シェイクスピアの「弁証法」―『ヴェニスの商人』 

著者: 合澤 清 あいざわきよし : ちきゅう座会員
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暑気払いにと本箱で埃をかぶっていた、筑摩書房版「シェイクスピア全集」全8巻の中の1「喜劇」の頁をめくってみた。

この本には次の6本の戯曲が入っていた。

「間違いの喜劇」「じゃじゃ馬ならし」「ヴェロナの二紳士」「恋の骨折損」「夏の夜の夢」「ヴェニスの商人」

最初の三本の戯曲も、大変面白いとは思ったが、むしろ私の関心としては、シェイクスピアほどの天才作家でも若いころのものには「不完全さ」が残っているものなのだという妙な発見にあった。

次の「恋の骨折損」では言葉遊びの巧みさ、まるで話芸の達人の噺を聴いているような感覚に陥らされた。もっとも原文は読めないので、どこまで理解できたかははなはだ怪しい。若いころ英語を勉強しておけば、この面白さが何倍にもなったろうと、いまさらながら懶惰な生活しか送らなかったわが身を恨めしく思う。

「夏の夜の夢」には、複数のストーリーを交錯させて語っていながら、逆にその複雑さが相互浸透して、全体がめでたく大団円に統一されるというその名人技に「唖然」とさせられた。フィクション=「夢」にしてフィクションならずの感覚を抱かせる、両者が混然一体となって「幻想」を醸し出している、神業としか言いようのないその手際の良さにはひたすら敬服である。

さて、今回話題として取り上げたいのは、この本の末尾にある「ヴェニスの商人」(菅泰男訳)である。読み返すたびに違った印象を受けるのだが、今回の読書で気が付いた点を幾つか述べさせていただき、少しでも暑さしのぎの話題提供にでもなれればと願う次第である。

いくら怠け者の私と言えどもこの物語にはこれまで何度か接している。演劇や映画などでも観た経験がある(特に印象深いのは数年前にドイツで観たアメリカ映画だが、少々画面が現代的に過ぎる嫌いがあった)。

一般に「ヴェニスの商人」といって、すぐにイメージに浮かぶのは、高利貸しのシャイロック(悪)が、判官に成りすましたポーシア(善)にぎゃふんと言わされる場面(一滴の血も流さず、ぴったりと肉1ポンドを切り取れ)である。この「大岡政談」顔負けの勧善懲悪は、子どもの頃から絵本などで慣れ親しまされてきている。

しかし、今回の再読で、この通常のイメージとは違ったシェイクスピアの目配り、洞察力の深さの方に改めて注目させられた。

また、併読した岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』からも多くの教示と刺激を得ることができた。

