書評:『ロシア革命』/和田春樹による「ロシア二月革命史研究」の集大成
- 2019年 11月 22日
- 評論・紹介・意見
- ロシア革命合澤 清和田春樹
『ロシア革命-ペトログラード1917年2月』和田春樹著(作品社2018)
膨大な資料(参考文献)を読み込み、事実関係の叙述にあたっては、逐一関連事項をロシア語の新聞、雑誌、書籍など可能な限りでの一次資料で後付け、2000点余りの出典一覧(引用個所の指示)を付した600ページに近い大著は、まさに和田春樹畢生の「ロシア二月革命史研究」の集大成であるとみて間違いないだろう。
こう書き始めると、重厚な学術書というイメージで、大概気が重くなり、気後れしがちであるが、実際には逆である。おそらく著者の文章力にもよるところが大であろうが、それ以上に、ロシア革命史の研究をこれだけ精密に丁寧にやりあげた説得力、当時の原資料に依りながらぐいぐい押してくるその迫力(初めて見る貴重な写真も数多く紹介されている)が、われわれ読者をして一気に読ませて、飽きさせない牽引力となっている。
特に1917年2月、首都ペテルブルクで労働者や兵士が立ち上がり、ソヴィエトを結成していく過程は、ドキュメンタリー映画を見ているようなわくわくした気にさせられるほど緊迫感、臨場感にあふれている。
この書物の課題はなにか
この本は全部で10章よりなる。それ以外に、「序章」と「あとがきにかえて」がつけられている。
序章は、全体の流れを概観し、著者の問題関心を知るうえで非常に役立つ。この本は次のように書き出されている。「1916年末、ヨーロッパ全体は巨大な戦場と化していた」。
従来の「ロシア革命史」研究は、おおむね指導的部分(党派や個人)の果たした役割を主軸にして書かれたものが大半だったように思う。だが、和田の視点はあくまでも「民衆運動の中に」据えられている。
民衆運動は、従来、自然発生的・散発的なもので、それ自身で革命運動までの高まりを生み出すことはない、と考えられてきた。いわば、「暗愚な民衆」ゆえに「革命の外部注入」が必要である、というふうに。
レオン・トロツキーが述べているように「指導的団体がなかったら、大衆のエネルギーは、ピストン筒に詰められない蒸気のように消散してしまう」(『ロシア革命史』)というのが旧来の考え方であった。
和田がこの書物を通して提起した一つの問題は、この「通説」への疑義である。勝手な推量かもしれないが、このような歴史観は、「フランス革命史」のジョルジュ・ルフェーヴルから柴田三千雄へと受け継がれた「社会史」的、あるいは「比較史」的な歴史観に通底しているのかもしれない。
評者の見立てでは、このような視座の変換は、「革命史」で今まで主流であった、「階級闘争史観」(=政治史)の教条的で頑迷固陋な単線主義へのある種のアンチ・テーゼであり、今まで蔑まれてきた民衆運動それ自体の中に、積極的・自立的な要因を認めようとする試みではないだろうか。
和田のこの視点は、あるいは彼自身が「ハンガリー事件」や「60年安保闘争」体験、ベトナム反戦運動から全共闘運動、日本と朝鮮半島間の問題への関わり、などを経験する中で培われてきたものなのかもしれない(彼は、別著『スターリン批判』などで、ほんの少しこのことに触れている)。
さすがにトロツキーは、先の引用に続いてこうも書いている。「だが、それにもかかわらず、ものを動かす原動力となるのは、ピストンでもピストン筒でもなくて、蒸気なのである」と。このことが今や強調され、見直されねばならないのであろう。
大戦勃発下で、深刻さを増す社会状況によって絶えず突き動かされながら、何とか現状を打開したいという民衆のエネルギーの高まり(ソヴィエト運動へと結集する下からのエネルギー)、これは確かにある意味で階級闘争と密接に繋がっている。しかし、それを定型化された党派の鋳型に無理やりに押し込まなければ階級闘争たりえないと考え、民衆の運動を一定方向に矯正しようとすれば、運動のもつ柔軟さは破壊されると同時に、その後に悲劇が訪れることは歴史によって裏付けられた。
第一次大戦前後のロシアの民衆とエリートの動向
