《ポピュラライザーの含羞と任務》-社会的分業に現われる人間能力の普遍性-

著者: 内田 弘 うちだ ひろし : 専修大学名誉教授
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[同窓会での恩師の思い出話] 最近、故郷の高校が創立140周年を迎え、その機会に同学年の同窓会がその日の午後にあった。その懇親会で恩師のことが話題になった。同じ英語の恩師でも、(1)明快な授業をする恩師と、(2)なぜか恥じらうようなニュアンスを漂わせて授業をする恩師がいた。受験を目指す生徒たちには、(1)の先生のほうに人気があった。筆者は当時(約60年前)、(2)の先生に懐の深さのようなものを実感していたけれども、恩師の方から一線を画しているように感じ、近寄りがたかった。
[遠山啓の含羞] 帰省の帰路、東京は神田の古書祭りに立ち寄った。雨天の天気予報は嬉しい方に外れ、晴天である。スマホ時代でも、その古書展は「押すな、押すな」の人だかりであった。とある出店に『現代思想』の特集「日本の数学者たち」のバックナンバー(2009年12月号)を見つけた。遠山啓についての論文が2本入っているので買った。その1本が上野俊哉のエッセイ「虎よ!虎よ!」である。
 筆者の上野俊哉は中学生のころからの遠山の弟子である。上野はそのエッセイに、タイル方式の算数教育法を考案した遠山の精神には「教えるということへの自己懐疑の回路がいつもはたらいでいた」と書いて、つぎのような遠山自身のつぎのような述懐を紹介している。
 「教師ってのはねえ、度しがたいものなんだよ。自分よりも可能性や能力のある人間が必ず教えている相手のなかにいるってことを理解できなくなってしまうような商売なんだね」(201頁)。
 算数教育の改革者・遠山啓の精神の根底にあるこの自己懐疑を、吉本隆明は「人間の本性にある怠惰とデカダンスをよく知っていて、それを禁欲的な強い意志で制御した上に数学を築いているという風に理解された」と追悼している(同書200頁)。
[教えることはそんなに楽しいか] 旧友・KMは、《嬉々として講義に向かう同僚が理解できないねぇ》と苦笑を交えて語ったことがある。
 その教育癖が煮詰まった教員が同じ専門の教員に向かって《講義》をする場合がある。ある学会の懇親会で、筆者に向かって《講義》を始めた会員がいた。無礼になるので、しばらくのあいだ拝聴しつづけたれども、《これ以上はご勘弁》の思いで、私がビールを注ぎにその場を離れる形で《講義》を避けると、その教員は私を追いかけてきて、「きみの為になる、まあ、聴きたまえ」をいって《講義》を続けた。《X先生の研究で、経済学の真理はすでに決定している。後に続く者はそれを受け入れる任務のみがある》と力説した。忘れがたい経験である。
[ヨハネにはイエスが見えない] 或る大学院の修士論文で自分の学説を批判した学生を後期博士課程では受け入れず排除した教員が、自分の退職間際になって、その元学生に向かって、つぎのように語ったという。
「ヨハネは自分の預言を聴く聴衆のなかに、イエスがいることに気づかなかったのではないだろうか」。
 周囲に他の者たちが聴いているところでの発言である。
 その語りは、かつての自分の判断の誤りの許しを請う謝罪であろうか。そうでなく、何か念入りな演出が秘められているようにも聞こえる。このエピソードを或る研究者から聴いて、それは遠山の自戒と似ているけれども、何処か違うようにも思われた。
[《ポピュラライザー》よ、出でよ] 数十年前のことである。林達夫と久野収の対談『思想のドラマトウルギー』(平凡社、1976年)という単行本が刊行された(現在は「平凡社ライブラリ」、1993年)。そこで著者たちは「ポピュラライザーよ、出でよ」と力説した。研究者は、専門に閉じこもらず、その研究成果を社会に分かりやすく普及するという重要な任務があることを力説したのである。その力説が記憶に残った。
[レトリック嫌いの伝統は続いているか] その普及には巧みな修辞法(レトリック)が必要になる。その本で林達夫が力説するレトリックは、「戦時レトリック」に駆使した三木清の影響である。日本では、なぜかレトリックの評価が低く、その誤解もある。『論語』の「巧言令色、鮮(すく)なし仁」の今なお残る影響のためであろうか。
 そういえば、昨日古本市で買った古書の1冊、花田清輝の『復興期の精神』(1946年)も、「戦時レトリック」のアンソロジーである。この初版が書斎の何処かに行方不明なので、買い直したのである。戦後の花田の政治活動を知らないしそれに関心の無い筆者は、花田のその本のみを読んできた。