最初に劇中登場人物を手元の翻訳本によってご紹介しておきたい。

ヴェニスの公爵

モロッコ王 ポーシアへの求婚者

アラゴン王 ポーシアへの求婚者

アントウニオウ ヴェニスの商人

バサーニオウ アントウニオウの友人、ポーシアへの求婚者

グラシアーノウ  アントウニオウ、バサーニオウの友人

ソレイニオウ  アントウニオウ、バサーニオウの友人

サレアリオウ  アントウニオウ、バサーニオウの友人

ロレンゾウ ジェシカの恋人

シャイロック 金持ちのユダヤ人

チューバル ユダヤ人、シャイロックの友人

ラーンスロット・ゴボウ 道化役、シャイロックの召使

老ゴボウ ラーンスロットの父

リオナードウ バサーニオウの召使

バルサザー ポーシアの召使

ステファーノウ ポーシアの召使

ポーシア ベルモントの貴婦人、金持ちのあととり娘

ネリッサ ポーシアの侍女

ジェシカ シャイロックの娘

実は、訳本(翻訳者)によってかなり登場人物の読み方(発音)が違っている。シェイクスピアはこの登場人物の名前の付け方(発音)にも、一工夫していた節がある。そのことを知ったのは、岩井克人の本からである。代表的な例としては、上記の登場人物リストの中では、ソレイニオウとサレアリオウと呼ばれている人物がそれぞれサレーニオとサリーリオと発音され、「おたがいに取り替え可能な名前を持ち、おたがいに取り替え可能な台詞しかのべることのないこのふたりの友人」「この取るに足りないふたりの男たちの取るに足りない台詞によって」シェイクスピアは、後世数限りなく行われるであろう取るに足りない批評を「先取りしている」のであり、「みずからがどのように読まれなければならないかをも示唆しているのである」(岩井:同書)。

少々岩井の深読みの感が無きにしも非ずと思えるのであるが、しかし「言葉の魔術師」シェイクスピアであれば、名前に仕掛けを施すくらいのことがあっても不思議ではないだろう。

1.舞台背景としての「大航海時代」の幕開け

ヴェニスが貿易都市として大いに栄えたのは、15-6世紀の頃だろうと思う。

今、大商人アントウニオウの四隻の商船が遠隔地海外貿易のため、西インド、メキシコ、トリポリス、イングランドへと遠洋航海に出かけている。そしてなぜか、当の大商人アントウニオウはふさぎ込んでいる。

≪アントウニオウ:グラシアーノウ、世の中は世の中、それだけのものだと思っているよ。つまり舞台さ。誰でもそこで一役務めなければならないわけだが、僕のは悲しい役回りさ。

グラシアーノウ:…ねえ、アントウニオウ、何にも言わないばっかりに賢いという評判をとっているお利巧者がいるものさ。ところで、こういうのに限って、ひとたび口を開くとなると、聞いたものは辛抱しきれず、兄弟を罵っては地獄へ行くと知ってはいても、つい馬鹿!と言わずにはいられない。…だがね、とにかく、ふさぎの虫の憂鬱面を餌にして、評判というダボハゼを釣るのはおよしなさいよ。≫

この「ふさぎの虫」は何に起因するものだろうか? 確かにこの時代の遠洋航海は極めて危険なものであった。この危険費用が商品価格に上乗せされていると考えられているからだ。

しかし、アントウニオウは、そんなことじゃないとその心配を一笑に付す。自身にとっても原因不明な、この冒頭の「アントウニオウの憂鬱」は、非常に大きな謎を布石としてこの物語全体に投げかけている。

そこで、まずこの15,6世紀の西欧社会を概観することから入ってみる。

「15世紀イタリアはルネッサンスの盛期であった。コンスタンティノープルの陥落によってギリシア周辺から非難した学者、有力者、文物がヴェネティアなどに流入したことがルネッサンスの刺激剤になった。が、それ以前から、地中海貿易に活躍して東洋の文化に接触していたこと、貿易で富んだ富裕層が芸術家・学者のパトロンになったことなどが、イタリア諸国がアルプス以北のヨーロッパに先駆けてルネッサンスを迎えた要因であった。商業技術・算術はイスラム商人から商業活動を通じてイタリア商人に伝播した」。(篠田眞理子/『近代世界を剝ぐ』廣松渉編著 平凡社1993)

但し一言付け加えるなら、「先進西欧文明と後進東洋文明」という図式に則った理解は偏見である。廣松編著の同書の中での次の点に止目すべきである。

「明朝の鄭和の遠征(1405-第7次航海1430‐33まで)に使われた船は、長さ150メートル、幅63メートル、8000トン級/1490年代のヴァスコ・ダ・ガマの船は、120トン、コロンブスの船は、233トン」

鄭和の一隊は、なんとメッカまで遠征している。明らかな「東高西低」である。

閑話休題。

この舞台設定に関連してもう一つ検討すべき問題がある。それはこの戯曲の中で、ヴェニスの大商人アントウニオウが、一方では無利子・無担保(キリスト教的慈愛の精神だけ)で同胞に資金を融通しながら、他方では遠洋交易で利殖を稼いでいるという、明らかな「矛盾」についてである。それについては次のような事情を勘案する必要がある。

