■再開のための哲学  マチュー・ポット=ボンヌヴィル著「もう一度・・・やり直しのための思索」(Recommencer)

著者: 村上良太 むらかみりょうた : ジャーナリスト
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 フランスの現代哲学者マチュー・ポット=ボンヌヴィル著「もう一度・・・やり直しのための思索」を4月末に翻訳出版した時、ちょうど新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の最中で、書店の多くが臨時休業、というような時期でした。売り上げ的に困ったナとその時、思いましたが、テーマとしては好機だったのではないかとも思いました。今まで少なくとも西欧の哲学史では「やり直し」とか「再開」あるいは二度目の試みの意味について考えたものは乏しいそうです。

 うまくいかなかった最初の試みをどう克服して再出発するか。これは多くの人にとって身近なテーマです。そこにはまず「始める」ということはどういうことか、人生における二度目の難しさ、政治におけるやり直しの問題、使いまわされてきた言語がどう再開に影を落とすか、過去の歴史を見直してみる必要性など、「再開する」「やり直す」の意味が論じられますが、それらの難しさは根源的にrecommencer(再開する、やり直す)という言葉が①一度目の試みを継承する、ことと②新しくやり直す、という矛盾する2つのことを含んでいるからだと言います。

 本書を手に取って読んでいただいた方々から、複数いただいた感想の中に「なかなか難しい」というものがありました。この難しさの原因の1つは原文の文体の難しさを日本語にどう移し替えるか、という時に、原文の難しさを日本語にも移したことが挙げられるかと思います。もちろん、筆者が未熟で生硬な訳になってしまった部分もあろうかと思うのですが。なぜそうしたのかというと、マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏は新しい表現を試みる哲学者であるからで、そうした言葉への前衛的な姿勢はマチュー・ポット=ボンヌヴィル氏が専門とするミシェル・フーコー自身が試みていた事でもあると言います。つまり、哲学でもなければ文学でもない、哲学と文学の境界にある文章をつづって表現しようという姿勢です。ですから、それをわかりやすく日本に古来からある言い回しに平たく意訳してしまうと、マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏の意図をある程度削ってしまうことになると思えたのです。日本語で生硬な文体であっても、著者が単語を重ねて展開した文章をなるだけ壊さないようにしたいと思いました。

 難しさのもう1つの理由は哲学領域に関するフランスの一般人の持つ基礎知識と、日本における一般人の基礎知識との間に大きな開きがあるのではないかということです。本書には西欧哲学の古代から近現代まで様々な哲学者や文人、芸術家のエピソードが出てきますが、日本では哲学を専門にしない一般の人々にとっては注釈をつけないとイメージできないことが多々あるかと思います。たとえばデカルトの「省察」という本が出てきますが、「方法序説」は知っていても「省察」は一般の人にはかなり遠いのではないかと思います。ですから、「省察」の冒頭が「徒然草」並みに学校教育のなかで浸透しているらしいフランス人とは前提となる部分が違っているようです。また最終章で取り上げられるフロベールの小説「ブヴァールとペキュシェ」の二人の登場人物の話も、どう読んだらいいのだろう?と聞かれたことがありました。「ブヴァールとペキュシェ」はフランスではかなり読まれている小説で、いろんな論じ方をされていてわりと親しまれている本です。しかし、筆者自身も少し分かりにくく感じたことがあり、著者に問い合わせたことがありましたが、単純に彼ら登場人物たちを批判するのではなく、むしろ、西欧の歴史のあり方、より詳しく言えば西欧における知の歴史のあり方をコミカルな登場人物たちを道化あるいは狂言回しにして批判的に見ているようです。これもマチュー・ポット=ボンヌヴィル氏が研究してきたミシェル・フーコーの影響ではないでしょうか。
  
 以上の事から、読みやすい本ではないでしょうし、1時間で西欧哲学がわかる・・・的な本ではないことは明らかです。しかし、逆に言えば、すぐに本書をわかろうとせず、むしろ、登場する知識人のそれぞれの著作に手を伸ばして親しむことで、本書は10倍、いや20倍にも広がっていく可能性があるのです。暗記本位の勉強は捨てて、「謎」を1つでも多く蓄えて、自分で答えを考えるのが勉強でしょう。ですから本書をビーフジャーキーのように、できたら1年くらいかけてゆっくり噛んで味わう、そうした味わいが本書の特徴ではないかと思います。やわらかいぬれ煎や神戸牛みたいなものにはしないで。

 筆者自身も哲学が専門ではないので、マチュー・ポット=ボンヌヴィル氏の本書の翻訳を通して初めて、これまで疎遠だったミシェル・フーコーやロラン・バルト、あるいはジャック・デリダなどに親しむようになりました。これらの人々の著作物は筆者の学生時代には日本であふれるほど書店で見かけたものですが、最近は比較的乏しくなっているだけでなく、書店自身も半減しています。(先ほど「初めて」と書いてしましましたが、以前一度、二度と読もうとして頓挫したことはありました)しかし、彼らの著作物には今でも十分に読んだり、研究したり、論じたりすることで社会を豊かにしていくためのヒントが詰め込まれていると思っています。むしろ、今が旬なのかもしれません。その意味では本書は日本における哲学教育のあり方への問題提起でもあると思います。インターネット時代の今日では哲学者とキーワードを結ぶだけの知識の教育では意味がなくなっています。

村上良太

※本の写真のキャプション マチュー・ポット=ボンヌヴィル(Mathieu Potte-Bonneville)1968 年、フランス中部のティエールで生まれる。哲学者で、ミシェル・フーコーの研究者として著名。パリの総合文化施設、ジョルジュ・ポンピドゥー国立芸術文化センターで映画や演劇、討論などの催しを担当するディレクターをつとめている。2010年から2013年までパリの国際哲学コレ―ジュの議長をしていた。著書には本書以外に、「Michel Foucault, l’inquiétude de l’histoire」(PUF, 2004)や、歴史家フィリップ・アルティエールとの共著「D’après Foucault ~Gestes,luttes, programmes~」(Les Prairies ordinaires, 2007)など。また、最新刊としてマリー・コスネイとの共著、「Voir venir – écrire l’hospitalité」(Stock, 2019)がある。©Gilles Potte

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〔opinion9920:200708〕