『精神現象学』「絶対知」のアウトライン ならびに舞台装置としてのEntäusserung
- 2019年 3月 10日
- スタディルーム
- 滝口清栄
一 精神の生成を総括する「絶対知」、Entäusserungの意味するもの
1)(第一段落) 「絶対知」章の課題:宗教の表象性を克服すること。
この課題を遂行するベースは、〈自己意識の外化〉にある。
自己意識は自己を物として立て、そして自分に返る。
「自己意識は、この外化のなかで、自分を対象として立てます(この原型は、〈此岸的な自己を物となすこと〉としての労働にあります。『イェナ体系構想Ⅲ』)。あるいは、(個別存在としての)対自存在は(事柄の深層から見ますと、対象と)切っても切り離せない統一体をかたちづくっているものですから、対象を(知るはたらきであったり、行為であったりしますが、自己のはたらきが浸透したものとして)自己として立てるのです。他の面から言いますと、ここにはもうひとつの契機があります。つまり、自己意識は、この外化と対象性を廃棄しますが、同時に自分のうちに立ち返るのです。したがって、自分の他的存在そのもののもとにありながら自分のもとに存在します。」
対象は、自己意識の知る働きが浸透して、「精神的存在」となる。
2)第二段落~第七段落 この課題をふまえて、観察する理性、啓蒙と純粋明察、道徳性という三つの意識の形態を回想する。そして絶対知が引き受ける課題を示す。
(第二段落)現象学では、知が生成していくことがテーマになる。そして意識とその対象という枠組みがあるので、対象は〈精神的な本質態〉として現れることはない。
(第三段落) 意識の形態のなかで、対象を捉える。
その1:観察する理性
「こうして、(最初に問題になるのは)直接無媒介にあるかぎりでの、(意識と)没関係的な存在であるかぎりでの対象です。こういう対象に関して、〈われわれ〉は、〈観察する理性〉が、この没関係な物のなかに、自分自身をさがして見出そうとするのを見ておきました。つまり〈観察する理性〉が(外なる)対象を直接無媒介な対象として意識するのにちょうど対応して、自分自身のおこないを外的なものとして意識するのを見たのでした。
また〈われわれ〉は、〈観察する理性〉の頂点(頭蓋骨論で)自分の規定(自分のありよう)を「自我の存在はひとつの物である」という無限判断のかたちで表明したのを見ました。」
(第四段落)
前段落のまとめ:「「物は自我である。」実際には、この無限判断のなかで〈物〉は止揚されているのです(「自我は物である」と言うとき、この「物」はたんなる「物」ではないということが含意されていると見ることができるでしょう。その上で、このような逆転がでてきているのです。)」
その2:精神章の啓蒙と純粋明察
「〈物〉はそれ自体としては何ものでもありません。(多様の統一として)関係のなかでこそ意味をもつのです。自我を通して、そしてその物が自我と関係をもつことで意味をもつのです。この契機が〈意識にとって〉は(精神章の)〈純粋な明察〉と〈啓蒙〉ではっきりするのです。もろもろの物は誰がなんと言おうと有用なのです。そして、もろもろの物はその有用性にしたがって考察されなければなりません。」
(第五段落)その3:道徳性
「しかし、(関係ないし有用性という)ここで物の知はまだ完成してはいません。〈物〉は、(今見たように)存在の直接無媒介のあり方にしたがって、そして(具体的な)規定をもった存在にしたがってばかりでなく、本質あるいは内的なもの、〈自己〉として知られなければなりません。このような〈自己〉は道徳的自己意識(「精神」章の「道徳性」)のなかで現れます。この〈自己〉は自分の知が絶対的な本質的なものとして知るのです。あるいは〈存在〉を〈純粋な意志〉あるいは〈純粋な知〉として知るのです。」
(第六段落)その3、特にGewissen
「ここ(良心)では、(良心である)自己意識にとって、現実とは、(感覚でとらえることのできる)直接的な定在としてありながら、(普遍性の境地にある)〈純粋な知〉以外のいかなる意味ももちません。(良心は個別的な自己でありながら、そのまま普遍的な自己というあり方をしているのです。)」
ここに、行動に軸足をおく良心(個別)と批評に軸足をおく良心(普遍)の対立が生まれる。良心は他から承認される共同の場面を必須の要件とすることから、二つの良心の対立が突き詰められて、そこに赦しと和解が生まれる。
「両者は、〈自我は自我である〉ことを知るのです。(といっても、この自我は)この個別的な自己がそのまま純粋な知あるいは普遍的な知であるような個別的な自己なのです。」
(第七段落) 二つの面で生まれた和解を真に統合することが、ここでの課題になる。