「シェイクスピアの時代、ヴェネツィアではほぼ1世紀近くもユダヤ人が商業における信用貸しの分野を牛耳っていた。彼らは建物の前に机を置き、ベンチにすわって『バンコ・ロッソ(赤い銀行)』を営業していた。場所は、町の中心からはずれた雑然としたゲットー(ユダヤ人居住区)だった。ヴェネツィアの商人たちが、借金するためにユダヤ人のゲットーにやってくるのには、わけがあった。キリスト教では、金を貸す際に利息をとることは罪だと定めていた。1179年の第三回ラテラーノ公会議では、利子をとった金貸しは破門されることになった。1311~12年のウィーン公会議では、高利貸しは罪でないと論じることさえも異端だとして禁じられた。キリスト教徒が高利で金貸しをしようと思ったら、教会の敷地に生き埋めにされないよう、事前に教会に寄進しなければならなかった」。

「ユダヤ教徒においても、利息をとって金貸しをすることは禁じられている。だが旧約聖書の申命記には、都合のいい例外規定がある。『外国人からは利息をとっても良いが、同胞である場合には利息を付けてはならない』という文言だ。つまりユダヤ人が同胞であるユダヤ人に高利貸しをしてはならないが、キリスト教徒に対してなら合法的に許される、と解釈できる。この結果、社会的に煙たがられ、1492年にスペインから放逐、ポルトガルでは、1497年の布告でキリスト教への転向を迫られ、改宗者になったが、多くはオスマントルコ帝国へ逃げ、コンスタンチノープルなどの港で、ヴェネツィアとの通商に励んだ。

ユダヤ人がヴェネツィアに住みつくようになったのは1509年からで、それまでは近郊のメストレで暮らしていたが、カンブレー同盟戦争(1509‐17)を避けてヴェネツィアにやってきた。初めのうち市の当局者たちは、難民の受け入れを渋っていたが、彼らは税金を払ってくれるし、金融サービスの面でも役立つ点に気付いたので、かつての鋳鉄所だった市の一角をユダヤ人居住地に指定した。これがゲットー(鋳造)・ヌーヴォ(新しい)である。彼らは夜間やキリスト教の休日には、ここに閉じ込められた。二週間以上ヴェネツィアに留まるものは、背中に黄色い『O』の字をつけ、黄色い(後には赤い)帽子かターバンをかぶることが義務付けられた。1537年にヴェネツィアとトルコの間で戦争が勃発すると、彼らの財産は没収された。1570‐73年にかけて戦争が再燃した際には、すべてのユダヤ人が終戦までという条件で身柄を拘束され、財産も押収された」。(『マネーの進化史』ニーアル・ファーガソン著 仙名紀訳 早川書房2009)

このあたりの事情を理解すれば、この書の中で「古代ローマ人」的と称揚されているアントウニオウの慈善も、たかだか《仲間内》=同胞内部に限ったものでしかないことがわかる。ユダヤ人やムスリムは別人格(異邦人)なのである―奴隷は人間ではなく、商品であった。

2.異邦人としてのユダヤ人差別

「シャイロック=ユダヤ人」への差別問題はこれまでも繰り返し論じられてきているようで、岩井克人もそのことにさらりとだが触れている。事実、シェイクスピア時代の社会ではユダヤ人への差別感情はかなりひどかったと思われる。例えば、シェイクスピアは別の戯曲(『空騒ぎ』MUCH ADO ABOUT NOTHING)の中で、恋する男の口吻を借りて「…これでも哀れを催さないとすれば、おれは人非人だ。これでもあの人を愛さないとすれば、それこそユダヤ人だ」と言わせている。

ユダヤ人は人非人と同列である。しかし、だからと言ってシェイクスピア自身がこういう差別意識(偏見)に強く縛られていたかと言えば、時代の制約があったにせよ、そうだったとは、なかなか言い切れないように思う。

「ヴェニスの商人」中の次の科白を読んでもらいたい。

≪公爵:人に慈悲を施さずして、どうして神の慈悲が望めるのだ?