本書の構成に立ち入るならば、10章編成のうち、第1章は、18世紀末から20世紀初めにかけてのロシア史の概説。第2章は、ラスプーチン暗殺などの事件を挟む一連の権力内部の改革運動と、ケレンスキーなどの民主派の動き。ロシア国内(特にペテルブルク)のブルジョア勢力の胎動などが取り上げられている。急速な産業化の動きと併せて、下斗米伸夫が積極的に提起しているロシア正教異端派=古儀式派との関係にも言及されている。
例えば、1915年、ブルジョアジーの組織である戦時工業委員会の全国委員会議長に選出されたグチコフは、モスクワの古儀式派商人の家の出身である、など。
当時のロシアのブルジョアジー組織が古儀式派と密接に関係していたこと、このことがロシア革命において大きな意味をもつことは下斗米の研究が証示している(下斗米によれば「二月革命は実は古儀式派の影響力を示した革命でもあった」といわれる)。
また自由主義者と呼ばれた「エリート層」の、次のような秘密の組織活動があったことも注目される。
「1912年『ロシア諸民族の大東洋』というフリーメーソン団体が結成された。…初代の最高会議議長ネクラーソフは、トムスター工業技術高専教授でカデット党の国会議員。メンバーとしては、コノヴァーロフ、エフレーモフ(進歩派)、ケレンスキー(トルドヴィキ)、プロコポーヴィチ、クスコーヴァ(元社会民主主義者)、チヘイゼ(メンシェヴィキ)、ガリベールン、ソコロフ(弁護士)など。コノヴァーロフ等は、1914年、モスクワのメンシェヴィキ、ボリシェヴィキと情報委員会を作り、一時はレーニンの意を受けたスクヴォルツォーク=スチェパーノフ(彼もフリーメーソン)の求めに応じて、ボリシェヴィキ党大会開催資金の提供をも約束する」「第一次臨時政府の構成メンバーに三人のフリーメーソンが入っていた。ケレンスキー、ネクラーソフ、コノヴァーロフである」。
現代のロシアの歴史家クリコフの2012年の論文によれば、ソヴィエト運動形成の前段階の運動として、上述したような様々なエリート層の運動体(組織)を媒介にして作り出された「中央戦時工業委員会と『労働者グループ』の活動」、これが、「二月革命の『始まりに立つ』もの」となったという。
これらのエリートたち(弁護士や文筆家や医者や教師、議員から成る)の運動とは一応区別されて、民衆の運動が第3章以下で取り上げられる。
民衆の運動というときの民衆は、大きくは都市住民、農民そして兵士に区分されうるであろうが、第3章では、そのうちの都市住民(主都ペトログラードの工場労働者層)と都市周辺部の兵士の運動に焦点が当てられている(和田には農民層の「マフノ運動」を扱った若いころの論文がある)。
「ペトログラード市民を構成する最も重要な集団は、工場労働者であった。1917年初め、首都ペトログラードの242万の住民のうち、工場労働者は38万4638人を占めていた。妻も工場で働いているとして、子供を10万人と見積もれば、首都の人口の5分の1は工場労働者とその家族だと言える」。
彼らの政治的傾向はどうだったのか。著者はこれを三つの層に分ける。
「第一の層は、多くの場合、ボリシェヴィキと左派の影響下にある18の先進的大工場の労働者、その周囲に集まる40弱の中小工場の労働者など、約7万人の闘争経験をもつ先進分子である。第二の層は、1917年の1.9闘争で初めて、ないしは本格的に闘争に立ち上がった50~55工場の労働者、約7万5千人である。プチーロフ工場はこのグループに含めておく。しかし、第三層として、全く戦時下の闘争に加わったことのない約900工場・24万人もの労働者が存在する。彼らは首都労働者の6割以上を占めていたのである」。
首都の労働運動に限って言えば、やはりボリシェヴィキが圧倒的な力量を発揮していたようである。
「ロシアでは、民衆の側に立つ政治諸派を『民主党派(demokratiia)』と呼ぶ。首都の民衆の中で活動していた民主党派で最も大きな勢力を保持していたのは、ボリシェヴィキ党であった。」
