製薬・サプリメント・化粧品・スポーツ・アスレティックジム・食品・生命保険など》のバイオ・インダストリーという洗練された形態で展開している。
[善の習慣化か、悪の習慣化か] 習慣は第二の自然である、と三木清はいった。そのとき三木は、自らの生活を人間生命の維持のための行為として、生活を自発的に組織することで戦時体制への抵抗拠点構築の可能性を探った。日々の生活という社会の基底まで戦争体制に組織化されない、抵抗の拠点を構築することを暗に呼びかけたのである(「生活技術と生活文化」『婦人公論』1940年1月)。三木清は生活習慣の底力を知っていたから、それを「第二の自然」であると規定した。しかし、三木清が想定した「善の習慣化」の対極に「悪の習慣化」が存在する。
[三木清とアーレントのすれちがい] 三木清がマールブルクのハイデッガーのもとを去り、パリに向かったのは1924年の夏であった。その年の秋にハナ・アーレントがハイデッガーのもとにやってくる。三木清とアーレントはすれ違いであった。
[三木清のナチス目撃] 三木清はマールブルクにいた当時、ナチズムに同調し傾斜するドイツ人の心性を危険視していた。当時ドイツの家庭にもラジオが普及していた。欧州大戦での敗戦、ベルサイユ会議で決まった膨大な賠償金の支払い、そのために発生したのか、襲いかかる悪性インフレで窮乏化する日々の暮らしの憂さを、ラジオを聴いて晴らす。そのような当時のドイツ人の心性を三木清は目撃していた。のちにピカートのいう「ラジオ的人間」の問題である(拙著『三木清―個性者の構想力―』(御茶の水書房)。
1933年、ナチス政権ができると、ハイデガーはナチスに入党する。すでに(8年前の1925年に)帰国していた三木清はそのハイデガーを批判した。
[日本で未公開の映画を南京で観る] 少し前の中国映画に「南京!南京!」がある。私はその映画を当地の南京で観たことがある。日本の俳優もその映画に出演している。しかし、その映画は日本人にほとんど知られていない。日本では公開上映されていない。私たちも、老女がいうように「知らない」、あるいは「知らないこと」に慣れっこになっている。自分に都合の良いことだけに関心をもち、考える。肝心な事柄について無知ではないかという問題について、意識的に無意識に避け、「考えない」。思考回避の習慣化=自然化に慣れっこになっていないだろうか。
[ナチスには注目し、南京は避ける] 私たち日本人は、ナチスの悪については、好んで知り考えるが、日帝の悪は忘れる、知らない、考えない。それを口にすることを憚る。口にする人間を避ける。排除する。「より楽しいこと」、「より明るいこと」に傾斜していないだろうか。「ゲッベルスと私」を観るが、「南京!南京!」は知らないのならば、事柄の一面のみを知っているということではなく、その無知は、或る深刻な思想的欠如を象徴していだろうか。この映画はナチスに荷担したオーストリアの作品である。
私はかつて南京を研究会参加のために訪れ、乗っているタクシーからその映画が南京で上映中であることを「偶然」知った。しかしその偶然事をその映画館に入って観るという積極的行為に転化した。知っている、知らないには、きわどい分岐点がある。その経験を省みて、自戒とする。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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