「一方では、宗教的精神においてです(実体の外化、つまり受肉に始まる啓示宗教において)。また他方では、意識それ自身においてです(自己意識の外化、つまり精神章の展開において)。この二つの和解の区別はそれぞれ、前者の和解が〈(実体的、普遍的)自体存在〉の形式におけるものであり、後者が〈(主体的、個別的)対自存在〉の形式におけるものであるという点にあります。これまでの考察から分かるように、二つの和解はさしあたり別々です。」
3)第八段落~第一〇段落 道徳性を回想する。とくに、ふたつの和解の統合を行うものとして良心をとりあげる。
(第八段落)
潜在的に統合は生じている:「この(二つの面の)統合は、潜在的にはすでに生じているのです。なるほど、宗教において、〈表象〉から自己意識に立ち返るときに( 普遍的自己意識としての教団において )生じているのですが、しかし、それは(概念という)本来の形式にしたがったものではなかったのです。なぜなら、宗教の側面は、〈(普遍的客観的)それ自体〉の面で、この面は自己意識の運動に対立するからです。」
「それゆえ、統合(という作業)は、別の面のほうがふさわしいのです。この別の側面は(宗教とは)反対に、自己内反省の面です。…そして潜在的にあるいは普遍性をもって含むだけでなく、自覚的に(主体的に)あるいは(もろもろの契機を)展開したかたちで、区別をそなえたかたちで含んでいるのです。」
良心の〈美しい魂〉は、「精神が、自分自身の純粋で(自己と他者、自己と普遍的実体との区別をもはや含むことのない)透明な統一のうちで、自分自身を知る(という意味をもつ)ものです。」
これは、〈概念〉のあり方を示している。しかし「道徳性・良心」の〈美しい魂〉は、この〈概念〉の実現に踏み出さず、「空虚なもやのなかに消えゆく」だけであった。
「しかし、〈(読者としての)われわれ〉がすでに見たことなのですが(美しい魂は、批評する良心として行動に踏み出さなかったのですが、最後には、行動する良心の告白を受け、そしてついには頑なな態度を放棄し、行動する良心との和解へとすすんだのでした。)、この形態は積極的に(自分を)外化(放棄)して、前へと進んだのでした。」
〈概念の自己意識〉となった良心(美しい魂)の役割:こうして、良心は〈概念の自己意識〉として普遍性の形式を手にした。ここに現れてくることを、ヘーゲルはこう総括する。「(一面的な固執を放棄した後に)この自己意識に残るものは、この自己意識の真の〈概念〉、自分の実現を果たした〈概念〉なのです。」「 (この外化・放棄のあと、残るものについて、こう言ってもよいでしょう。)それは、(主体と客体という区別の境地を十分に経験して、その上で、主体と客体の統一の上に成立する)純粋知について知るということです。」
(第九段落)
行動する良心と批評する良心:その対立、告白と赦しがどのような意味を持つのか? それぞれ一面性を放棄断念して、相手によって自分を補完し、〈全体性〉、概念の境地に立つ。
「最初(宗教において)潜在的に起こっていることは、(今では)同時に意識にとっても起こっています(意識の自覚するところとなっています)。そして同じくそれ自身、二重になっています。つまり意識に対してあるとともに、意識の〈自覚的存在〉、言いかえるならば、意識自身の行為となっています。すでに(宗教において)潜在的に設定されているものが、今や(良心では)すでに起こっていたことを意識的に知ることとして、そして意識的行為として、繰り返されるのです。」
(第一〇段落)
ここで行ったことの確認:「われわれがここで付け加えたことは、(もっぱら次の二つのことです。)ひとつは、個々の契機を集めたことです。そのそれぞれが自分の原理のなかで全体的精神の生命を表現しているのです。二つ目は、概念の形式のなかに概念をしっかり据え置くことです。概念の内容は、今述べた契機のなかに生じていたでしょうし、また概念は、意識の一形態(美しい魂)のなかですでに生じていたでしょう。」
4)(第十一段落) 絶対知の成立、〈学〉が姿を現す
絶対知の成立を告げる:「(実体は主体であるという)精神の最後の形態、自分の完全な、そして真なる内容に、同時に〈自己〉の形式を与える精神、そしてそのことを通して自分の概念を実現するとともに、このような実現のうちにありながら、自分の概念のうちにとどまっている精神、このような精神が絶対知というものです。」
「精神がこの境地において意識に現象すると、…そういう精神は〈学〉というものなのです。」
5)第十二段落~第十五段落 現象学を全体としてふりかえる。そのなかに、実体は主体となるというテーマがもりこまれる。
(第十二段落) あらためて絶対知とは?
