不平等への怨念を刻んだ短歌~心の友、金子文子の生涯に寄せて(1)~
- 2018年 7月 11日
- 評論・紹介・意見
- 醍醐聡
2018年7月10日
金子文子の生涯
金子文子(1903~1926年)は1903年、横浜に生まれたが出生届は出されず、父は家を出、母も男との同棲を繰り返した。1912年~1916年、朝鮮忠清北道に住んでいた父方の祖母のもとで養女として暮らしたが、無籍者として虐待を受ける一方、当地の朝鮮人の温情に触れ、生涯、変わらぬ朝鮮人への親愛の気持ちを育んだ。
帰国後、豊多摩郡代々木藤ヶ谷富士ヶ谷に住んだ文子は夫・朴烈と共に不逞社を設立、さまざまな思想家を招いて例会を開いていた。
関東大震災発生の2日後の1923年9月3日に朴烈とともに世田谷警察署により、行政執行法第1条「救護を要すると認むる者」という名目で検束され、同年10月20日、文子ら2名を含む不逞社員16名が治安警察法違反容疑で起訴された。以後、大審院で文子と朴列は天皇暗殺計画の嫌疑で訊問を受け、1926年3月25日、2人に死刑の判決が言い渡された。それから4カ月後の7月23日、文子は移送先の宇都宮刑務所栃木支所で獄死した。享年23歳。遺骨は夫の郷里、朝鮮慶尚北道聞慶郡に埋葬された。
人力車、人がまた等しき人の足になる~文子が遺した獄中短歌~
文子は獄中から知人に送った書簡にかなりの数の短歌を書き留めている。その中から、文子の生涯を貫いた「不平等への怨念」を刻んだ短歌数編を紹介しておきたい。文子の短歌は「獄中短歌」という表題で彼女のいくつかの伝記物の書物に収録されているが、ここでは鈴木裕子編著『金子文子 わたしはわたし自身を生きる――手記・調書・歌・年譜』(2006年、梨の木舎)に依った。
①歌詠みに何時なりにけん誰からも学びし事は別になければ
②派は知らず流儀は無けれ我が歌は圧しつけられし胸の焔よ
③燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的価値を探し給ふな
④人がまた等しき人の足になる日本の名物人力車かな
⑤ふらふらと床を抜け出し金網に頬押しつくれば涙こぼるる
⑥人力車梶棒握る老車夫の喘ぎも険し夏の坂道
⑦人力車幌の中には若者がふんぞり返って新聞を読む
⑧資本主義甘く血を吸ふかうもりに首つかまれし労働者かな
⑨塩からきめざしあぶるよ女看守のくらしもさして楽にはあらまじ
⑩囚の飯は地べたに置かせつつ御自身マスクをかける獄の医者さん
以上10首、なかでも人力車を題材にした④⑥⑦は、私が特に魅せられる文子の短歌である。その根底にある心情は「不平等」への怨念である。
①~③の短歌で文子が拒んだ歌的価値は、昨今、歌壇のどこかの派に属し、主宰者の名声にすり寄って、既成の歌壇にデビューしようと「歌的価値」を競い合う歌人たちの光景を想い起こさせる。そうした通俗と一線を画し、素人を自認して自由奔放な歌詠みになった自分を誇らしげに詠った短歌からも、技巧の巧拙で「素人」と「玄人」を区分けする歌壇への文子の痛烈な反逆を読み取れる。
無籍者の烙印
文子は自分の中に「不平等」への呪いを芽生えさせた原点ともいえる出来事を自伝書『何が私をこうさせたか――獄中手記――』(2017年、『岩波文庫』31~34ページ)にこう綴っている。
「私はその時もう七つになった。そして七つも一月生まれなのでちょうど学齢に達していた。けれど無籍者の私は学校に行くことができなかった。」
「なぜ私は、無籍者であったのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入っていなかったからである。・・・・叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯連れ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとのことである。」
「母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。けれど黙っていられないのは私だった。なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいと頻りにせがんだ。余りに責められるので母は差し当たり私を私生児として届け出ようとした。が、見栄坊の父はそれを許さなかった。『ばかな、私生児なんかの届けが出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん』父はこう言った。」
「明治の初年、教育令が発布されてから・・・・男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。そして人民は挙って文明の恩恵に浴した、と。だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだった。」
「小学校は出来た。中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。ブルジョアのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を潜った。だがそれが何だ。それが私を少しでも幸福にしたか。」
「私の家から半町ばかり上に私の遊び友達が二人いた。二人とも私と同い年の女の子で、二人は学校へ上った。海老茶の袴を穿いて、大きな赤いリボンを頭の横っちょに結びつけて、そうして小さい手をしっかりと握り合って、振りながら、歌いながら、毎朝前の坂道を降りて行った。それを私は、家の前の桜の木の根元にしゃがんで、どんなに羨ましい、そしてどんなに悲しい気持ちで眺めたことか。
ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくて済んだだろう。だが、そうすると、あの子供達の上にああした悦びは見られなかったろう。
無論、その頃の私はまだ、あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。」
金子文子が獄中で自叙伝を書き始めたのは1925年夏から秋、22歳の時だった。
「あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられている」・・・この一文ほど、不平等に対する彼女の怨念を鋭く凝縮した言葉はないと思える。
私は不平等を呪う~金子文子の訊問調書より~
文子は1924年4月10日に市谷刑務所でなされた訊問に次のように応答している。
「私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねばなりませぬ。そこには馬鹿もなければ、利口もない。強者も無ければ、弱者もない。地上における自然的存在たる人間の価値からいえば、すべての人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております。」
不平等の根源・天皇制への反逆に突き進んだ金子文子
しかし、幼年期に味わった自らの差別と虐待の辛酸を原点にした金子文子の不平等への怨念は身近な世間に向けられて収まるものではなかった。それどころか、文子は不平等の怨念を次第に、日本社会におけるその究極の源泉=天皇制に向けていった。この点こそ、思想家としての金子文子の金字塔である。次の稿ではこの点を取り上げたい。
初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載
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