《新元号「令和」の典拠『万葉集』は純粋国書ではない》

[畏友からのメール] 最近[本年(2019年)4月2日(火)]、或るメールを受け取った。そこには農業経済学者(下記のK先生)へのつぎのようなメールが添付されていた。
「K先生、
 ここでの「令」は命令ではなく、「吉、美しい」との意味でしょう。日中とも日常生活で使われている「令嬢」の令はその例です。
 出典は、安倍政権は日本古典に拘っているようで、「万葉集」から引用したと説明しているが、それより600-700年前の東漢時代の張衡氏の詩「帰田賦」にすでにありました。
 私なりの解釈では、関係者は安倍さんへの忖度もあり、「美しい日本」との意味で「令和」をつけたではないかと、陰謀論的な推測です。
p.s.
https://ja.wikipedia.org/wiki/張衡_(科学者)?fbclid=IwAR21aCNWP61HwrQMEeBG7asuYkW_HnXor1KA-aqt90Fp4fkUfsztnOmDaok
中国屈指の政治家・天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家・文学者・詩人である張衡の「帰田賦」にも、「於是仲春[令]月時[和]氣清」とあります。当然 万葉集の編纂者は、張衡の漢詩「帰田賦」も読んでいた。当時 日本には 平仮名がなく 漢字文化圏 漢詩が貴族の嗜み」。
以上が、添付メールである。
[『万葉集』は純粋国書か] 新元号「令和」について安倍首相は、4月1日、官房長官による新元号「令和」発表の直後、新元号「令和」について、前例のない談話を行い、そこでその出典『万葉集』が日本固有の国書であることを力説した。果たして、『万葉集』は彼が力説するように、純粋国書であろうか。
[令和の典拠] 新元号「令和」の出典はつぎのとおりである。
『万葉集』巻五「梅花の歌三十二首并[あわ]せて序」(伊藤博校注、『万葉集』角川文庫、上、207頁)に、
 「初春月、氣淑風
  梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」
とある。その現代口語訳は、つぎのとおりである。
「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている」(『朝日新聞』2019年4月2日朝刊1頁の現代日本語訳)。
 ところで、「令」には、使役動詞「~させる」という意味の他に、「神の清らかなお告げ」から派生した「清らかで美しい」の意味もある。「和」には「やわらぐ、などむ」などの意味がある。したがって、新元号「令和」は「世の中が清く美しく和やかになる、そのような世の中」といった意味であろう。
 上で引用したメールによれば、その「序」のこのような意味をもつ「令」と「和」とは、後漢の万能人といえる張衡(78~139)による「帰田賦」からの引用であるという。
 このことは、国語学者・大野晋(1919~2008)がその1人の編者である、岩波書店の『萬葉集(一)』で、すでに注記されている。新元号「令和」は、古代日中文化交流の一端を援用したものである。『万葉集』は純粋国書ではない。
[新元号《令和》の提案者は中西進] いくつかの新聞報道によれば、新元号「令和」の提案者は、萬葉集研究の代表者・中西進氏(89歳)である。中西氏は、このような古代日中文化交流史に『万葉集』が成立したことを知らない訳がない。であるのに、なぜ、安倍首相(のおそらく代理人)に、『万葉集』から新元号の案を提出してほしいと依頼されたときに、『万葉集』の上記のような古代東アジア文化史の国際性を指摘しなかったのであろうか。《『万葉集』は純粋国書ではありません》となぜ注意しなかったのであろうか。
[『朝日新聞』の間接話法] 新元号「令和」には張衡の「帰田賦」という漢籍の典拠があることを、すでに4月2日の『東京新聞』朝刊や、のちに取り上げる同日(4月2日)の『日刊ゲンダイ』が報道した後の午後になって、『朝日新聞』は、2019年4月2日(火)の夕刊の6頁で、中西進氏が新元号「令和」の提案者であることを推察する記事「新元号 中西氏考案か」の中で報道した。
 その記事はつぎのとおりである。「別の日本古典の専門家も令和が漢文で書かれた部分から引用されたことを受け、『漢籍に知識のある万葉集の大家といえば、そうはいない』として中西氏が[令和の]考案者だと示唆した」。
 この記事は、「令和」には古代中国の典拠「帰田賦」があることを主題とする記事ではない。インタビュー記事という形式のなかで、「令和」の典拠が漢籍にあることをそっと提示した。『朝日新聞』は、新元号「令和」が純日本製ではないことを間接的に示唆したのである。そのため、読者は「帰田賦」が「令和」の典拠であることは分からない。
[萬葉カナの使用法のひとつ] 岩波書店の『万葉集』の編者のひとり、大野晋は、著書『日本語はいかにして成立したか』(中公文庫、2002年、286~287頁)でつぎのように指摘している。
「当時の中国の詩法として、同一の字を二字連続して使わないという当然の心得があった」。その心得を日本では、「表音文字」として輸入した漢字を「同じ音」をつづけて表記する場合には、同じ文字を続けて用いないで「別の文字を用いる」という形で継承している。例えば、「ココロ」は「許己呂、己許呂」などと表記していたのである。
 万葉仮名自体は中国の漢字である。であるのみか、「同音同字反復禁止」という使用法までふまえていた。さらに、中国のどの漢籍を引用するかに熟慮し、その表現の価値を高めるかを腐心した。つまり、その内容まで古代中国の文献を『万葉集』日本語の文章の典拠にしていたのである。
