ヘーゲルについてというと、その哲学思想が話題になるのがつねであるが、ここではあまりスポットをあてられることがない、ヘーゲルのイェーナ時代の終盤からバンベルクでの編集長時代について、とりあげてみる。そこに、ゆれうごく時代状況に翻弄されながら、市民として、編集者として、哲学者として身の処し方をさぐるヘーゲルに、われわれは出会うであろう。
1 イェーナからバンベルクへ
1806年10月14日に始まったイェーナとアウエルシュテットの戦いの砲声を聞くころ、ヘーゲルは『精神現象学』の原稿をようやく書き上げて、バンベルクの学術書出版社ゲープハルトに、身辺が混乱するさなか、約束した期限に間に合うよう、かろうじて原稿を送ることができた。ところがほっとする間もなく、戦争の影響でイェーナ大学が閉鎖となり、ヘーゲルは職探しに動く羽目になった。11月半ばから年末にかけて、ヘーゲルは親友ニートハマーのいるバンベルクに赴いて、出版に向けて動き出した『精神現象学』の校正や序文の執筆に取り組むことになった。滞在する部屋はニートハマーの住まいの一室であった。ヘーゲルは遅筆のために出版社とトラブルをたびたび起こしていたが、ニートハマーはそれを調停してくれたものである。ニートハマーのもとで旧交を温め、落ち着きを取り戻す中で、ヘーゲルはいくつかの手づるを通して、職探しを続けたが、うまくいかなかった。その後、ヘーゲルはイェーナにもどり、ゲーテにも職の斡旋を願い出ていたが、これも叶えられなかった。
1807年2月に入ると、ニートハマーは、バイエルン王国の首都ミュンヘンに移って中央視学官となり、新しい教育計画の立案に携わることになるが、その2月16日付の手紙で、バンベルク新聞の編集者のポストが空いたのでどうかと、ヘーゲルに書いてきた。3月からの仕事なので、回答は急ぎを要した。ニートハマーの強い促がしもあって、ヘーゲルは受諾の手紙をしたためた(2月20日付)。そこにはヘーゲル自身の無収入というひっ迫した経済状況があった。編集者の年俸は540グルテンであった。私生活では、下宿先の女主人ブルックハルト(1778⁻1817)との間に庶子ルードヴィヒ(1807.2-1831.8)が生まれ、のちにヘーゲルのゲオルク・ルートヴィヒ(1776-1812)が彼を引き取ることになる。ヘーゲルはこうして降りかかる苦難をあとにしてバンベルクに赴くことになる。しかしバンベルクでは、難産の末にようやく『精神現象学』が1807年4月に陽の目をみる。
3 バンベルクという都市、点描
ヘーゲルが1807年3月から20カ月過ごしたバンベルクはどのような都市だったのか。ヘーゲルがバンベルクに滞在していた1807年3月から1808年11月にかけての書簡からは、彼が主に医師、聖職者、公務員、陸軍士官などと付き合っていたことがうかがえる。哲学的な話題は出なくても、ヘーゲルにとって、バンベルクの教養ある市民との交流はけっして気まずいものではなかった。このバンベルクはどういう都市なのか、かいつまんでみておこう。このことを通して、ヘーゲルにとってこの街が動きやすいものであったことがわかるであろう。
バンベルクは数世紀にわたってカトリック教会の司教領であったが、1802年秋にバイエルン軍に占領され世俗化されて、バイエルン王国の地方都市となった。1804年の人口は18,388人だったという。その結果、大聖堂や大学が閉鎖され、司教座の官僚機構やほとんどの修道院が解体された半面、地元のプロテスタントは、1806年以降、聖シュテファン教会を与えられ、バンベルクは多宗派の都市となった。
それとともに、バンベルクにはシビックな気風も生まれていた。1792年、地元の有力者たち(弁護士、医師、実業家、職人)は週ごとに非公式に会合をもっていたが、このクラブは1796年に「地元有力者協会」となり、1808年に「ハーモニー」と名を変えた。このクラブは、「地位のある人、芸術家、実業家、高貴で道徳的な性格の尊敬すべき市民なら誰でも」受け入れ、ヘーゲルがバンベルクに滞在していた時代には、約200人の会員(男女を含む)を抱えていたという。
