真正の人道は地勢と共に存在すべき――田中正造・第1部(6・終)
- 2019年 12月 3日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
5 近代的権利の発掘者
正造は鉱毒の被害に対してどう対処したか。彼は被害者が憐れみを乞うたり、銅山と示談して和解することを批判した。彼は汚染源による負担を原則として銅山の鉱業停止を要求し、憲法で認められた請願権を行使して賠償を求める。明治の欽定憲法は近代的な私的所有とその享有の「権利」を認めていたのである。その権利強調の姿勢は以前に栃木県の三島県令と対立した時と同じであるが、その主張はずっと強くなる。そして彼は被害が発生する以前の原状を回復するように訴えていく。
正造のその運動にもかかわらず、1892年・明治25年に仲裁会ができ、被害者と銅山の間に示談が成立した。また、地域住民の間で鉱毒に対する考えと利害が対立することがあった。この利害対立の構図は戦後の高度成長下での公害列島でも再現されるのである。
示談の論理
仲裁会による示談の論理は以下のようであった(「足尾銅山鉱毒事件仲裁意見書」1896年・明治29年1月、より)。仲裁会は県知事が推薦する県会議員が中心となり、被害者代表と市兵衛の間に立って「熟議」のうえで両者の利益になる案を納得させようと考えた。それは行政処分でも司法解決でもなく、言うところの「徳義上の裁判」であった。それによるとこうである。銅山業は単に市兵衛の私益だけのものでない。銅山は年200万円以上を算出する「東洋無比の鉱山」である。それは足尾町に住む数万の住民の生計を直接間接に維持するとともに、県下各地に様々な商品を需要しており、しかも日本の重要な輸出品として「国家経済」の「一大富源」ともなっている。それが急に鉱業停止になると、どうなるか。
仲裁委員はそう言って、次のように論を進める。
①足尾銅山が鉱業を停止させられれば、「全国の鉱業社会に大恐惶を生じ」日本の鉱業は地に堕ちてしまう。
②鉱業は停止しても鉱毒の被害はなくならない。なぜならば、鉱毒は平常では川底に埋まったままであって被害を生じさせないが、洪水が下流に鉱毒を流して被害を生んでいるのだから。
③裁判所が住民一人一人の被害を認定し賠償金額を決定することは難しく、最終的な決着がつくまでには時間がかかる。
今日のわれわれからすれば、以上の言い分や論理の中には、時代が変わって戦後の民主主義と新憲法のもとにあっても、公害反対運動に対して繰り返されたものがあると気づくのである。
仲裁会は以上のように理屈づけた後で、だが被害地域の窮状もほっておけないからと言って、銅山経営の繁栄を維持したうえで被害者の救済をも同時に実現する方策を提案する。それが損害賠償であった。被害にあった地区ごとに被害面積と地主数を計算して賠償金を決めるものであった。
この仲裁に対して、鉱業停止論の側は自分たちを「正義家」とみなし、仲裁委員を市兵衛から賄賂を受け取っている「不正の人」と攻撃したが、それは運動する時の二分法であるから――正造が六角家を改革する際にも用いていた論法ーー、仲裁委員が実際にその通りであったかどうかはよく調べてみないと分からないことがある。彼らを人格的に非難するには少し注意が必要であろう。少なくとも仲裁会側は仲裁ができるまでは自弁で任務をはたし、市兵衛とは秘密でなく公然の席で面会したと弁解しているのであって、これは聞いておいてよいだろう。
ただ、そこに問題があったことは事実である。賠償を算定するのに「自家損害」のみが根拠にされたこと、地区ごとに示された金額は大きく見えても一人一人にすると少額であったこと、地区によっては永久示談とされてしまったこと、等。
木下によれば、示談を進めることに積極的なのは地域上層の「旦那」側であった。それに対して政府への直接請願を進めたのは自作農たちであったようだ。運動の仕方は階層的に分断されている。
結局どうなったかというと、被害民は仲裁会の議論に負けて示談に応じてしまった。
正造はその原因を指摘しているが、それは当事者の農民には近代的な法律や経済計算の知識がなく、そうするだけの生活の余裕もなかったからであった。
住民間での利害の対立