シャイロック:どんなお裁きを手前が怖れましょうか、悪いことをしていないのに!

あなた様方は、買いとった奴隷をたくさん抱えていらっしゃる。それを。ロバや犬や騾馬同然にいやしい奴隷仕事にお使いになる。金を出してお買いとりになったものですからな。

そこで一つ、こう申すとしたら如何でしょうかな?―やつらを自由にしておやりなさいまし、婿に迎えておやりなさいまし、何故やつらは重荷を担いで汗水たらしているんです? やつらの寝床もあなた様方のと同じように柔らかいのにしておやりなさいまし、口もちっとはおごらせておやりなさいまし、と。あなた様はこうお答えになる―『奴隷はわしらのものだ』とな。さ、そう手前も申しましょうかい。

あいつの肉1ポンドは、高い金を出して買いましたんで。手前のものです。ですから戴きたいんだ。もしならぬとおっしゃるようなら、法律が聞いて呆れる! ヴェニスの掟には力がないんだ。≫

また、次の個所もなかなか興味深い。

≪アントウニオウ:どうだ、シャイロック、お世話になれるかね?

シャイロック:アントウニオウさん、何度も何度もあんたは取引所で私の悪口を言いなすった、私の金のこと、私の利息のことでな。いつも私は肩をすぼめてじっと我慢をしてきました。忍耐はわれわれの種族の表章ですからな。

あんたは私を不信心者、人殺しの犬といいなすった。そして私のユダヤ上着へ唾を吐きかけなすった。それもみんな私が私のものを使うのが悪いというのでな。ところで今度は私の助けがご入用らしい。・・・≫

虐げられた賤民としてのユダヤ人の社会的位置が実に的確に描かれているように思う。奴隷以外の異人種を一応「同等な人間」(もちろん身分格差は歴然としている)と認めること、その中にはユダヤ人も含まれていること、これは既にこの時代には共通認識になっている。

シェイクスピアが生まれたのは、1564年4月23日と言われている。それより前の「1537年に、ローマ教皇パウルス三世が、インド人や黒人や新大陸のアメリカ土着民たちを《本当の人間》と認めるということを公布した」「これには、コロンブスの第二回目のアメリカ渡航の折、彼に従ったバルトロメ・デ・ラス・カサス神父の進言」があずかって力があった(渡辺一夫著『フランス・ルネサンスの人々』岩波文庫1993)ということから、彼がこのことを既に承知していたということは十分考えられるのである。

非常な興味を引くのは、シャイロックが自分を人間ではなく、「奴隷並みに扱われている」と、その人間性を一端否定してみせたうえで、今度は一転して、奴隷をなぜ「人間並みに扱わないのか」と、その奴隷制(性)を否定してみせる個所である。この「否定の否定」の論法をもって、ストレートにシェイクスピアは「ユダヤ人解放、奴隷解放」論者だとみなすわけにはいかないだろうが、見事な慧眼ではないだろうか。

3.転換期社会―法秩序とキリスト教的「愛」の闘い

この戯曲の中で、シェイクスピアはいくつかの独立したかに思える話を巧みに組み合わせながら、それらを最終的な統一(大団円)へと導いていく。

その有名な一つが、「ポーシアの婿選び」の話である。亡き父親が遺言した、三つの箱(金の箱、銀の箱、鉛の箱)を「名乗りを上げた候補者」に選ばせて、その中にある彼女の肖像画を見事射当てた者と婚約するというものである。

たしか、イソップ物語だったかに、同じような話があった。尤もこちらは森の泉の女神が、金、銀、銅の三本の斧の中から選ばせるといった試行だったかと思う。面白いのは、フロイトが精神分析学からいって、「銅の斧」が正解であることが証明できるとどこかで書いていたことである。

