[近代日本アジア侵略史と日本国憲法] 「れいわ新撰組」の山本太郎人気を打ち壊すように、ヒロシマの8月6日を避け、その翌日の8月7日、小泉進次郞と「お・も・て・な・し」=東京五輪のシンボル、滝川クリステルとの結婚が「首相官邸」における記者会見で公表された。安倍晋三が彼らにその場所を提供したのであろう。《ポスト安倍は小泉進次郞である》というメッセージとも読める。
先の参議院選挙で憲法改正はなんとか阻止できた。しかし、8月6日のヒロシマ・8月9日のナガサキを経てやってくる敗戦記念日(8月15日)を間近に、日韓関係が急激に悪化している。
このような政治情勢の現在、現行の日本国憲法は、近現代日本の対アジア諸国との関係史を根本的に反省する規範として、果たして適正であるかという歴史的反省の観点から、日本国憲法は再考察する必要がないだろうか。
まさに、その課題に正面から取り組んだ力作が、本書、田中利幸著『検証「戦後民主主義」』(三一書房、2019年)である。
以下に、これが本書の主要内容であると評者が判断するものを取り出すように、その読後感を記す。
[「御名御璽」付きの平和主義「前文」] 欽定憲法(明治憲法)と同じように、日本国憲法も「御名御璽」(ぎょめいぎょじ)という認証つきで、天皇裕仁の名において公布された(岩波文庫『日本国憲法』8頁の日本国憲法、および67頁の欽定憲法の両方の「御名御璽」を参照)。
現行憲法の平和主義は、特にその冒頭で、昭和21年11月3日の日づけで、天皇裕仁自らが「平和主義者」として、日本国民および諸外国に、これからは不戦=国際平和を原則に生きてゆくのだという決意を宣言していること(詔勅)に依拠している。天皇の平和主義精神が日本国憲法を根拠づけているのである。
したがって、日本の戦後民主主義の基盤である「日本国憲法」のこの特異性が生まれる歴史的経緯に注目しなければならない。
日本では、基本的に重要なことは何事も、天皇の名=「御名御璽」から始まる。1945(昭和20)年8月15日の「終戦詔勅」もそうである。この日本国民の特性を熟知する米国占領軍は、日本国憲法を天皇裕仁の名において公布させたのである。
いや、「御名御璽」は名目にすぎない。重要なのはその内容であるという、ありうると思われる弁護論は、以下のような、本書が解明する史実、すわなち、「日本国憲法を制定する日米同盟」をどのように受けとめるのであろうか。
[裕仁を継承する明仁] 護憲運動の焦点である9条は、戦後昭和時代の天皇裕仁の平和主義によって根拠づけられている。つぎの上皇明仁が天皇であった平成時代、天皇明仁と皇后美智子の夫唱婦随の慰霊行為もまた、父親である平和主義者・昭和天皇の遺徳を継承するものである。そこに歴代の天皇が平和主義を継承する一貫性が貫徹する。
[アジア諸国民は視界に入らない慰霊] その二人の慰霊行為は、日本人犠牲者への慰霊であって、決して日本人以外のアジア諸国民、特に朝鮮人に対する慰霊ではない。広島・長崎の被爆死者には多大な朝鮮人が含まれているのに、そのことを指摘する発言は、8月6日のヒロシマや8月9日のナガサキにはない。
日本の平和主義には、なぜか日本人に限定する自閉性がある。
[死屍累々を生みだす日本軍のアジア侵略] 欽定憲法が規定する統帥(とうすい)者・昭和天皇の指揮において展開した「15年戦争」による東南アジア諸国民の死者は、ビルマ15万人、ベトナム200万人、マレーシア・シンガポール10万人、フィリピン111万人、インドネシア400万人、その他=合計600万人である(本書29-30頁)。日本の犠牲者310万人の約2倍である。中国人の死者はその数値には含まれていない。
『朝日新聞』2019年8月8日の朝刊9頁のマレーシア・シンガポール関連記事「語られなかった華人らの虐殺」は、本書の指摘する上記の事実を参考にしたのかもしれない。
[捕虜虐待国・日本] 捕虜の死亡率は、枢軸三国(ドイツ・イタリア・日本)のうち、ドイツ・イタリアでは4%であるのに対し、日本は29%である(本書25頁)。捕虜3人のうち1人弱が死んだのである。日本は捕虜虐待国であった。
