徴用工判決:河野外相の韓国政府への責任転嫁論は奇弁
- 2018年 11月 20日
- 時代をみる
- 醍醐聡
2018年11月19日
河野外相は11月3日、神川県内の街頭演説の中で次のように発言した。
「河野太郎外相は3日、神奈川県茅ケ崎市で街頭演説し、日本企業に賠償を命じた韓国人元徴用工訴訟判決に関し、韓国国民への補償は韓国政府が責任を持つ取り決めになっているとの考えを示した。1965年の日韓請求権協定に言及し『日本政府は一人一人の個人を補償するのではなく、韓国政府にその分のお金を経済協力として渡した』と強調した。」
(「徴用工判決 河野外相『韓国政府が責任持ち補償を』」「毎日新聞」2018年
11月3日 22時37分)
https://mainichi.jp/articles/20181104/k00/00m/030/071000c?pid=14509
以下、この河野発言の真偽を逐条的に検討したい。
「個人への補償分を一括、経済協力として韓国政府に渡した」は本当か?
1965年の協定書本体と附属の議定書には日本国は大韓民国に対して、経済協力の目的で一括して供与、貸付けをするという明文はあるが、「個人への補償」という記載は一切ない。
繰り返しになるが、協定の第1条第1項では、「前記の供与及び貸付けは、大韓民国の経済発展に役立つものでなければならない」と明記され、同条第1項(a)で、日本が韓国に無償供与する3億米ドル相当は全額現金でではなく、日本の生産物、及び日本人の役務で供与するものと明記された。
また、同条同項(b)で、日本が韓国に対して行う2億米ドル相当の貸付は、この協定にしたがって実施される経済協力事業に必要な日本の生産物、日本人の役務を調達するために充てるものと明記された。
こうした条文から考えて、日本政府が韓国政府に渡す供与、貸付けは金銭(同等物)に換価できない生産物、役務だったから、分割して韓国の元徴用工に分配することは使途の点でも形状の点からも不可能だった。
もっとも、協定成立に至る日韓政府間の交渉の過程で、韓国政府は、日本から受領した無償3億ドルは、請求要綱に記した各項目を積み上げたものではなく、総額決定方式で包括的に決定されたが、そのうちの相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任がある、との公式意見を述べていた(「大法院判決、仮訳、9ページ)
しかし、大審院判決も指摘しているように、無償供与3億円は政府、個人の請求権を項目ごとに積み上げたものでないばかりか、請求権と代価関係があるのかどうかも明らかでなかった。そもそも協定第1条で、経済協力として一括供与・貸付けされたものを個人の請求権の決済に充てるという発想自体に無理があった。
協定発効後、後述のように、韓国政府が「強制動員犠牲者」に幾何かの資金を給付したが、それは大韓民国政府が独自に道義的次元から行った「補償」であり、その金額は被害者補償としては不十分なものだった(大法院判決、仮訳、9ページ)。また、今回、元徴用工が求めた「賠償」でもなかった(この点、後述)。
「韓国政府が責任を持つ取り決めになっている」は本当か?