それはともかくとして、それぞれの箱には次の言葉が添えられている。

≪第一は金の箱、それにはこの名が刻んである―「われを選ぶ者は、多くの者の望むものをうべし。」第二は銀、こういう約束が書いてある―「われを選ぶ者は、己にふさわしきものをえん。」第三は鈍い鉛の箱、警告まで不愛想に―「われを選ぶ者は、その持てる一切をなげうち、賭せざるべからず。」≫

そして、見事に彼女の意中の人であるバサーニオウがそれを的中させるのである。この「婿選びの条」は、ほとんど本筋とは関係のない、話を面白くするための演出(効果)のように考える人が多いようだ。しかし、本当にそれだけだろうか?

ここに登場する三人の候補者とは、それぞれ、モロッコ王、アラゴン王、そしてヴェニスの学者で軍人のバサーニオウである。先の添え書きと対照しながら、もう一度この挿話を読んでもらいたい。

私見では、金は支配者の富と地位を意味し、古代の絶対君主に擬せられたモロッコ王の富貴な地位を現している。だがそのような地位も、死んで髑髏になってしまえば、蛆虫をその友とする以外にないのだ。アラゴンは、11世紀前半にイベリア半島北東部に建てられた王国である。1479年にはスペイン全土を制圧し、スペイン王国となっている。まさに銀の言葉は、この封建社会の征服王の自信を象徴しているようだ。しかし、箱の中に見たものは「目を瞬いている阿呆の絵」であった。「王あっての家臣ではなく、家臣あっての王である」、自信は単なる影にすぎない。そして最後の鉛の箱…。

≪バサーニオウ:そうだ、外観は中身とひどく違うことがあるものだ。世間はいつも虚飾に欺かれている。裁判にしたって、どんなに汚い曲がった訴訟でもうまい弁舌で味付けをすれば、邪悪の外面がごまかされる。宗教だって、地獄へ落ちるほどの邪説でも、真面目腐った坊主がそれを祝福して、聖書を引いて是認すれば、中身のひどさがきれいな飾りに隠れてしまう。世には単純な悪というものはない。必ず外面に何か美徳のしるしをつけているものだ。臆病者でも―砂の階段のようにあてにならぬ男でも―その顎に勇士ハーキュリーズのひげを生やしていたり、いかめしい軍神マーズのしかめ面をしていたりする。実は、腹の中を探ってみれば、肝っ玉は乳のように白っちゃけている。こいつらは勇者のお添え物を借りてきて、世間を脅かしているにすぎんのだ!美人を見るがいい。化粧の重さのせいで美しい、ということがある。そいつが世にも不思議な奇蹟を起こす、つまり、一番重く塗りたくったやつが一番お尻が軽いというわけだ。美人だと思われている女の蛇のようにくねらせた金髪の巻き毛が浮き浮きと風に戯れている、などは結構だが、この髪の毛、正体を洗えば、もともと他人のもので、元来それが生えてた頭は今は墓の中で髑髏になっている…

こんな風で装飾は、とかく危険な海へ人を誘う偽りの岸辺、真っ黒な肌を隠す美しいスカーフ、つまりは、悪賢い世間が、賢明な人をも罠にかけるために装う見せかけだけの真実だ。だから、けばけばしく輝く金、欲張りのマイダス王を迷わせた金、お前には用はない。それからお前―青ざめた顔をして、人と人との間のつまらぬ走り使いをする銀にも用はない。だがお前みすぼらしい鉛、お前は口先で見込みのありそうなことを言わないで、人を脅しつけるようだけど、そのお前の飾り気のなさが、滔々たる雄弁よりも私に訴える。これを選ぼう。どうか、うれしい首尾となりますように!≫