 ここで注目するのは、《遠山啓の教えることの含羞》と《林達夫・久野収の啓蒙必要の力説》との対称性である。
[偲ぶ会で激怒される] 林達夫たちの共著を読んだ数年後、或る友人が比較的若くして逝去した。彼を偲ぶ会が彼の所属した大学で催されることになり、主催者から、その会で故人について語ってほしいという依頼を受けた。当日、筆者は壇上から「故人は『経済白書』などを分かりやすく解説した、優れたポピュラライザーでした」と語って故人を偲んだ。
 ところが、私に代わって登壇した或る経済評論家が、激怒して発言した。「Kさん(故人)をポピュラライザーであると決めつけるとは、何事か」と私を批判した。その怒りの原因はどうやら、「ポピュラライザー」という存在を《上から下を見下す知識人》という意味に誤解していることにあることが分かった。
 激怒した方が降壇したあと、司会者が私に向かって「今のご発言に何かご意見があれば、どうぞ」と促した。筆者の反論は激怒氏をさらに激怒させるだろう。激論は偲ぶ会にふさわしくない。そう判断し、「いや、結構です」といって反論を控えた。
 実は、Kさんには、教えることへの密かな含羞があったことを証拠づける事実がある。けれどもここでは、それを紹介することは控える。
[多くの啓蒙書に学ぶ] ポピュラライザーの仕事は数多ある。たとえば、早川ブックスの数学史の翻訳本や、講談社のブルーバックスは、自然科学の門外漢の筆者にとって大変参考になる好読物である。新潮文庫に収められている数学史の本にも世話になっている。その他にも、私の専門外の本で勉強になった書籍が多々ある。これらは啓蒙書、ポピュラライザーによる本である。
[マルクスはオイラー『無限解析序説』を精読した] 翻訳もその範疇に入る。最近、筆者が翻訳で世話になった例として、数学史家・高瀬正仁訳のオイラー『無限解析序説』がある。オイラーはそこで自然対数の底eを縦横に論じている。マルクスは、彼の数学草稿や書簡に記録されているように、その古典を精読している【そのネイピア数eは、「転形問題」の基礎に据えられている。詳論は別稿で論じる予定である】。
[社会的分業に背を向ける原典主義者] 世には原典主義者がいて、その原著の翻訳が出ているのに、それに背を向け、それを参照せずに、原典のみを読み、豈図(あにはか)らんや、誤読し引用し論じている場合がある。それが「定説」となって流布している場合もある。
 むしろ、原典を適宜参照しながら翻訳で速読し、重要な個所は一語一語、原典とつきあわせ、顕微鏡で覗くように精読する方が早く正確に読めるし、誤読も避けられる。翻訳者のせっかくの労苦に報いられる。《三人寄れば、文殊の知恵》である。
 原典著者(オイラー)・本訳者(日本語訳者・高瀬正仁、英訳者・J.D.ブラントン)・読者(内田弘)のこの関係は、人間諸個人間の社会的分業の一例である。
[日常化している『国富論』のエッセンス] 《スミスといえば『国富論』》、《『国富論』といえば分業》という。しかし、分業の重要性を力説したスミスを『国富論』や経済学史を論じるときにだけ、引き合いにだすのでは、分業の重要性があまり深く認識されていないことを証明することになるのではなかろうか。
[他者との社会的協働] 他者の仕事(分業労働)に互いに依存し合いながら、わたしたちは生きている。この真実は、人間の能力を正確に根源的に評価する根拠である。専門家は自己の仕事に責任をもち、その成果を社会に還元し普及する(ポピュラライズする)。この普及は文章でとは限らない。製品で、サービスでの場合もある。人間諸個人はそれぞれ、この社会的分業の各分野の担い手である。
[失業が生むニヒリズム] 失業の問題は、生活費を獲得できない深刻さにとどまらない。人間存在の社会的な証明の現場から放擲されること、人間であることを証明する根拠を剥奪されること、虚無の空間に追われることに、失業の深刻さがある。ナチズムが登場する背景には深刻な失業問題がある。ヒトラーたちはとにかく失業率を下げた。それでドイツ国民はナチズムに雪崩込んだ。
 現代「先進」国では、難民に生活が脅かされるから、難民受入れ制限を主張する政党が支持される。日本では、生育環境が良くなかった子供たちを受け入れて育てる施設を公的機関が建設しようとすると、一部の住民が「地価が下がる」といって猛烈に反対している。別の形態の「日本国内難民問題」が日本にも発生してきた。日本政府は、外国人労働者受け入れ枠を大幅に拡大しはじめている。