[『万葉集』は純粋国書ではない] したがって、『万葉集』を純粋国書であると規定することは、まったく史実に反する誤謬である。その史実はこれまでの『万葉集』研究史で十分に解明されてきたことである。『万葉集』研究者は、安倍首相の『万葉集』=純粋国書という初歩的な誤謬を指摘すべきであろう。『万葉集』は安倍首相の国粋主義の典拠にはならないのである。
[《令》と《和》の中国古代史的含意] 白川静の『常用字解』(平凡社、2003年)によれば、漢字《令》は、礼儀の帽子[△]とそれを被る人体[巳]からなる。つまり「正装して、神のお告げを恭しく伺う」という意味である。
《和》の[禾偏]は元来、軍門の標式である。つくりの[口]は、元々は両端の縦の線が上に伸びていた。その文字は、詔(みことのり)を入れる器である、白川静のいう「さい」である。そこから「令和」は、「戦争をやめ、平和な状態にもどす」という意味が出てくる。
 つまり、《令和》は白川漢字学にならえば、「神のお告げを伺い、戦争を止め、平和にもどる」という意味である。
[白川静の重要な指摘] このような古代中国の宗教的なニュアンスを万葉びとが知っていたかどうかは、研究に値することであろう。白川には『初期萬葉論』(中央公論社、1979年;中公文庫、2002年)と『後期萬葉論』(中央公論、1995年;中公文庫、2002年)がある。大変参考になる。
 白川静は『初期万葉論』で「歌を作るというそのことが、呪的儀礼としての意味をもつ」(81頁)ことを多くの事例をあげて、論じている。万葉びとも作歌を古代宗教的な行為と思っていたことになる。
 白川は『後期万葉論』では、『万葉集』の問題の「梅花の歌三十二首 序を幷[あわ]せたり」とその本文について、王義之の「蘭亭序」が典拠であろうと推察している。王義之の書は、万葉の時代のわが国で特に尊ばれていたことを指摘している(228-229頁)。このように、白川文字学からも、古代日中が切り離したく結びついていたことが十分検討すべき課題となる。
[『万葉集』国書説の起源] これまで論及してこなかった新聞に『日刊ゲンダイ』(2019年4月3日号)がある。新元号「令和」について『東京新聞』以上に果敢な批判的記事を展開した。特に、その2頁は誠に注目すべき記事が二つある。その一つが新元号「令和」の「ルーツは『漢籍』」という記事である。張衡「帰田賦」が出典である可能性を指摘し、もう一つの出典の可能性を、白川静と同じく、「書聖」王義之「蘭亭序」の「天朗氣清、恵風和暢」に求めている。
[『万葉集』の過去の忌まわしい悪用] さらに注目すべきことに、その『日刊ゲンダイ』は2頁右欄を全部使って、『万葉集』の忌まわしい歴史を暴露している。なかでも注目すべきは、東京大学教授・品田悦一氏の談話である。品田氏には著書『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典-』(新曜社、2001年)がある。
 その談話で「『万葉集』が近代日本の『文化装置』として『国民歌集』の地位を与えられ、『創られた伝統』が成立していった過程を検証している」と紹介している。
[日本国民「総動員」文献としての『万葉集』] 明治以後になって日本人は「国民意識」が注入され、「ますらおぶり」や「なおきこころ」を植え付けられたと指摘する。つまり、日清日露戦争、15年戦争に国民を動員するプロパガンダ・イデオロギーの典拠に『万葉集』を転化したのが、明治憲法国家なのである。
 安倍首相が麗しい日本の典拠を『万葉集』から二文字選び、新元号「令和」に求める行為は、すでに明治国家150周年を祝した彼の政治行動の延長上に存在することに注意しなければならない。
[日本兵士必携の『万葉集』] 最近亡くなったドナルド・キーン氏は、戦時中にアメリカ軍の一員として日本軍と戦った。キーン氏が、捕虜になった日本兵の多くが『万葉集』を携帯していたことに驚いたことを語っていたことを、その『日刊ゲンダイ』記事は報道している。
 本稿筆者の恩師・長洲一二先生も、「一五年戦争」末期に海軍に入隊した時、背嚢の底に、『万葉集』の文庫本とヒルファーディングの『金融資本論』の文庫本を入れていたと語ったことがある。兵士たちは、『万葉集』と共に戦地で戦死する覚悟を迫られていたのである。
[日本会議長老の注意を振り切った安倍首相] 安倍首相が「国書」『万葉集』にこだわる態度に対して、このような歴史的背景と歴史的経験が存在することを鮮明に想起しなければならない。
 安倍首相も有力な会員である「日本会議」の或る長老が、新しい天皇が即位する5月1日に新元号を公的に制定すべきであると主張していた。即位以前に新しい元号を制定すると、平成天皇在位中に二つの元号は並存するというまことにおかしなことになると注意した。
[安倍首相の時間支配の野望] にもかかわらず、安倍首相は、新元号制定をその5月1日でなく、1ヶ月前の4月1日にしたのは、なぜだろうか。
 安倍首相が、新天皇即位に先立ち、新元号「令和」を制定したのは、自分が「令和」という新時代の時間を支配する者であることを明示したいからであろう。安倍首相の、日本人全体が生きる時開を支配する野望に抵抗する課題が、いま発生したのである。マスメディアは、国民の多くが祝い浮かれているかのように報道する。その演出に注意するとともに、《今は浮かれている場合ではない》と自戒したい。(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion8538:190404〕