一方、兵士の側をみれば、有名なクロンシュタット(首都ペトログラードの湾内、40キロ離れたコトリン島にある海軍基地)の海兵隊を含めて「革命前夜に首都とその周辺にいた兵士の総数」は、(計算にかなりのばらつきがあるようであるが)おおよそのところ30万人前後とみることができるようだ(部隊の編成別一覧は、本書のpp.170-171に詳しく紹介されている)。
「二月革命の開始は1917年2月14日である」
第4章から7章にかけては、この大著のクライマックスである。しかし、ここで詳細に解説することは、不味い二番煎じになるだけなので控えさせていただき、本書の中からいくつかの論点をピックアップする程度にとどめたい。
和田は、二月革命の端緒は、1917年2月14日であるという。2月14日という日は、国会の再開催日にあたっている。そして、ペテルブルクでは「労働者グループ」の呼びかけによって、この日、国会へのデモ行進が予定されていた。
「宣伝班が用意した戦時工業委員会『労働者グループ』のアピールは『組織された労働者社民派』とか、『組織された労働者社民派の会議』なるカムフラージュした署名で作成された。…『直ちに自らの力の結集と組織化に着手する。工場委員会を選ぶ。他工場の同志たちと連絡し合意する。集会を重ねて、全ての同志たちに現時点の特別な重要性を説明する。自らの決定を他工場に伝える。』『闘争に組織されつつある人民に依拠する臨時政府』、『人民自身が組織する、人民の組織に依拠する臨時政府』の創設…。ここで『臨時政府』という意味は、なお不明瞭であるが、労働者代表の連合組織、工場委員会連合か、あるいは労働者代表ソヴィエトに依拠するブルジョア市民的臨時政府の創出だと考えることができる」。
因みにこの「労働者グループ」の呼び掛けにボリシェヴィキは反対し、独自に2月10日の一日ストを呼びかけたが、影響力はあまりなかったようだ。
むしろ留意すべきなのは、2月13日に、次のような「兵士のデモ」が起きたことである。
「国会再開前日に起こった最も重要な動きは、首都の西側のコロムナ地区で、レールモントフスキー大通りを中心として、召集を受けた国民兵500人ほどが(第一種か第二種かは不明)、『ラ・マルセイエーズ』を歌いながら行進し、『戦争反対、警察反対、悪徳商人をやっつけろ』と叫んだという、ゲリラ的なデモ行進を行ったことである。…このデモは2月14日の国会行進の呼びかけのプロローグとなり、さらに2月23日スト・デモの直接的な予兆であった」
当時のメンシェヴィキとボリシェヴィキの運動状況については次のように述べられている。
「(ボリシェヴィキとメンシェヴィキは)革命理論としては、ブルジョアジーの権力確立を当面の革命の課題とするメンシェヴィキの非連続二段階革命論に対して、労農民主独裁の確立を当面の革命の課題とする連続二段階革命論に立ち、土地の国有化要求を農業綱領として掲げていた。革命戦術としては、労働者の武装、『戦闘隊』を中核とする武装蜂起論をとっていた。臨時革命政府には参加すべきでないとするメンシェヴィキに対し、条件によっては参加することが許容されたが、それには『武装したプロレタリアートによる不断の圧力』を必須とすることが付け加わる」「1905年革命で生まれた労働者ソヴィエトを最初は否定していたが、1906年には、これが『一般革命闘争機関』になったとして積極的に関わることに転じ、ソヴィエトを革命的軍隊に依拠した臨時革命政府とすることを公的路線とするに至る」
「ボリシェヴィキは(1905年以来の)闘争の期間中、ついに世界戦争勃発の危機と結びつけて、闘争の意義を明らかにすることができなかった。しかし、ようやく開戦直前の17~18日になって、戦争勃発の危機を警告し、『戦争反対、戦争には戦争を』というスローガンを掲げたビラを発行した」「ボリシェヴィキは『ドイツの半封建的軍国主義』と『ロシア絶対主義』の二つの敵に反対するとの立場だが、英仏帝国主義と自国ブルジョアジーを批判しない点で(メンシェヴィキと)違いはなかった」。