渡良瀬川の上流と下流の住民の間で利害が対立する。1897年・明治30年2月、上流の足尾町から下流側の鉱業停止の要求に対して非停止の陳情書が出された。その言い分は次のように仲裁意見書で示されたものとほぼ同じであった。――銅山は多くの人の生計と「国益」に寄与している。鉱毒の被害は銅山の広大な利益に比べれば小さなものだ。鉱業のような広大な公益事業は多少の弊害を伴なうものなのだ。
上流と下流の両者は双方を超える「下野公共の通義」とでもいうべきものに立てなかったのである。正造もそのことを痛感する。足尾町に住む者や会社に雇用された労働者の中にも鉱毒の被害を受ける者はいたのに、それを告発することは難しかった。現在でも原発企業の労働組合は原発破棄に賛成することはないのである。実際の政策実践に当たっては運動の論理だけでなく、銅山会社の既得利害や雇用、地元住民の利害にも配慮することは避けられないだろうから、現実は複雑である。
護憲=活憲
さて、正造は対抗者には罵詈雑言をいとわないが、力づくには反対する。彼は憲法と法令を正当に実行させようとする。ここにこう書いてあるではないか、それを実行せよと言うのである。
まず彼は天皇主権の大日本帝国憲法から近代的な権利を意識的に掘り出す。憲法発布の勅語ではこう書かれていた。「朕は我か臣民の権利及財産の安全を貴重し保護し憲法及法律の範囲内に於て其の享有を完全ならしむへきことを宣言す」と。正造は天皇が特に近代的所有権に言及していることに注意を喚起する。
彼はそのうえで第27条の所有権保護の規定を引用する。「日本臣民は其の所有権を犯さるることなし」。
そして第30条の請願権に言い及ぶ。「日本臣民は相当の敬礼を守り別に定むる所の規定に従ひ請願をなすことを得」。
正造は以上の面での活憲論者であり護憲論者なのであって、憲法を生かし守らないことが「破憲」であった。
他方、法律の方はどうなっていたか。
日本鉱法と鉱業条例は次のように定めていた。「試掘若は採鉱の事業公益に害あるときは農商務大臣はすでに与へたる許可を取り消すことを得」、と。
その他、被害民を救済することのできる法令は探せば無数にあった(参照、高橋秀臣編「鉱毒事件と現行法令集」、内水護編「)。
でも立派な法律や条例・行政規則はあっても、それを実行するモラルがなかった。後発国に固有の問題、「仏作って魂入れず」である。
後の谷中村遊水地化問題に際してのことであるが、正造は「谷中村一ツとや節」を作詞して村民にこう説くことがあった。
「一ツとや 人に権利を割かれるな
二ツとや 二股大根割かれても
三ツとや 自ら避けるな退くな
四ツとや 余つ程権利は大切さ
……(これが10番まで続く)」
では正造は近代的な民主主義者であったか?彼は以前に自由民権運動に参加していたが、天皇主権を否定して国民主権や普通選挙を主張する者でなかった。彼は国家をして人民を自分の身体と同一視させる国体的な考えの持主なのである。その彼が所有権の近代的権利を強調する!これは一つの逆説である。
6 人は人をだますことはできるが、自然をだますことはできない
結局、運動と世論の力も加わって、政府は銅山に予防工事を命令せざるをえなくなった。1897年・明治30年5月27日には、第3回目の命令書が出される。それは全部で37項目にもわたり、工事期間は長いもので180日と実に短く、内容は厳格なものであった。それは周囲からはとうてい実行不可能で理想以上のもの、事実上鉱業の一部部停止を命じられたものと思われたが、市兵衛は政府の命令だからということで、直ちに突貫に次ぐ突貫で工事をやり遂げてしまう。彼は渋沢の第一銀行から100万円の融資をうけ、大変な数の人員と量の材料を動員する。この銅山の危機に足尾町が「同情援助」するというエピソードが伴った。
予防工事では鉱毒を処理する沈殿池と濾過池、亜硫酸ガスの脱硫塔(石灰乳に通す)、残渣の堆積所等が建設された。問題はそれらの工事が有効であったかである。施設がないよりは効き目はあったが、完全とは言えず――監督署長南挺三の監督が十分であったかは疑問視されている。彼はその後銅山の所長に招かれた!――、無効なものもあった。
銅山からは工事が終わった後、「足尾銅山予防工事一班」が提出された。私にはそこで示されている施設や工事後の排水の水質分析および排出された亜硫酸ガスの濃度の数値について判断する力はない。木下等他の人の検証や銅山側の検査報告を参考にするしかないのだが、工事が完全でなかったことは確かのようである。