これも、協定書本体にも附属の議定書にも交換公文にも、該当する記述は一切ない。韓国政府が負ったのは、供与および貸付けを、大韓民国の経済発展に役立つものに充てるという責任だった。だから、厳密にいうと、供与等を換価処分して個人に分配することは協定の第1条第1項に違反する行為だった。
もっとも、協定は1965年8月14日に大韓民国国会で批准同意され、これを受けて大韓民国は1969年2月19日に「請求権資金の運用及び管理に関する法律」、続いて「請求権申告法」を制定して、補償の対象となる対日民間請求権の正確な証拠と資料を収集する作業を準備した。
その上で、大韓民国政府は1974年に通称「請求権補償法」を制定し、1976年6月30日までに83519件に対して合計91億8769万3000ウォンの補償金を支払った。これは割合に換算すると、無償提供された請求権資金の約9.7%に当たった。(以上、「大法院判決」張界満・市場淳子・山本晴太仮訳、5~8ページ参照」
これと関連して、大韓民国政府が2005年に一部を公開した日韓請求権交渉の経過を記した文書によると、交渉当時、韓国政府は、日本から受領した無償3億ドルは、請求要綱に記した各項目を積み上げたものではなく、総額決定方式で包括的に決定されたが、そのうちの相当金額を強制動員被害者の救済に使用すべき道義的責任があるとの公式意見を述べていた(「大法院判決、仮訳、9ページ)
以上のような交渉経緯を確認した上で韓国大法院は次のような結論を下した。
「本件で問題となる原告らの損害賠償請求権は日本政府の韓半島に対する不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為を前提とする強制動員被害者の日本企業に対する慰謝料請求権(以下、「強制動員慰謝料請求権」という)である点を明確にしておかなければならない。」(判決文、仮訳、11ページ)
「②原告らは、・・・・その後日本で従事することになる労働内容や環境についてよく理解できないまま日本政府と旧日本製鉄の上記のような組織的な欺罔により動員されたと見るのが妥当である。」
「③さらに、原告らは成年に至らない幼い年齢で家族と離別し、生命や身体に危害を受ける可能性が非常に高い劣悪な環境において危険な労働に従事し、具体的な賃金額も知らないまま強制的に貯金をさせられ、日本政府の過酷な戦時総動員体制のもとで外出が制限され、常時監視され、脱出が不可能であり、脱出の試みが発覚した場合には過酷な殴打を受けることもあった。」(判決文、仮訳、12ページ)
「(1965年の日韓)請求権協定は日本の不法な植民地支配に対する賠償を請求するための協定ではなく、基本的にサンフランシスコ条約第4条に基づき、韓日両国間の財政的・民事的な債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのものであったと考えられる。」「従って、上記の『被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権の返済要求』に強制動員慰謝料請求権まで含まれるとは言いがたい。」(判決文、仮訳、12、13ページ)
このように見てくると、
①河野外相が言うような「取り決め」は1965年の日韓協定文ならびにその附属文のどこにも明記されていない。仮に非公開の「密約」として取り決めが交わされていたとしても両国の国会で協定文が批准される際に公開されていないから、法的効力はない。
②大韓民国が国内的措置として「強制動員被害者」への補償金を支払ったのは事実であるが、それはあくまでも協定を離れた大韓民国政府による独自の道義的次元の措置であり、支払われた補償金と、協定に基づいて日本が経済協力として無償供与した生産物、役務との相関関係は、質的にも金額的にも、見い出せない。
③そもそも、日本からの供与:貸付けの目的を「経済協力」とすることにこだわったのは日本政府だった。これについては、このブログにアップした一つ前の記事で紹介した椎名外相の国会答弁に加え、政府は次のような国会答弁をしている。
「国務大臣(佐藤榮作君)・・・・私は急転直下解決したとは実は思わないのです。十四年間の積み重ねで初めて解決したと、かように私は思います。池田内閣時分に大平・金メモができ上がって、そうして請求権問題が経済協力の形で話が進んだ。これあたりも大きな積み重ねの一つであります。」
(参議院、日韓条約等特別委員会会議録、1968年11月26日)
「国務大臣(椎名悦三郎君) あくまで経済協力でございまして、日本といたしましても、この供給する資金が、真に韓国の経済建設のために最も有効に役立つ方法であるかどうかというような点を十分に審議いたしまして、そしてこの供給に応ずる、こういう仕組みになっておる次第でございまして、・・・・」
このような日本政府の説明から見ても、日本が無償供与した3億ドルを以て韓国政府が元徴用工を含む個人の請求権の充足させるよう取り決めたと見るのはあまりに無理な解釈である。