[データ改竄の社会的加害は子供も巻き込む] いま、人間の社会形成の根拠が堅持されているだろうか。『東京新聞』(2018年10月24日朝刊「声」欄)につぎのような投書が載っている。最近明らかになった「免震・制震装置の検査データ改竄」は子供も不幸に巻きこむ。投書者はつぎのように訴える。
 「(検査データ改竄行為は、子供たちが慣れ親しんだ)大切な場所、大勢の友達、大好きな学校、なにもかも奪ってしまった。……その(データ改竄という)行為が、どれほどの人たちの人生に影響するかを、(検査データ改竄者たちは)想像することができないのだろうか」[( )は引用者補足]。
[社会的分業でなりたっている日常生活・専門職業] 他者の仕事に依存しない生活はありえない。他者の研究に借りのない専門的研究も存在しない。生活も研究も、緊密で高度な相互依存の社会的営為である。これは単純で重要な真実である。
 私は、去る5月に上海から搭乗したジェット機のパイロットと面識がまったくない。けれども、上海から成田まで無事に快適に帰国することができた。ここにも人間の偉大な力量が存在する。《日常化し自然・当然に見える事柄》を改めて熟慮する必要がある、と自省する。
[人間の社会形成能力を熟慮した内田義彦] マルクス研究家にしてスミス研究家であった内田義彦は『経済学の生誕』(1953年)を遺した。しかしその後、その仕事の発展形態として、日常生活の分かりやすい具体的な事例で、人間の社会形成能力を熟慮した。《スミスとマルクス》を現代の、日本で、具体的に、考えを重ねた。日本では希有の経済学者であった。
[旧帝国軍人の無能力・無責任] 人間の社会形成能力に関心がなく、理解もない者が手をつける社会改革が何をもたらすかは、「二・二六事件」で明らかである。その事件は、日本を太平洋戦争に導いた(松本清張・半藤一利・保阪正康)。旧帝国軍人は国民を決して守らなかった。将官は早々と戦場から逃げる。
 彼ら将官は立身出世主義者である。陸軍将校は「長刀」を下げて片手で押さえて歩いた。海軍将官は「短刀」である。近代戦に赴く者が、それに不適合な「刀」を下げる。「刀」は「軍人精神の象徴」を提示するものであるという。いや、「自分の地位の象徴」を誇示するものであろう。
[社会改革と分業] 社会改革を志す者は、資本主義こそが、歴史上、最も高度に広範に分業を普及しているという事実の意味と意義を理解することから出発しなければならない。『国富論』がいまなお古典であるのは、この点に根拠をもつ。
[偶然の一致か、認識の同時代性か] 社会に向かって専門的成果を伝達するということがらの重要性は、日本より欧米の方がより正確に理解され実行されているのではなかろうか。むろん、日本でもその重要性を理解し実行している人たちが沢山いる。女優・桃井かおりがロサンゼルスに移住していることも、このことに関連するのだろう。
 少し前の拙稿「消費せよ、しかし沈黙せよ」(「ちきゅう座」9月24日)で、『東京新聞』に掲載された、アフリカ・ウガンダにおける米中の代理戦争についてのニュース(ロンドン支局・沢田千秋による記事)を引用した。
 ところが、拙稿掲載の約1ヶ月後にあたる10月21日に、『東京新聞』のコラム「新聞を読んで」の執筆者・目加田説子(中央大学教授)も、沢田発信のウガンダ記事に注目し、つぎのように指摘している。
「戦時下の性暴力は原油や鉱物資源等の天然資源の争奪戦の中で起き、その背後には資源を買い求める多国籍企業、資源の恩恵にあずかる先進国の消費者がいる」(『東京新聞』2018年10月21日(日)5頁)。
 性暴力は、今年のノーベル平和賞に関連する。それについては拙稿では言及しなかった。しかし、《アフリカにおける米中の代理戦争の背後に先進国の消費者が存在する》とは、まさにその拙稿の主題でもあり、主張したことでもある。この一致は偶然ではなく、同時代認識の共振作用であろう。
 記者・沢田千秋は1人の専門家としてアフリカに赴き、現地の実態を調査し記事を発信した。その記事に限らないが、記事のことを「単なる新聞記事だ」などとはいえないし、いってはならない。それとも、新聞軽視者は、《ウガンダについて知りたい者は各人、当地に赴け》とでもいうのであろうか。
 具体例で例えていえば、《遠山啓の含羞》をもって、しかし《沢田千秋のような果敢な取材活動》で、私たちは人間協働に生きてゆきたいと思う(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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