①「それは、この絶対知が自己意識の〈純粋な自覚存在〉である(自己意識が絶対知をしっかりと知を通して把握するにいたった)というかたちで明らかになっています。」「言い換えますと、〈(個別的なあり方が)止揚された普遍的な自我〉となってもいます。」
②「内容は、〈自我〉が自分の他的存在のうちにありつつ自己のもとにあることを通して、概念的に把握されています。」
(第十三段落)いつ、このような〈概念〉の境地は生まれるか?
「〈精神〉が、(余すところなく遍歴を通して)自分が何であるかを知るのはいつか。自分の不完全な形態を克服して、自分の意識に対して自分の本質存在の形態(イエス)を作り出し(受肉、啓示宗教)、このようにして自分の自己意識を自分の(対象)意識と一致させるという労働を完成させたときに初めて、〈精神〉は現に存在するようになり、そういう地点で初めて現に存在するようになるのです。」
(第十四段落)
実体、その諸契機、自己意識のつながり― これらは〈時間〉のなかで展開される
実体が最初からその豊かな姿を現すことはない。その個々の(抽象的な)契機の方が、内容充実した全体よりも先に現れる。
しかし、これらのもろもろの契機をたどるなかで、「自己意識はしだいに自分を豊かにしていきます。ついには、自己意識は、実体の全体を意識の方へと奪い取り、実体の本質的あり方の構造全体を自分の方へと吸い取るにいたるのです。」
時間:「純粋な自己ですが、外面的な自己であり、自己によって(しっかりと)把握されていない自己です。それは、ただ直観された概念にすぎません。」「それゆえ、精神は、必然的に時間のうちに現象します。」「概念が自分自身を把握するようになると、自分の時間の形式を廃棄して、直観のはたらきを概念的に把握します。」
(第十五段落)
〈精神〉の運動とは何か?― 実体が主体となるという観点から
「〈精神〉はそれ自体として、認識であるところの運動です。つまりあの〈潜在態)〉を〈顕在態〉に、実体を主体に、意識の対象を自己意識の対象へと変えることですが、同時に止揚された対象に、言い換えますと、概念に変えることです。このような運動は、自分に立ち返る円環をなしています。それは、自分の始まりを前提として、ただ終わりにおいてのみこの始まりに到達する円環です。」
6)第十六段落から第十七段落 絶対知が成立する哲学史的な流れ
個々の哲学者名は出てこないが、デカルト、スピノザ、ルソー、カント、フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルその人。これらは、〈実体が主体となる〉という枠組みの中で登場している。第十二段落~第十五段落を、哲学史的に補完している。
(第十六段落)
デカルト:「こうして意識は思考と存在の直接的統一を、抽象的な実在と〈自己〉との直接的統一を、それ自身抽象的に言明しました。」
スピノザ:「そして(東方の)最初の光をより純粋に、すなわち延長と存在の統一として呼び起こし―なぜなら延長のほうが光よりもいっそう純粋思考に同一的な単一態だからです―、このようにして、思考のなかで(東方の)日の出という実体をふたたび呼び起こしたのです。」
ライプニッツ:「このとき同時に、精神はこの抽象的統一や、自己の欠けた実体性から身震いして退いて、(ライプニッツに見られるように)このような実体性に対して
〈個体性〉を主張するのです(モナド論)。しかし、精神は(「精神」章Bの「自分から離反する精神」、つまり)教養において、この個体性を外化し、そのことによって、個体性を〈現に存在するもの〉として、すべての〈現に存在するもの〉のなかに個体性を貫徹させたのです。また(近代的啓蒙つまり『純粋明察』にいたると)〈有用性〉の思想に到達し、絶対自由においては、〈現に存在するもの〉を自分の意志として把握します。」
フィヒテ:「そのようにして初めて、精神は自分のもっとも内なる深みの思想を吐きだして、(フィヒテに見られるように)「自我=自我」として実在(本質存在Wesen)をはっきりと語るのです。」
シェリング:「あるいは(シェリングに見られるように)この〈主体〉は、同時に〈実体〉なのです。」
(第十七段落)
ヘーゲル:「しかし、精神は、〈(観望者としての)われわれ〉に次のことを示しました。(すなわち、精神とは)ただたんに自己意識が自分の純粋な内面性へとしりぞくことでもなく(フィヒテ)、また自己意識をただたんに実体のうちへと沈み込ませて、自己意識のもつ区別をないものとすることでもありません(シェリング)。
