書評 長島功『マルクス「資本論」の哲学』(社会評論社 2018年)
- 2018年 11月 6日
- 評論・紹介・意見
- 中野@札幌
本書は「疎外論と物象化論」の関連・差異についての論文集である。「その類の本ならば巷にありふれている」と誰しも思うだろう。しかし、本書はそうした書物の中で異彩を放っている。なぜか。
通常「疎外論と物象化論」については、A「両者は異なり、疎外論は初期マルクスの未熟なロジックであり、後期マルクスにおいては物象化論へと転変した」という視角、B「後期マルクスにおいても疎外論は生き続けている。物象化論は疎外の一面を表したロジックだ」という視角が相互に対立している。
ところが、本書の基本的視角は「後期マルクスにおいては物象化論と疎外論は分離して存在する」(3頁)というものなのである。いや、著者は、後期の著作に限らず『パリ手稿』、とくに『ミル評注』などにも、「疎外論」的表現の影に「物象化論」の萌芽が見られるとも述べている(33~41頁)。換言すれば、このような視角は、初期マルクスから後期マルクスを貫く「疎外論と物象化論の併存論」と言えよう。評者の狭い知識の範囲内で見るならば、この「併存論」は他に類例のない極めてユニークなものだと思う。
著者のこの併存論をより詳しく見てみよう。評者がここでその例とするのは、『ド・イデ』「フォイエルバッハ」基底稿のかの有名な、エンゲルス執筆の一節とそれに対するマルクスのコメントについての著者の解釈である(70~85頁)。
執筆者エンゲルスは、
人間自身の行為が,人間にとって,疎遠な(fremd)対立する力(Macht)となり,人間がこの力を支配するのではなく,この力が人間を抑えつけるということである・・・社会活動のこの自己固定化、われわれを支配する物象的な力,すなわち,われわれの統制が及ばないほど大きくなり,われわれの予想を裏切り,われわれの目算を無にする物象的な力(
Sachliche Gewalt)へのわれわれ自身の産物のこのような硬化は,これまでの歴史的発展における主要契機の一つである(Marx-Engels Jahrbuchu2003,Die Deutche Ideologie,Akademie Veriag,2004 ,SS20-21.本書での引用箇所は70~71頁)
と、述べている。
このエンゲルスの叙述に対してマルクスは、
この『疎外』-ひきつづき哲学者たちに理解しやすくするためにこう言うのだが―は、もちろん、二つの実践的前提の下でのみ止揚されうる(Ebd.,S21.本書での引用箇所は71頁)
と、やや揶揄的なコメントを残している。
著者は、このエンゲルスの叙述とマルクスのコメントについて以下のような解釈を示している。
このように左欄でエンゲルスが述べた事態を指してマルクスが「この『疎外』」と表現している限りでは,先の引用文に見られる,疎外論とも物象化論とも解釈できる理論をマルクスは疎外論と受け止めていると判断しなければならない(71頁)
このように『ド・イデ』において唯物史観の諸概念が未完成であったことが,この段階での物象化論の疎外論からの分離を妨げた考えられる(72頁)
つまり、著者の「併存論」は、たんなる「併存」の指摘に止まらず、マルクスの思想的発展の経路が、「疎外論と物象化論の混在から両者の分離へ」という経路であったというロジックも含んでいるのである。
引き続き著者は、『経済学批判要綱』→『経済学批判』→『1861~63年草稿』という流れに沿って、この「疎外論からの物象化論の分離」という経路を丹念に分析している(86~151頁)。
もちろん、最終ゴールは『資本論』である。では、著者にあっては、このゴールでは疎外論と物象化論はどのように分離し、それぞれどのように位置づけられているのだろうか。
まず物象化論の位置づけであるが、これは類書とほぼ変わらず、「商品・貨幣・資本」における物象化論(およびそれに基づく物神性論)、「利子生み資本」における物象化論・物神性論、「三位一体論」における物象化論・物神性論などが取り上げられている(152~184頁)。評者はここには大きな問題点はないものと思う。
しかし、問題は疎外論である。著者は、『資本論』のどこに疎外論が位置づけられていると言うのだろうか。
両理論の基本的な違いは,物象化論が生産における人間の社会的関係次元を扱うのに対して,疎外論は,それが労働という自然と人間の間の物質代謝を媒介する活動に現れる点を考えると,おもに自然〔物〕と人間の関係次元を扱う点にある。ただし,この自然〔物〕と人間の関係は,物をその所有者として代表する資本家と労働する人間を代表する労働者の生産関係として現れる(224頁)
端的に言えば、疎外論は、『資本論』の中では、剰余価値論=労働疎外論として位置づけられるということだろう。しかし、評者から見れば、これは、疎外論と物象化論というロジックの差異というよりも、その分析対象の差異だと思われるのだ。すなわち、商品経済という社会関係(流通形態)を分析対象とするか、その社会関係が労働過程をも支配することによって生み出された「資本と労働の対立」(生産)を分析対象とするかの差異だと思われるのである。評者は、この両対象の分析結果をまとめて「広い意味での疎外論」と言ってもよいとさえ思う(評者は、廣松渉の影響を強く受けていることを率直に認めるが、所謂「疎外論超克説」にけっして与するものではない)。
評者は、著者の「物象化論と疎外論の併存そして分離」という観点には、注目すべきものがあると見ている。とくに「初期マルクスの文献には後の物象化論に繋がるものが見受けられる」という指摘は傾聴すべきものだと思う。だが、残念ながら、その完全な分離なるものが『資本論』で実現されたとは思わない。マルクス自身が両者の差異を充分に自覚していたとは思えないからである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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