膨大なアジア諸国民虐殺、捕虜虐待への明確な反省と謝罪が、戦後日本民主主義にはまったくといってよいほど欠落していた。この反省なしの護憲運動は、何を守ろうとしているのであろうか。ただ国内改憲勢力を批判することだけに空洞化してこなかっただろうか。
[イギリス留学中の経験] 本稿筆者がイギリス留学中、高齢の男子イギリス人がつかつかと食事中の筆者のそばに立ち、かつての日本軍のイギリス人捕虜虐待を大声で批判した。座席から立ち上がった筆者が「敗戦当時、私は満6歳でしたが、一人の日本人として心より謝罪します」とのべても、彼の怒りは収まらなかった。約30年前の彼のあの激しく怒る表情が、わが心をいまも痛める。
[オバマの責任回避] プラハ演説だけで実質的になにも達成していないのに、ノーベル平和賞を受賞したアメリカ大統領、バラク・オバマは2017年5月29日・広島で、アメリカ合衆国が原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島に投下し多大な犠牲者を出したにもかかわらす、その戦争犯罪責任は、アメリカでなく、核兵器を持つにいたった「世界」=「人類一般」にあるとのべた。
[オバマのジェスチャー] オバマはアメリカ合衆国の原爆投下という戦争犯罪の責任を一切無視したのだ。その儀式の最後で、一人の高齢男性の被曝者の背中を軽く抱き、ぽんぽんと肩を叩いて、何やら意味不明の慰めみたいなジェスチャーをしただけであった。なのに、その老人は感激のあまり涙にむせんだ。
[日本国憲法制定権力と護憲運動との無意識な同盟]「9条の会」などが、護憲主義者であると推定する明仁・美智子と同伴し、その暗黙の契約で連帯する態度にも、天皇と国民との一体化という日本国憲法の成立根拠との同一性が存在する。
[三権総覧者から象徴への天皇裕仁の変身] しかし、天皇裕仁は1926年~1945年の期間(昭和前期)では、明治憲法のもと、日本の「象徴権力・政治権力・軍事権力」の三重の権力の総覧者であった。
ところが、その権力の頂点に立ってきた裕仁は、1945年の敗戦を転機にして、突然、象徴権力のみをもつ平和主義者にガラリと変身する。空爆のとき関係者が命がけで守った「ご真影」から、ソフト帽をかぶって笑顔でいう「あ、そ」に変化する。
[被害者が加害者に謝る不思議な光景] 堀田善衛が『方丈記私記』で自分の目撃体験を書いているように、昭和天皇裕仁は、敗戦直前の1945年3月10日の東京大空襲で多大な犠牲者を出した深川の焼け死体はあらかた片付けられた現場に、高級車に乗ってやってきた。天皇の長い革靴はピカピカに磨かれていた(本書第1章のタイトル頁の写真を参照)。天皇を出迎える被災者たちは、跪いて、天皇に謝罪する。
戦争被害者が戦争最高責任者=加害者に謝罪する、この不可思議な光景は敗戦直後に続く。国民は、たとえば、宮城前広場に跪いて慟哭し、《私たち国民がだらしなかったなら、戦争に負けました。天皇陛下、誠に申し訳ありません》と額を地に着けて、天皇に謝罪する。謝罪する国民は、少し前まで、
《勝ち鬨(かちどき)わたる靖国の
庭の陛(きざはし)、ひれ伏せば、
熱い涙がこみ上げる。
そうだ、感謝のその気持ち、
その気持ちが国守る》
という靖国賛歌を歌って心震えたのである。こう書く筆者も幼少の頃、この歌を1945年の春、満洲の国民学校で歌わされた。そのメロディーをはっきり覚えている。
[加害責任回避の日米同盟] 日本国は第2次世界大戦で原子爆弾の被爆国であるという被害者の側面を前面に押し出し、アジア諸国民への深刻な加害=戦争犯罪を曖昧にする。戦時中、中国政府が置かれた重慶に日本軍は合計218回も空爆したのに、それに一言も言及しないで、ただ東京大空襲のみを語る。
一方、アメリカは、東京空爆を初めとする全国主要都市への焼夷弾(ナパーム弾)爆撃を繰り返し、原爆を投下した。にもかかわらず、日本はそのアメリカの戦争犯罪を糾弾しない。日本およびアメリカは自己の加害(戦争犯罪)を隠し、日本は被害だけを語る。存在するのは、日本の被害だけとなる。これは歴史の偽造ではないか。