「賠償」か「補償」か
ここで、注意したいのは、協定交渉当時、また協定締結後、日本政府が無償供与の性格を「賠償」とみなすことを拒み続けたことである。
日本からの供与を「賠償」とみるか、「補償」とみるか、あるいは「経済協力」とみるかは、それと相対する「請求権」の性格を見極める上で決定的な意味を持つ。これについて、大審院判決で、多数意見を補充する意見を示された金哉衡大法官、金善洙大法官の意見の中で以下のような理由を列記して、協定により放棄された「請求権」には「不法行為」を前提にした「慰謝料請求権」は含まれていなかったと指摘している。
①日韓請求権協定は、基本的にサンフランシスコオ条約第4条(a)で定められた「日本の統治から離脱した地域の施政当局・国民と日本・日本国民の間の財産上の債権・債務関係」を解決するためのものであることは明らかである。したがって、ここでの「債権債務関係」は日本の植民地支配の不当性を前提とした精神的損害賠償請求権が含まれる余地はない。
②第一次日韓会談において韓国側が提示した8項目、具体的にはその第5項の「大韓民国法人または大韓民国自然人の日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、補償金およびその他の請求権の弁済要求」は財産上の請求権(例えば、徴用の対価として支払われるべきだった賃金の未収分など)に限定されたものであり、不法な強制徴用に対する慰謝料請求権まで含まれていると見ることはできない。
また、ここでの「徴用」は国民徴用令による徴用だけを意味するのか、募集方式、官斡旋方式による強制動員まで含むのかも明らかでない。
③前記第5項では「補償金」という用語を使用しているが、これは適法な「徴用」を前提した用語であり、不法性を前提した「慰謝料」を含まないことは明らかである。
ちなみに、当時の大韓民国と日本の法制では、「補償」は適法な行為に起因する損失を填補するもので、「賠償」は不法行為による損失を填補するものとして明確に区別していた。
(以上、判決、仮訳、43~45ページ)
こうした2名の大法官の多数意見を補充する意見は、「請求権」の内容を十分吟味しないまま、政治決着を急いだ当時の韓国政府に対する厳しい批判となっている。
供与を請求権の対価と見ることを否定した日本政府
しかし、だからと言って、今回の旧徴用工の請求は韓国政府が負うべきと主張するのは条理に反する。なぜなら、そもそも、供与を「賠償」とみるのを忌避したのは日本政府であり、「請求権の対価」とみなすことさえ忌避したのも日本政府である。
そして、その根底にはアジア諸国に対する日本の侵略責任、旧植民地住民を従軍「慰安婦」、徴用工等として強制動員し、その人権、人間としての尊厳を蹂躙した責任を問い、問われることを頑なに拒む、あるいは侵略・植民地支配責任を薄めようとする、忌まわしい「自虐史観」があった。また、今もこうした史観は日本政府にとどまらず、国民の間にも、広く、根深く残っていることを直視しなければならない。
たとえば、日本政府は、国会審議の中で、1965年の日韓協定で合意された「供与」が請求権の対価ではなく、純然たる経済協力であるとする答弁を繰り返してきた。
「国務〔注:外務〕大臣(大平正芳君) ・・・・それから請求権の問題と経済協力の関係でございますが、私どもがいま大筋の合意を見ておりますのは、純然たる経済の協力でございまして、請求権の問題とは直接の関連はございません。われわれが目ざす有償無償の経済協力を将来にわたってやるということを約束することによりまして、その随伴的な結果として、平和条約にいうところの請求権の問題が解決したことを双方認め合うと、こういう考え方に立っておるわけでございまして、経済協力は一〇〇%経済協力でございまして、請求権とは何らの関係がないわけでございます。」
(参議院「本会議」会議録、1964年3月13日。下線は醍醐の追加)
「○椎名国務〔注:外務〕大臣 請求権のいきさつ、経済協力と請求権の関係は、この審議のいきさつから申しますと関連はございます。そして同じく経済問題でありますから、同じ場所において取り扱っておるのでありますけれども、御指摘のとおり、この請求権の問題と経済協力の問題は、何らそこに法律上の因果関係はない。あくまでこれは有償、無償、総計五億の経済協力は、韓国の経済建設に役立つために日本がこれを供与するものであるという趣旨でございます。」
(衆議院「日本国と大韓民国との間の条約及び協定等に関する特別委員会」会議録、1965年10月30日)
かつて、国会でこのような答弁をした日本政府が、今回の元徴用工の賠償請求訴訟において、1965年の日韓請求権協定で一切の請求権は完全かつ最終的に解決したと語るのは自己撞着も甚だしい。
供与を「賠償」とみなすことを忌避した日本政府
さらに、日本政府は、これまでの国会答弁の中で、1965年の日韓協定にもとづいて供与した3億ドルは「賠償」ではなく「経済協力」であるという解釈を繰り返してきた。