また、バンベルクは当時、先駆的な医学の中心地として、教養ある人々によく知られる街でもあった。司教の専属医であったマルクス(Adalbert Friedrich Marcus、1753~1816)は、のちにフランケン地方の医療責任者として幅広い改革を実施した。その結果、バンベルクの医療制度は、当時の水準からすると非常に高度なものとなったという。ヘーゲルはこうしたことも知りつつ、バンベルクに向かったのであった。
それとバンベルクの文化的雰囲気をうかがわせものに劇場の設立がある。バンベルクでは1797年にアマチュア劇場を設立されてから、ほどなく本格的劇場が生まれた。そこでは、当時の人気劇作家アウグスト・ヴィルヘルム・イフランドやアウグスト・フォン・コッツェブーの戯曲のほか、シラーの『強盗』、レッシングの『エミリア・ガロット』、モーツァルトのオペラなどの人気作が上演されたという。
なおフランスとの関係ではバンベルクは1796年にフランスに占領されたことがある。その後1806年夏にフランス軍がバンベルクに駐留し、同年10月初旬、ナポレオンはこの街でプロイセンへの宣戦布告に署名したのであった。
4 バンベルク新聞 記事の傾向、編集業務、ヘーゲルの暮らし向き
1807年3月、ヘーゲルは『バンベルク新聞』の編集者として仕事を始める。新聞の所有者はシュタイナーバンガーと言い、この新聞の創設者ジェラール・グレー(フランスから移り住んだ牧師)からこの新聞を譲り受けたのであった。編集長の間に合わせとして、哲学・神学・官房学者のドイバーが編集にあたっていたが、まもなく引き下がったために、シュタイナーバンカーがニートハマーに相談をもちかけたことが事の発端であった。
バンベルク新聞は当時多く読まれている刊行物の一つであり、一般的な政治の動きを伝えて、読者の関心を満たそうとするものであった。当時どの新聞もそうであったように、検閲を受けて発行されていた。バイエルンでは、改革者モンジュラの時代に検閲が厳しくなった。
ニュース・ソースは、バイエルン王国外の新聞や刊行物によることが多く、それらが当該地の検閲を経たものであれば、そのような転用はほぼ自由に委ねられていた。記事はほぼ匿名だった。ただし文芸方面の記事で執筆者が示されることがあった。紙面は四つ折り版、質素なグレーの紙に印刷された。ヘーゲルが編集者をつとめた時期には、日刊であり、ときおり合併号も見られ、一年間の号数はおよそ350号に達した。印刷ミスは、ヘーゲルが編集した時期には少なっている。
紙面は各ページ二段に分かれていて、計8段であった。広告は小さい活字ではあるが、依頼者の要望にしたがってケースバイケースで視覚的に目立つ工夫がなされている。1ページから3ページにかけては、国外の刊行物から転用された記事で構成されている。3ページの第2段目からは、これまでの号についての訂正、広告そして告知が配置されている。
私的広告の場合、旅芸人の宣伝広告はめったにないわけではない。しかし広告は発行人によって、個別的なあるいは複数の著作の宣伝目的のために出されることもあった(ヘーゲルの編集活動の最初のころにも、二度、当時まさに刊行された精神現象学の宣伝が見出される。それは疑いもなくヘーゲル自身によって書かれたものである。82号・10月28日、「イェーナ一般文芸新聞」からの転用。94号・11月25日、「ハレ一般文芸新聞」から転用)。さらに、ときどきバンベルクの社交界の個々の情報ならびに王族関係の訪問に際しての報告あるいはほかの高い地位にある人士についての報告、ならびに官庁の公示もある。行政官庁は新聞を通して臣民に政府の決定や施策を伝えたのである。
毎日の編集業務の流れは次のようであった。新聞は早朝印刷されて、午後に配布される。ヘーゲルは、午前11時ごろまでに毎日刊行する号を作成するための自分の毎日の編集作業を終えた。マイン郡行政委員会のフォン・シュテンゲル男爵が、新聞の最終的な印刷の前に、組版が終わったあとで、11時から12時の間に検閲のための閲読をおこなっていたからである。