ここに「商人資本」社会の堅実さを見るのは、あまりにも我田引水、強引な解釈に過ぎるであろうか。「大航海時代」を経て、今や資本主義が開花する、それがここに表現されているように思う。資本主義の精神は絢爛豪華さや英雄主義やロマンではない、それはひたすら堅実さであり、何の変哲もない日々の営みへの従事(これを「疎外感」とみなせば、冒頭の「アントウニオウの憂鬱」に通ずるもの)である。この平凡さが「商人の精神」である。それがここに勝利を得たのだ。

私にはシェイクスピアの慧眼は、資本主義の「勝利の華」を愛でると同時にその「頼りなさ」「儚さ」をもとらえていると思えるのである。

この締め括りが、ポーシア対シャイロックの対決において展開される。対決場面の詳細な紹介は省く。ここではただ「法」(Gesellschaft=利益社会、資本主義社会)とキリスト教的「慈愛」(Gemeinschaft=血縁的、兄弟・同胞愛的共同体)の間の闘争、という点に留目していただければ十分だと思う。

アントウニオウに代表される、キリスト教同胞社会の偽善的「愛」(これは一方で、無利子・無担保での融資をしながら、海外交易で利殖を漁ることと同じ論理で、ユダヤ人問題が起きている点)への復讐心がシャイロックをして何の利益にもならない要求となっている。

≪サレアリオウ:むろん、よしんば期限が切れたからって、あの人の肉を取ったりはしないだろう? 何の役にも立たんものな。

シャイロック:魚釣りの餌にはなるわ! 何のたしにもならんでも復讐のたしにはなるわ。…あの男はおれに恥をかかせやがった。50万というもの、儲けの邪魔をしやがった。おれが損をすれば笑い、儲ければあざけり、おれたち民族をさげすみ、商売は妨げ、友達には水を差し、敵にはたきつけやがった。それも、何のためだ? おれがユダヤ人だからだ。ユダヤ人には目がないかい? ユダヤ人には手がないか、耳や口がないか、五体がないか、感覚がないか、感情がないか、情熱がないか? 同じ食物を食い、同じ刃物でけがをし、同じ病気にかかり、同じやり方で治り、同じように冬には寒がり、夏には暑がるんじゃないか?

みんなキリスト教徒と同じじゃないのか? 針で刺されりゃ血が出ないだろうか? くすぐられりゃ、笑わないか? 毒をもられりゃ、死なないか? そうしてお前さん方から酷い目にあわされりゃ、復讐をしないだろうか? ほかのことが同じなら、そのことだって似てるだろうぜ。もしキリスト教徒がユダヤ人にひどい目にあわされたら,どうお情けを施しなさる? 復讐だ≫。

この場面で、ある種の「弁証法的転換」が起きている点が注目される。「利」を何よりも優先するシャイロックが、今や復讐という「情実」へ転じ、「情愛」を重んじるキリスト教者(判官であるポーシアに代表される)が「法」という資本主義社会の価値基準をその拠り所としているのである。

法廷闘争は資本主義的「法」の勝利に終わる。つまり、アントウニオウ側の勝利である。そしてシャイロックは、敗北することによってその「利殖」思想を最終的な勝利へと導いたといえる。

≪アントウニオウ:公爵だって法律の筋道を曲げるわけにはいかない。なぜって、このヴェニスで外国人がもっている権利は、これを拒むことになると、この国の正義が信用を失うことになる。この都市の貿易や利潤は各国民がよりあって成り立っているんだからね≫。

アントウニオウの憂鬱は、資本主義社会が続く限り、永久に続くことになる。

この相互の立場の転倒の中に、彼は「時代の転換=変化」を読み込んでいる。

シェイクスピアの面白さは、このような「弁証法的転換」を駆使した点でもある。

例の『マクベス』に出てくる森の魔女たちが歌う科白も同様である。「美しいは醜い、醜いは美しい。正義は悪、悪は正義」

ヘーゲルはシェイクスピアからこれらを学んだのであろうか?

2021.7.28   台風一過の猛暑の中で

 

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