そうではなく、精神は、〈われわれ〉に、(精神が)みずから自己自身を外化し、自分を実体のうちへと沈み込ませ、そして同時に実体から主体として出て、自分のうちへと立ち返っていて、そして実体を対象とし、内容とするとともに、対象性と内容の(自己にたいしてもつ)区別を止揚する〈自己の運動〉であることを示したのです。」
7) (第十八段落) 学(Wissenschaft)の立場から精神現象学をふりかえる。
1 精神現象学と学
「精神が自分を形態化する運動には、意識における克服しがたい区別(知と真、知とその対象、実体性の形式と自己意識の形式)がついてまわっています。精神は、(絶対)知において、そのかぎりで、(以上のような歩みをへて)こうして自分を形態化する運動を完結したのです。精神は自分が現に存在する上での純粋な境地、(以上のような二元的区別を止揚するような)概念(の立場)を手にしました。」
「このことによって、精神は、(その内容をなす)現に存在するものとその運動を、精神の生命をなすこうした〈エーテル(概念)〉のうちで展開するのです。こうした精神が〈学Wissenschaft〉なのです。」
2 体系的学と、精神を形づくる諸契機
「精神をかたちづくる諸契機は、限定性をもった諸概念として、そして、諸概念の運動、それも自分のうちに根拠をもつ有機的な運動として表現されるのです。」
3 学の諸概念を、意識の諸形態の形式のなかで認識することの意味は?
「反対に、学(Wissenschaft)のそれぞれの抽象的な契機に、現象する意識一般のひとつの形態が対応しています。
(現象して)現に存在する精神は、学ほど豊かではありませんが、そういう精神は内容の点で(学よりも)貧しいわけではありません。学のもろもろの概念を、意識の形態の形式のなかで認識することは、これらの概念の(たんに架空のものではない)実在性の側面をかたちづくります。」
8) (第十九段落)精神現象学が出てくる必然性は、〈学〉にある。
そして絶対知は感覚的確信となって、精神現象学は円環をかたちづくる。
「学は純粋な概念の形式を外化する必然性を含む。そして概念が意識へと移行することを含んでいる。なぜなら、…(自分自身を知る精神になりたつ再建された)同一性は、区別の相をもつと直接的なものについての確信(感覚的な意識)になる。」「このように精神が自分の自己という形式から自分を立ち去らせること(外化)は、精神が自分を知ることに関わる最高の自由であり、最高の安全保障である。」
9) ふたつの外化― 自然と歴史、精神現象学は円環をかたちづくる体系
(第二〇段落)この「外化」は、対象が知との関係のなかにあるから、不十分である。
1 外化には、二通りある。ひとつめ:自然という空間への外化
「自然は、外化した精神である。自然は、それが存在するときには、自然が存在するうえでの永遠の外化(くりかえしおこなわれる外化)である。そして、それは主体を再興する運動である。」
2(第二一段落) 精神の時間への外化としての歴史。
「この外化は、外化そのものの外化(自然から立ち去って、知をともなう精神の生成となる)である。」
「この生成は、もろもろの精神がゆっくりと動き継起するさまを表現します。この生成は、もろもろの画像がならぶ画廊であって、だからこそそのそれぞれが、精神の豊かな富をそなえていて、ゆっくりと動くのです。そうなるのは、自己Selbstが、自分の実体の富全体に浸透しなければならないからです。そしてそれを消化しなければならないからです。
精神の完成は、精神が何であるかを、つまりその実体を申し分なく知るという点にあります。そういうとき、このような知は、〈自己のうちに入っていくことInsichgehen〉です。そうして、精神は、自分の現にある存在を見捨て、そして自分の形態を(内面化して)想い出Erinnerungにゆだねるのです。」
「精神の保存」としての歴史:三つのあり方をする
「歴史」:「偶然性の形式のなかで現象する存在の側面」
「現象する知の学」:「それらが概念的に把握された有機組織という側面」
これらふたつがいっしょになって、「概念把握された歴史」
二 精神現象学は、体系への梯子でありつつ、体系の外で円環をかたちづくる
―歴史の哲学という性格をもつ
1)第二〇段落、第二十一段落
精神現象学は、意識がさまざまな経験を重ねて学の境地にいたる道筋を扱う。読者は、この精神現象学が円環を形づくることを、この絶対知で初めて明かされる。
その意義は次の点にあるだろう。第十八段落「学のもろもろの概念を、意識の形態の形式のなかで認識することは、これらの概念の(たんに架空のものではない)実在性の側面をかたちづくります。」