そしてレーニンが『帝国主義論』を書いたのは、やっと1915年になってからである(「(ゴーリキーが)1915年4月、『パールス』出版社を立ち上げ、ポクロフスキーの編修で『戦前戦中のヨーロッパ』という叢書の出版を企画している。その総論の執筆を国外のレーニンに依頼…それが『帝国主義論』となった」)。
「1907年半ば以降、革命の急速な退潮と反動の中で、メンシェヴィキは、解党派(ポートレソフ)、『ゴーロス』派(マルトフ)、トロツキー派、プレハーノフ派(党維持派)に4分解。民族組織は、リトワニア・ポーランド・ロシア在住ユダヤ人の労働者総同盟(ブンド)、ラトヴィア地方社会民主党、ポーランド・リトワニア社会民主党に分裂。ボリシェヴィキは、左派の『フペリョート』グループ、右派のボリシェヴィキ調停派、レーニン派(レーニン、ジノーヴィエフ、カーメネフ)に分裂」。
レーニン派は圧倒的に少数派であった。
「ボリシェヴィキは合法の日刊新聞『プラウダ』(真実、正義の意味)と合法の機関誌を三種発行した。『プラウダ』は1914年初めから6月までの間に部数が2万部より4万部に増加、予約購読者は1914年7月1日時点で、首都で3125人、地方で8409人(メンシェヴィキの日刊紙は1万6千部、エスエルの機関誌=週3回は、1万2千部)。また、多くの工場の疾病共済組合理事会で多数を握り、書記にインテリを据え、これを工場内の党活動の拠点にした。1914年3月には、47~53組合のうち35~37の支持を得て、中央保険評議会、首都や県の保険審査会の労働者委員の選挙で圧勝し、ポストを独占した。労働組合でも、1914年にあった20の組合(組合員数2万2千人、組織率10%程度)のうち、最大の金属工組合をはじめ、14の組合の執行部を独占)。
1914年開戦前夜の(ボルシェヴィキの)ペテルブルグ市委員会は、シミット、アンチーボフ、フョードロフ、イオーノフ、シュルカーノフ、イグナチエフ、センツキーの7人よりなっていたが、最後の3人は当局のエージェント。
政治的自由のないロシアで、これだけの組織的力量をもったことは特筆すべきであろう。その力量をもって、ボリシェヴィキ党は1914年の労働者闘争を、単独もしくはエスエルと共同で呼びかけ、指導したのである。『7月闘争』は、こうしたボリシェヴィキの政治的力量を十分に示すと共に、その限界をもはっきりと示すことになった」。
革命政権樹立への道は決して平坦ではなく、一進一退の攻防が続く
「(国会では)カデットによる特別委員会の設置案が通った」そして、「この委員会の目的は『秩序の回復』と『人々や諸機関との交渉』と発表された。国会の態度は白紙ということである」しかしながら、「ヴィボルク地区では、ボリシェヴィキは引き続き街頭闘争に加わっていた。…革命の勝利が明らかになりながら、首都の各地区では銃声がなおやまなかった。その緊張感の中で、一枚のビラが各所で配布された。それは『結成せんとする労働者ソヴィエト』という署名のもの」で、「…革命が始まったのだ。一分も無駄にするな。臨時革命政府を樹立せよ」と呼びかけていた。
「ヴィボルク地区の活動家カユーロス以下(のボリシェヴィキ)」が出したビラには、「『労働者階級と革命的軍隊の任務は、誕生しつつある新しい共和体制の先頭に立つべき臨時革命政府を樹立することである』」と書かれていた。「労兵代表による臨時革命政府の樹立というのは、従来なかった新しい構想であった。しかし、労兵代表ソヴィエトのことが一言も触れられていないのは、この新しい構想がソヴィエト結成に対置されたものであることを示している」
しかし、あくまで帝政維持にこだわる勢力、またブルジョアジーを中心にした「立憲君主制」を望む勢力などが依然として強い力を保持したまま残存し、しかもソヴィエトの中も必ずしもボリシェヴィキの考え方でまとまっていたものではなかった。むしろ、ソフトな民主化と秩序回復を望む声が圧倒的であったようだ。ましてや、ここでは触れられていないが、地方の農村部においてはそういう声が圧倒的であったろうと推測できる。