次の二つの手紙からは、編集にのぞむヘーゲルの姿勢がうかがえる。
「どのような論調と性格をこの新聞に持ち込みうるのか、これはあちらへ着いてから分かるでしょう。わが国の新聞はフランスの新聞よりも劣っていると誰しも見なしているのでしょうが、一つの新聞をフランスの新聞の域にまで近づけるのは興味あることです。もっともドイツ人がとりわけ要求すること、つまり些細なことにこだわったり、ニュースの中立性を放棄したりはしたくないものです。」(1807年2月20日付、ニートハマーあて書簡)
「あなたは、わたしがいつも政治に気持ちが向くことも知っているでしょう。こうした性癖はしかし新聞記事を書くときには、養分を見いだしたというよりは、かえって弱まりました。というのも、わたしは、ここでは政治的な目新しさを、読者とは別の観点から見なければならないからです。このことにとって内容が大切なことです。わたしにとって目新しさは記事となって、紙面を満たすということなのです。」(1807年8月30日付、クネーベルあて書簡)
ヘーゲルは転用記事ばかりの紙面に、「個人通信員」による「署名記事」を取り入れることで、言論としての新聞という面を少しでも出そうとしてある程度成功を収めた。しかし、バイエルン当局は好ましいものと好ましくないものとを厳密に区別していたので、この程度の試みも当局の疑いの念を招くことがあった。
バンベルク新聞の編集長につくことで、ヘーゲルの生活条件は格段に改善されて、ヘーゲルはバンベルクの社交の世界でさまざまなつながりをもつことになる。社主のシュナイデンバーガーは、ヘーゲルがすべての業務を引き受けることで、収入と支出を見積もったあと、1348フローリンを分け合うという申し出をしていて(1807年5月30日付、ニートハマーあて書簡)、ヘーゲルはこれにも好感を持った。なおヘーゲルは、かなり広範囲にわたる本のリストを、広告の付録に差し込むことによって、書籍の取次販売の仕事にも手を伸ばし始めている。それら書籍はさまざまな分野を含むもので、実用的な書籍、技術上の書籍、経済学に由来する書籍なども入っていた。ヘーゲルはこのように業務を広げることで収益を上げようとしている。「現在のような事情が続くならば、1300フローリンの収入があります。」(1807年7月8日付、ニートハマーあて書簡)
5 新聞編集と検閲
新聞は検閲を受けて発行されていたが、それを直接担当したのは、マイン郡行政委員会のフォン・シュテンゲル男爵であった。すでに「3」で書きしるしておいたように、バンベルクにはシビックな精神がうごめきつつあった。そしてフォン・シュテンゲル男爵は新聞を通して市民が徳と教養を高めることを理解できる人物で、おりおり新聞編集に厚意を示すことができた。しかし、中央の検閲への姿勢とヘーゲルの新聞編集との間を取持たざるをえないこともあった。マイン郡行政委員会は、ヘーゲル編集による検閲問題の流れの中で、中央に書簡を(1808年11月11日付)提出しているが、それは、ときどき圧力をもってのぞむ検閲の業務を、下位の官庁に移譲してもらいたいという願いをもって閉じている。検閲問題を通してシビックな雰囲気をもつ地方都市とミュンヘン中央官庁とのズレがかいま見える。
そういうなかで、それでもヘーゲルが編集長在任中、記事について審問を受けたことがあった。
1808年9月。ヘーゲルによれば、軍隊の配置もしくは転属に関する情報を偶然に発見して、それをもとに印刷して公表したという。それに対して、出征の準備として駐屯地のある連隊の事前配備に絡むということで強い?責を受けたのである。