「○楢崎委員・・・・私は、いまの日本政府の態度に、どうもかつての日韓併合時代の朝鮮人に対する支配者意識というものが魂の底にあって、そうしてそれがちらちらとしてまいる。・・・・あるいは、今度問題になっておる経済協力にしても、これは本来賠償的な性格を持つべきであろう、過去三十六年間の日本の支配あるいは圧制に対する償いの意味であろうと思いますが、これを、何か困っておるからやるのだというような、下に見るような関係でこの日韓会談をとらえておられるのじゃないか、こういう会談の進め方では、ほんとうに日本と韓国の両国の人民の真の正常化、友好親善にはならない、このように思うわけですが、こういう点に対して、池田内閣は、もう一ぺん根本的に、この交渉の姿勢について、私の申しましたような韓国に対する過去の圧制に対する贖罪と申しますか、申しわけないというような態度で進められるべきであろうと思いますけれども、・・・・この点についての池田総理の御見解を承っておきたい。」
「○池田国務大臣 ・・・・請求権の問題につきましても、われわれは、誠意をもって、ほんとうに前向きに両国が手を握っていこう、助け合っていこうという気持ちで、いままでの過去の実績あるいは法律的根拠とかいうようなことを言っておってはとてもまとまりがつかぬから、いまの平和条約四条のあれを、経済協力によりまして、無償・有償の協力によりまして、そして、過去を捨てて、忘れて将来に向かっていこう、こういう気持ちが、いまあなたが言われた気持ちで、われわれの気持ちなんです。しかし、これは日韓交渉ここ二、三年のことでだんだんそれが国会にも出てきたわけなんです。二年前にはあなたのような議論はなかなか聞かれなかった。これがやはり正常化のあれで非常によくなった。私はその気持ちでいっておるのであります。だから、罪があったとかないとかいうふうなことを言うよりも、まずお互いにまっ裸になって助け合っていこうじゃございませんかということで・・・・」
(衆議院「外務委員会」会議録、1964年4月8日。下線は醍醐の追加)
「○椎名国務〔外務〕大臣 日本は、御承知のとおり数カ国に対して賠償を支払う、現にそれを実行しておるのであります。この支払いの手段、方法が、今回の無償供与に、ただ方法論として、そのほうが便利である、いわゆる手段として便利であるという意味においてこれを採用しておるのでありまして、その本旨はあくまで経済協力である、かように申し上げます。」
(衆議院「日本国と大韓民国との間の条約及び協定等に関する特別委員会」会議録、1965年10月30日)
「過去を捨てて、忘れて将来に向かっていこう」「罪があったとかないとかいうふうなことを言うよりも、まずお互いにまっ裸になって助け合っていこうじゃございませんか」・・・・被害国の国民からの呼びかけならともかく、加害国の政府がこのような能天気で慇懃無礼な意識で交渉に臨み、それが玉虫色の政治決着を帰着した大きな理由だった。
問われているのは日本国民の歴史認識
あらためて、日本政府はもとより、日本国民が明記しなければならないのは、元徴用工や韓国政府だけでなく、韓国の民意が日韓協定交渉をどのように注視してきたかである。
「当時の韓国国民が求めたものは、経済協力資金といった形態ではなく、植民地時代の収奪等を踏まえた賠償金であった。・・・・そうした中で、1962年に政権ナンバー2となっていた金鍾泌と外務大臣であった大平正芳の間で合意された『日本側が賠償という形ではなく、有償・無償併せて5億ドルを供与する』との内容が広まると、韓国国内は収拾がつかない状況に陥ったのである。」
「植民地時代から20年近く経過していたものの、韓国人にとって、その記憶は創氏改名をはじめとした文化的基盤を無視した政策、および隣国に支配されたという屈辱と共に生々しく残っていた。にもかかわらず、36年間におよぶ高圧的な植民地支配が公式な謝罪のないまま『解決済み』とされることは、多くの韓国人には受け入れ難かったのである。」
(以上、「金恵京「日韓基本条約成立過程にみる韓国の選択」、朝日新聞『WEBRONZA』2017年10月19日」)
河野外相や歴代の日本政府が、日韓で「合意」された1965年協定の実態を吟味せず、いわんや問題の根底にあった日本による植民地統治時代の「賠償」を頑なに拒み、「経済協力」という名義で幕引きを図ろうとしてきた経緯を反省せず、「日本は無償の供与を渡した、後は韓国政府の責任だ」と言い放つ高圧的な外交姿勢を続ける限り、第2、第3の徴用工裁判が起こることは避けられない。
こうした日本政府の恥ずべき外交を正せるかどうかは、日本国民一人一人が自力と真摯な対話を通じて歴史認識を深めるかどうか、周囲の嫌韓意識に染まらず、首をすくめず、声をあげる勇気を持ち合わせるかどうかにかかっている。
初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載
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