2)「現象する知の学」:「それらが概念的に把握された有機組織という側面」に関連して
① 宗教章 冒頭
「まず自己意識と本来の意識が区別されます。(それから)宗教と、世界における意識つまり精神の(具体的な)存在が区別されます。このとき、後者は、精神の全体のうちにあります。それは、精神の全体のもろもろの契機がバラバラに分かれて、それぞれがそれだけで現れるかぎりでのことです。いろいろな契機とは、意識、自己意識、理性そして精神です。ここにいう精神とは、つまり、まだ精神の意識となっていないような、直接的な精神のことです。それらをまとめあげた全体性が、世界性をもった存在(weltliches Dasein)一般における精神をかたちづくります。精神としての精神(宗教)は、一般的規定をもつこれまでの諸形態を、つまり今あげた諸契機を含んでいます。宗教は、これらの契機の行程全体を前提しています。そして宗教は、それらの単一な全体性であり、それらの絶対的自己なのです。
ところで、これらの契機の行程は、宗教との関係では、時間のうちにあると考えられてはなりません。全体的精神(宗教)だけが時間のうちにあります。全体的精神そのものの諸形態であるところの諸形態は、(時間のなかでの)契機として現れるのです。なぜなら、全体だけが本来の現実性をもち、他のものに対して純粋な自由の形式をもつことになります。この自由の形式が時間として表現されます。
精神はその諸契機から区別されました。そのように、第三に、これらの契機から、これらの個別化された規定が区別されなければなりません。われわれは再び、今あげた諸契機のそれぞれが、それぞれに即して、固有の行程のなかで区別されるのを見たところでした。そしてたとえば、意識においてなら、感覚的確信、知覚が区別されたように、区別をもって形態化されるのを見たところでした。…」(GW.9.365f. 邦訳 一〇〇六‐七頁)
まとめ
1 宗教(表象性をまぬがれない絶対的精神)は、意識、自己意識、理性、精神を契機とする全体である。
2 意識、自己意識、理性、精神は、全体的精神の契機(構成要素)であって、時間のなかでの継起ではない。
3 ただし、それぞれの契機のなかで、個別的に形態化したものに分かれて、それらが時間のなかで表現される。
②「世界史」
「意識は、普遍的精神とその個別的あり方との間に、媒辞として意識のもろもろの形態化の体系をもっています。個の体系は、全体にまで自分を秩序づける、精神の生命です。こういう体系がここで考察されて、世界史として、精神の対象的な存在をもつのです。」(GW.9.165,上二九七頁 )
3)現象学のキーワードとしてのEntäußerung
「(これまでのもろもろの形態を自分の契機としてふくむ)純粋概念は、二つの側面をそなえています。そのひとつは、実体が自分を自分自身から外化(放棄)し、そして自己意識となるという側面です。ほかの側面は、これとは逆に、自分を自分自身から外化(放棄)し、自分を物つまり普遍的自己とするという側面です。二つの側面はこうして向かい合っているのです。そうして真の合一が生まれているのです。実体の外化は、つまり実体が自己意識となることは、実体が反対のものに移行することを、必然性にもとづく没意識的な移行を表現しています。言いかえると、実体は潜在的に(本来的に)自己意識であることを表現しています。逆に、自己意識の外化は、自己意識が潜在的に(本来的に)普遍的な実在であることを表現しています。…」(啓示宗教冒頭 GW.9.403、一〇九三‐四頁)
4)精神哲学1805・06年と『精神現象学』― 通底するコンセプト
①受肉
「絶対的宗教は、神は自分自身を確信する精神の深みであるという、この知である。これによって神は万人の自己となっている。万人の自己(である神)は、本質存在であり、純粋な思惟である。しかし、(それが)この抽象的あり方から外化(放棄)されると、神は現実的な自己(イエス)である。つまり、神はひとりの人間であり、ふつうの空間的時間的な存在をもつことになる。…神の本性は、人間の本性と別のものではないのである。」(GW.8.280)
②労働
「労働は、此岸的な〈自分を物となすこと〉である。衝動である自我の二分化は、まさしくこの〈自分を対象とすること〉である。」(GW.8.205)
「自我はなされたこと(Werk)において自分を行為として知り、内容そのものがすなわち自我によって存在するということを知る。」(GW.8.205)