バイエルンはナポレオンによって1806年に王国に昇格したところで、イェーナやアウエルシュテットでの勝利(1807年)のあとでも戦争状態が続いたので、フランスの大陸軍が、移動を繰り返していた。軍事上の情報は、大陸軍の広報(Moniteur,Jounal de FranceあるいはMercure de France)から取り寄せなければならなかった。検閲は、フランス大陸軍の側の監視を受けることになった。ヘーゲルもこうした影響を受けたのである。編集者は、廃刊の可能性を示唆されながら、すみやかに情報提供者を示すように促された。ヘーゲルは、ニートハマーあての手紙の時点では(1808年9月15日付)、害の及ばない情報提供者を指示に従って文書で明らかにしたという。
同じ年の10月26日の300号は、エアフルト(ワイマール公国)での君主会議について、エアフルトからの通信をのせたが、それに対してミュンヘンの宮中からクレームが届いたという。その記事にはゲーテとヴィーラントがナポレオンに拝謁し、ナポレオンが二人の詩人に栄誉十字章を授与したこと、バイエルン国王は商人ホフマン夫妻と息女に高価な装飾品を与えたこと、ヴュルテンベルク国王は大臣ラインハルトの夫人に相当額の装飾品を届けさせたことなどが出てくる。こうしたことが不興をかったのである。ヘーゲルは、エアフルトで刊行されているAllgemeine Deutsche Staatsbotenから借用し、バンベルク新聞では注意深く抑制した但し書きをつけて再現したことを示して、風当たりをそらせることができた。
ところで、これまでの規則では、国外の新聞からの借用は、検閲を経て活字になったものは、自由に任されてきたが、バイエルン政府は1808年3月16日の詔勅において、この規則に制限をかけて、バイエルン政府が公認した新聞の情報だけが、国内の新聞に掲載されてよいとしたのであった。1808年、バイエルンの新聞監督当局からは些細なことで対応を迫られるようになった。その心情は1808年9月15日のニートハマーあての手紙にはこうある。「この前また私への調査があって、今おかれている状況を思い知らされたこともあり、この新聞というガレー船からなんとか逃げ出したいと願うことしきりです。」
6 バンベルクをあとにして
このニートハマーは、1807年の2月に、ミュンヘンに移って、中央視学官として公教育の整備に取り組んでいた。そうしてニートハマーの地位が確固たるものになるにつれて、ヘーゲルの転職の気持ちも強まっていった。ニートハマーは、1808年10月25日付の手紙で、ニュルンベルクのギムナジウムの校長兼哲学教授への任命をヘーゲルに伝えている。
ヘーゲルは編集長を去るにあたって、後任のめどをつける責任を感じていたが、じっさいに後任として哲学者シュトゥッツマン(Stutzmann)の採用を軌道にのせることができた。
ヘーゲルは、1808年11月、ザクセン‐ワイマールのカール・アウグスト大公に、形式的な辞表を提出し、そのなかの消息でこう報告した。自分が1808年11月4日にニュルンベルク・ギムナジウムの校長ならびに教授に任命されたこと、それゆえこれまでの臣下としてのつながりを儀礼的に解いていただけることをお願いするというものである。この辞表の承認をまってはじめて、ヘーゲルはイェーナ大学哲学部でメンバーであることを正式に解消された。
ヘーゲルは1808年11月22日に、ニートハマーあてに、8日以内に自分の後任がバンベルクにやってくる、そして自分は迷うことなくニュルンベルクに旅立つことができると書いた。そして12月12日には、ギムナジウムでの授業も始まる。ここに、チュービンゲン神学校の同窓3人― ニートハマー、フランケン地方視学官パウルス、ヘーゲル ―が、ともにバイエルン王国の学校制度の組織化に取り組むことになる。改革という時代の空気をすいながら、なおアカデミックな世界から遠ざかっているとはいえ、ヘーゲルは、新聞編集者から離れてニュルンベルク・ギムナジウムの校長として、雌伏の時期を過ごすのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1257:230501〕