例えば、沈殿池と濾過池について。それらは坑口や選鉱所から出る排水を受け入れるのだが、実際の面積は命令より広くとられていた。でもそれはたまたま設置の場所が平地であり、他の個所では地形上無理であっただけのことであった。濾過には砂を用いるが、それは付近の渓谷では得られず、遠方からしか得られないので、輸送にコストがかかる。そのため砂は何度も使われるが、その洗浄に用いられた水は処理されることなく川に流されていた。施設の位置も適切でなかった。沈殿池・濾過池の水は冬の厳寒期には結氷する。銅山側によると、それらは交替池なので、ある池が氷結しても他の交替池を作用させることができるとか、沈殿作用中の池は流動しているので結氷することはない、また通常の水より温度の高い坑水を注入していると弁明していたのだが。さらに暴風雨で山の崩落が起こり、それらが一部埋まることもあった。こうして濾過池から出る排水の銅分についてもどの程度減ったか、はっきり言えないのである。さらに堆積場からはその上に降る雨水によって鉱毒がしみでるが、それは処理されないで川に流された。脱硫塔はどうか。それは各精錬所からの排気を集め、石灰乳を使って脱硫し、脱硫後のガスを煙突から排出するものであったが、その効果は不十分であった。
こんなわけで正造は次のように認識せざるをえなくなる。人間の法律や命令、工事の技術や設計は天候や地質・水質を考えないと無効に終わる。その場合には「人力」は自然の「大勢力」に勝つことはできない。
「天然は奪ふべからず。人道は矯むるを得ず。」
「真正の人道は地勢と共に存在すべき。」
こうして正造は以上の運動のすべてをへて、次のような文明観をもつ。
「真の文明は山を荒さず川を荒さず村を破らず人を殺さざるべし」
これは戦後の公害列島を経験し、今の原発爆発や地球環境問題の真っただ中にいるわれわれの胸にすとんと落ちる言葉ではないか。
では真の人間主義=自然主義はどういうものか。それは次の第2部のテーマとなる。正造の人間・自然認識はぐっと深まる。
付 その後の鉱毒問題
1947年9月のカスリーン台風で渡良瀬川に大洪水が発生する。
その一因は上流の山の荒れであるが、それを機に渡良瀬川上流の仁田元川と松木川、九蔵川の合流点にダムが建設される。
1956年、銅山はフィンランドの自溶精錬法を取り入れ、硫黄と鉄の酸化による熱で銅を溶かすようになり、ここでようやく亜硫酸ガスを硫酸として回収するようになる。
1958年、ゲンゴロウ沢の堆積所が抜けて廃液が流出し、下流の水田に害が出る。
1970年、群馬県は収穫米がカドミウムに汚染されたので、渡良瀬川流域の桐生・太田市の農地360ヘクタールを土壌汚染対策地域に指定して土壌改良を進める。2017年の現在では対策地は12ヘクタールとなる。
1973年、銅山は銅鉱脈の枯渇によって閉山する。その後は第2会社が粗銅を輸入して精錬のみをする(私は1980年代にそこを工場見学した)。
1974年、公害等調整委員会が調停案を出し、古河鉱業に被害補償を認めさせる。銅山はここに至って初めて正式に謝罪する。その後住民による監視が今日まで続いている。
1989年、『社会新報』が今でも鉱毒が下流の農地を汚染していることを報道する。現在でも鉱毒による稲作の被害があり、住民は風評被害を恐れている。
2007年、古河機械金属と近代産業史専門の大学教授が銅山の光の部分にも目を向けるという名目で銅山の世界文化遺産の登録を目指す運動を始める。
2011年、東日本大震災でゲンゴロウサワの堆積所で2度目の決壊が発生する。
現在の足尾町はどうしようとしているか。町長は、足尾銅山が公害の原点というだけでは暗いから、これからは観光に生き、地場産業(例、銅山の廃泥を材料にした陶管製造)を育てたいと述べている。それ以上に観光の中身は深まらないようである。せめて、はげ山の植林体験をするとか、下流の町村での環境保全運動体と交流するとか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1087:191203〕
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