◆ アカショウビン
>この「HAGOROMO」を描く行為は、初段階のギクシャクするような苦行を超えたさらなる「修行」ということかもしれないと、今思います。なぜならまったく不安もなく、苦しくもなく、楽しみながら澱むことなく自然に導かれるように自己を啓いていけばよかったのですから。(“ガランドウ”であることが、良いように幸いしました一例です。)
★ほとんど禅ですね。ワコウさんは座る代わりに描き続けて幾人かの禅者が到達したとされる或る境地を経験したのではないでしょうか。最近、西洋神秘思想と禅を比較した論説や鈴木大拙を読み返していますと、どうもそちらのほうに引き付けて考えがちです。悪しからず。浄土教では往相・還相と説いていますが「ガランドウ」から「充填された状態」へ、また、その逆へというのが親鸞の至った境地と聞きます。それを体験されたようにも思えますが。
>今までにない世界、己を無くすことによって得られる世界に突入出来たのです。
★やはり、そうでしょう(笑)。
>「表現」というような硬い立て方・思考回路では絶対に突入できない「トコロ」でした。
★「トコロ」とは仏教でいう境地・境涯でしょうね。大拙は、これを英訳しようと苦心して適当な訳語が見つからない、と書いています。(「東洋的な見方」鈴木大拙著 上田閑照編 岩波文庫p37)それを state of mind、 mental attitude、general affective tone 、psychic atmosphere と工夫していますが。
>まさに修行の最終段階です。トランスということでしょうか。
どのように言ったらいいでしょうか、無理のないとても心地よい状態です。
★それは何とも、さいわいなるかな、という境地でしょう。
>アカショウビンさんがおっしゃる突っ立つトーテムポールや、キューブリックのモノリスのようなモニュメント的形態のあるものではありません。(これらはワコウにとっては男の考えた世界から生まれた胡散臭さを感じさせます)
★わかります、わかります。私は実に胡散臭い男であります(笑)。
>人間の考え得る世界を超越しているということでは、同じだと思いますが、もっと優しくてソフトでフレキシブルです。
おどろおどろしさや、威嚇や、畏怖の念などは皆無です。もっと身近です。
★禅者なら正に禅定と言うでしょうね。
続き、楽しみです。
◆ ワコウ
アカショウビンさん
実を申しますと、アメリカに行く前に、もう少しちゃんと「源氏物語」と「禅と日本文化」位は読んでおこうと思っていたのですが、
慌しさのなかで、果たさぬままになってしまいました。
向こうで日本通の彼らとの会話の中で、それらをなまなかなワコウの感覚でしゃべったら、
それが受けて感心され、本人としては 「チョットチョットマッテヨ」 という感じでした。
ワコウの深層心理のなかに、(生まれと育ちと感受性の強さから)武士道や禅は、それなりに無意識の中に醸成されていたようです。
武士道や禅の本は殆ど読んだことが無いのにですから。(これを機に読むことにします)
彼らは知識でそれを理解しようとしていますが、
ワコウの場合は、身に付いた、常日頃の behavior によって無意識に滲み出ているのだと思います。
彼らがそのように言っていましたから。
彼らと話していてとても楽しく感じたのは、彼らの評価の基準が、一にも二にも独創性、独自性なのです。
その辺の本を読んで得た付け焼刃の浅薄な知識よりも、「私の意見、どう考えるか、どう生きてきたか」
ソコに重きを置いていたので、ワコウのような、知識不足で何事においても感覚(直観力)想像力、創造力が動く人間にとっては居心地がよかったのです。(だから、日本よりアメリカが好きなのです)
話を元に戻します
>半紙に描かれた一枚一枚の形象は個々の人間のDNAのようにも見られます
spontaneousに描いていたのですが、25年位前、まだコンピューターが今日のように身近になる前、魚眼レンズや超広角レンズや顕微鏡を使って見えたものを絵画にするということが流行った時に、(世界的にアメーバーやミジンコやめしべやおしべや葉脈などが盛んに描かれた)国会図書館に行って、細胞分裂の顕微鏡写真や映像を片っ端から観たことがあります。
薄く溶液の張られた平板なシャーレから、突如ナニカが生まれ、見る見るうちに、えもいわれぬ絶妙の形態が出現し、その瞬間を固唾を呑んで好奇の目で、そしてうっとりと眺めたことを思い出します。
また一個のものが二個になるその瞬間の、音も無く弾ける楽しい生命誕生のリズムとユーモラスな感覚と形態に感じ入ったものでした。何度も何度も繰り返し観ました。
ですから潜在的にその感覚があったことは確かです。
生命の誕生の礼賛と歓喜です。
birth-rebirth の Circulationです。
>あるいは天空の神々が伝える死すべき者たちとしての人間たちへのメッセージのようにも。 羽衣は神々との交信の道具でもあるのでしょうか。
「HAGOROMO」には死の感覚はありません。
「神々」といわれると困るのですが、西洋的な全知全能の絶対者としての神々というのではありません。そのナニカを神と呼ぶなら鍵カッコつきの「神々」です。
「やおよろずの神」なのでしょうか?
無限の天空のナニカからの交信であるとも思います。
「HAGOROMO」がそれをメッセンジャーとして伝えているとも謂い得ますし、
「HAGOROMO」そのものがナニカかもしれません。