「秩序の回復、伝統の維持、将校への服従―これがロジャンコの変わらざる呼びかけの内容であった。ミリュコーフもまた、『国会臨時委員会』こそ唯一の権力だ、『これに服従しなければならない』『なぜなら二重権力は危険だからだ』と述べ、『国会の指揮下にある自分たちの将校を見つけ、自ら彼らの指揮下に入れ』と訴えた。国会への忠誠と将校への服従は、またこの日から兵営を回り、市外から到着した兵士の出迎えに赴いた議員たちの訴えの中心的主張であった」「首都の革命は3月1日に至り、はっきりと二つの革命からなっていることが明らかになった。国会臨時委員会は臨時政府の設立に向かっており、ブルジョア市民の革命を表していた。ペトログラード労兵ソヴィエトは、労働者兵士の革命を表していた。それぞれの革命の中には、さまざまな路線があった。ブルジョア市民の革命の側には、ロジャンコ国会議長の進める動きがあり、これが成功すれば革命は軍事クーデターに引き戻されたかもしれない。その一方で、労働者兵士の革命には、軍隊民主化を急進させ、戦争反対に向かう動きがあり、これが進めば戦争続行を求めるブルジョア市民の革命との衝突が避けられなかった。このような内部分裂を抱えながら、二つの革命は臨時政府樹立の協議に向かうところであった。二つの革命が協定を結んで、革命権力を創り出す決定的な瞬間が近づいていた」「ボリシェヴィキが臨時革命政府を望んでも、ソヴィエトの多数派は『権力を望んでおらず、これを恐れている』ということである」。しかし、それにもかかわらず、「革命の前衛をなしたヴィボルク地区の労働者・兵士は、極めて戦闘的だったのである」
こういう微妙な緊張関係の上で、紆余曲折しながら臨時政府の成立と帝政の廃止が決まったのである。レーニンが帰国して、ペテルブルクに到着したのは、やっと4月3日のことである。それまで二月革命の激動の日々にあってボリシェヴィキを率いたのは、シリャプニコフとモロトフであったといわれる。
十月革命にいたる道はさらに険しかったであろうが、本書は二月革命の研究をもって擱筆され、それ以後に関しては次のように触れられているにすぎない。
「10月革命は、レーニンが望んだような武装蜂起で臨時政府を倒したものではない。ペトログラード・ソヴィエト議長であったトロツキーが中心となって、ソヴィエトの機構への攻撃に対して防衛体制を固めるという形で、臨時政府を浮き上がらせ無力化することで実現されたのである。10月25日の朝には、首都の全ての拠点は、ペトログラード・ソヴィエトの軍事委員会に忠誠を誓う部隊に握られていた。臨時政府の閣僚たちは冬宮に立てこもった。ケレンスキー首相は、いち早く脱出していた。この日の夜、『第二回全国労兵ソヴィエト大会』が開会したころ、冬宮はソヴィエト側に接収され、残っていた臨時政府の閣僚は拘束された。革命軍が冬宮に総攻撃をかけて、臨時政府を打倒したという10月武装蜂起の物語は、ボリシェヴィキによる神話にすぎない。ソヴィエト大会で、ソヴィエト政府が実現すべき政策が示された。
(1)即時の民主主義的な講和と即時の休戦の提議
(2)地主が所有する土地の没収と農民委員会への引き渡し
(3)軍隊の完全な民主化
(4)生産に対する労働者による統制
(5)憲法制定会議の招集
・・・」
ロシア革命像の変化と著者の所感
「あとがきにかえて」の中で著者は次のような所感を述べている。
この論文は「民衆の動きと民主諸党派に注目した研究であった」。この時期、ボリシェヴィキが、「首都の労働者の間でヘゲモニーを確立していたこと」は確かであるが、「その一方で私は、ブルジョアジーの中に、コノヴァーロフ、リャブシンスキーを中心として左翼自由主義勢力が誕生し、それがコノヴァーロフ、ケレンスキーらが加わったフリーメーソン式の秘密結社を生み、ついには民衆闘争と結合し、そのコントロールを狙う動きとなったとみた。二月革命を導く際に、ボリシェヴィキ党はいかなる決定的な行動提起も為すことができなかったのに対して、左翼自由主義と結びついた戦時工業委員会『労働者グループ』は、コノヴァーロフらとの合議の上で、国会再開日の2月14日に国会デモを呼びかけることで、決定的な役割を演じたとみた。この呼びかけは、ほとんど労働者を街頭に進出させることはできなかった。しかしこの失敗が、2月23日爆発的な行動を呼び起こしたとみることができる」。