(参考:『精神現象学』、主と奴論の労働論、その生成作用の成果:「しかし、今や、奉仕する意識は、この(自分とは)異なる否定的なものを破壊して、自分を(自分とは)異なるものとして、存続するエレメントへと立てる。このようにして自分自身に(自覚的に)向かい合い、個として自覚的に存在するものとなる。」(GW.9.115、上一九六)
〈われわれ〉の立場からのまとめ:当の奴の意識は、主のなかで「個としての自立存在」が自分とは異なるものではなく、自分と同じ「意識」によるものであることを観るものの、なお、形成としての労働の成果である「自分自身が自立的な対象であること」と「この自立的な対象がひとつの意識であること」を統一的につかむことができない。
しかし、「われわれ」の立場は、ここに「(形成された物の)形式と〈個としての自立存在〉は同じものである」ということを見ている。これを新たな舞台を念頭において表現すると、「自体存在の側面、つまり労働のなかで形式を受けとった物のあり方の側面は、意識とは別の実体ではない」という表現になる。ここに「(自我でありながら同時に)自体存在という意義をもつ自我」(GW.9.116、上・一九九)が姿を現すのである。これは、まず自体存在と〈個としての自立存在〉との統一を確信する「自由な自己意識」(ストア主義)として登場する。―主と奴の労働論を通して、 自体存在と対自存在の区別と統一という枠組みがはっきりと提示されて、〈精神〉をかたちづくる自体‐対自‐対他のうち、前二者の舞台設定がととのう。対他の契機は、理性章B以降、折に触れて登場して、道徳性・良心で主題的に取り扱われる。)
③外化と承認
契約のなかで犯罪が生まれたときに、侵害された意志を回復する運動のなかで、
「承認の成立する状態は、実現されて、α 特定の存在と特殊な意志を自分のなかに保持して、自分自身を外化(放棄Äusserung)しながらも自分を維持し、自分の意志を保持するものと考えられた。」(GW.8.236)
④精神哲学1805/06の外化論の輪郭
「私が共通意志のうちに積極的な〈自己〉をもつということが、知性としての、私によって知られたものとしての、承認された状態である。つまり、共通意志が私によって定立されており、したがって、私は共通意志のうちに否定的な形で〈自己〉を― 普遍的なものの必然性を直観することによって、もしくは(私の特殊性を)外化(放棄Entäußerung)することによって、― 私の威力として、〈私にとって否定的なものである普遍的なもの〉としてもつのである。」(GW.8.255)
⑤精神の概念
「個別者の完全な自由と自立性における普遍性」(GW.8.254)
(参考:『精神現象学』精神の概念「これから意識に生成してくるのは、精神とは何かという経験である。精神という絶対的実体が、その対立者、つまり相異なり独立に存在する自己意識が完全に自由であり自立していながら、両者の統一であること、すなわち、われわれであるわれと、われであるわれわれとの統一の経験である。」GW.9.108,上一八二)
三 暫定的まとめ
Entäußerung
1
Entäußerung論の土台に、自己を物となすこととしての労働がある。(精神哲学1805・06年)
2
この労働論が土台となるEntäußerung概念を基軸として、生産物の譲渡、それを通した権利の主体としての承認、不法を介した法=普遍意志の喚起、欲求の体系から、政治的国家の存立までの理路が示される。(精神哲学1805・06年)
そこで、個別意志のEntäußerungは、近代の主体性の独自の意味をふまえながら、個別意志と普遍意志、権利と法を相互媒介するという役割をもっている。
3
『精神現象学』のEntäußerung論は、この基本的なコンセプトを背景としてもっている。
この点は、宗教章冒頭を参照するとよい。ふたつのEntäußerung
4
さらに、絶対知章は、〈物〉が〈自己〉として捉えられていく上で(とくに、精神章)、Entäußerungに大きな役割を与えている。〈自己意識のEntäußerung〉は、自己を普遍化‐世界化するなかでの主体形成の役割を果たしつつ、世界の契機をひとつひとつ自己のものとする働きとなっている。―『精神現象学』における独特な役割。
5
Entäußerung概念は、精神と自然、歴史をつなぐものとしても用いられる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1023:190310〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。