著者の見解では、少なくともこの二月革命を領導したのは、従来考えられているようなボリシェヴィキやエスエルなどの左派グループなどではなく、むしろ自由主義的「エリート」(ブルジョア民主主義者)と結びついた民衆闘争、戦時工業委員会「労働者グループ」だった。そういう意味で、この二月革命を独自な内容をもった革命(ブルジョア民主主義革命)とみなしている。
しかし著者はまた、ロシア革命を三段階、つまり「二月革命からはじまり、十月革命、そして第三のレーニンの革命に至る、三段階のロシア革命像」に分類している。それ故二月革命とその後の革命との関連は、明らかに非連続的二段階(あるいは三段階)革命と考えてもいるようだ。
もう一つこの「あとがき」の中で次のことが指摘されている。
「(1991年以来)ロシア本国でも、ロシア革命についての見方が大きく変わっていった。社会主義革命-十月革命の評価は地に落ち、民主主義革命としての二月革命が高く評価されるようになった。リベラルの再評価が、顕著な傾向として現われた。2002年に出たペテルブルクのゲルツェン教育大学教授アレクサンドル・ニコラーエフの著書『二月革命における国会』は、二月革命における国会の積極的で革命的な役割を新資料をもって主張した」。
この歴史観の変化はソ連崩壊後のロシア社会の在り方と関連していると思われる。ちなみに、最後の共産党書記長だったゴルバチョフも、1997年に「17年革命が二月民主主義革命の段階でとどまっていればよかった」と言ったという。著者はこの新たな歴史観の意味を非常に重く受けとめているように思う。
和田春樹には、この『ロシア革命』に先行して書かれた『スターリン批判』という著書があり、この書では、スターリンの時代、およびそれに続く時代の民衆運動(民衆の自由)の圧殺の悲惨な歴史がやはり膨大な資料をもとに論じられている。
このことから推し量るなら、著者の頭にはまず「スターリン時代の悲劇」が、そしてそれを生み出した「ロシア革命」の「三段階」の質的変転が去来し、そこからそれぞれの段階の再検討、ロシア革命史全体の見直しの必要性が生じたのではないかと考えられる。
もちろん、だからといって著者が、ブルジョア的自由主義者に嚮導された二月革命をもって「ロシア革命」の実際的な完結と考えているなどと短絡するつもりはない。この点、先の下斗米伸夫が「ロシア革命が労働者革命であるというのは神話に等しい」と大胆に言い切っていることとの間の微妙な違いを感じるのだが、読み込みすぎだろうか?
評者としてぜひ著者に望みたいのは、スターリン支配体制の構造を生み出した根本問題は、歴史としてのロシア革命の那辺にあるのかの歴史的検証である。そのことと併せて、先の「非連続的」三段階を歴史上でどう連関づけていくのか、という点である。
そういう意味で、できれば十月革命とレーニンの革命に関する新たな研究論文の執筆をぜひ望みたい。
最後に歴史学の門外漢の評者としては、再び階級闘争史観へと引き戻すようではあるが、この「三段階」をある種の概念(つまり自由の理念の実現に向けた)のより一層の徹底化とみなすことはできないだろうか、それと実際の歴史的な進展とが非連続的にせよ重ならないだろうか、という素朴な疑問を提起したい。フランス革命史の研究家アルベール・マティエが、その著『フランス大革命』の中で展開したような、五段階を経て階級闘争が進展するという見方は、確かに単線的な階級闘争史観ではあるが、自由の概念の展開として考えた時には、「反動期」を含めて非連続的な経過を自由の概念の実現過程(≒階級闘争の進展)とみる考え方を、必ずしも珍奇な議論として棄てることもできないのではないだろうか。
2019.11.20 記
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〔opinion9201:191122〕
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