[原爆投下=終戦早期化説] 米軍による日本主要都市へのナパーム弾空爆よりは、広島および長崎への原爆投下がおこなわれたからこそ、日本は戦争を止めたのであり、原爆投下なしでは、より多大な戦死者を出したはずであるという「原爆投下=終戦早期化説」を流布して、その戦争犯罪から免れてきた。
[被害のみを語る歴史の偽造] 今年のヒロシマの記憶行為もただ、被爆体験はひどかったという語りのみであった。加害者のいない被害のみの記憶は欺瞞ではなかろうか。その欺瞞は繰り返されることで、加害者アメリカは忘れられる。
忘れるように演出された政治言語空間での「語り(narrative)」が反復されている。被爆体験のみを語る者は、歴史の偽造に加担している。その自覚はあるのだろうか。
[ヒロシマ・ナガサキの根源的な問い] 誰が原子爆弾を企画し、何処からウラニウム鉱石は入手したのか、何処で如何にそのウラニウムは抽出されたのか、何時、何処で、如何に原爆実験は行われたのか。それらの問題については、一切触れられない。それらは、8月6日、8月9日には、一切語られることのないタブーである。この政治言語空間が敗戦直後からの日米同盟の核心である。「日米安保は単に軍事同盟だけではない」と恩師・長洲一二(1919-1999)は生前語った。
[加害者責任を回避する敗戦直後の日米同盟] こうして、日本も米国も加害者責任から免れる。不可思議なことに、ヒロシマ・ナガサキは、アメリカという加害者のいない被爆体験国となる。アメリカはその戦争犯罪から免れる。
日本は、アメリカの原爆投下責任を問うことなく、ヒロシマ・ナガサキの被爆体験のみを全面的に押し出す。この貸しをテコにして、日本の戦争犯罪をぼかし、そこから逃れることによって、「15年戦争」の総指揮者・天皇裕仁を戦争責任から逃避させ、平和主義者として変身させ、日本国憲法の公布者として再定義する。
[日米安保体制の起源=日本国憲法の制定過程] これが敗戦直後に成立した日米同型の基本枠組みである。この枠組みこそ、日本国憲法制定権力の基盤である。したがって、日米安保は1951年から始まるではなくて、敗戦直後の日本国憲法の制定過程から始まる。
[国体護持こそ、すべて] ヒロシマ・ナガサキの被爆が発生していても、天皇の重臣たち(枢密院関係者)は、その被爆には無関心であって、「国体(天皇制)護持」が最重要課題であった。彼らの祈願が日本国憲法制定過程を規定したのである。
[加害責任回避者=「平和」憲法制定権力] 日米の相互責任回避戦略によって、日本国憲法が制定された。15年戦争中、昭和天皇は軍国主義者に操られた被害者であったという神話を捏造する。この高度な政治操作で、欽定憲法下の昭和天皇から日本国憲法の制定主体・平和主義者としての昭和天皇への「変身」が可能であった。
[裕仁の戦争責任を明示する『朝日新聞』] 2019年8月7日(水)『朝日新聞』朝刊13頁の記事「大元帥たる昭和天皇」(吉田裕へのインタビュー)は、昭和天皇の積極的な戦争関与の諸事実を明確に指摘している。「作戦決定に介入し、…特攻計画も認めた」(同記事の見出し)のが昭和天皇なのである。
平和主義者・昭和天皇は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)の戦争責任からの逃避で造られた虚像である。
この日本国憲法制定過程の隠された作為を暴くのが、本書・田中利幸『検証「戦後民主主義」』の核心部分である。本書は、改憲勢力である日本会議、その主要メンバーである安倍晋三への批判も展開されている。
[護憲論者の基本課題] 護憲勢力は上皇・天皇と連帯し「9条を守れ」を力説することによって、敗戦直後から存続する日本操作勢力(Japan Handler)が構築=維持してきた基本構造を、それとは知らず《無意識に》であろう、保守する。
このことによって、日本の対アジア諸国民への戦争犯罪責任からの逃避、およびアメリカの空爆=原爆投下という戦争犯罪からの逃避に加担している。この思わざる行為事実によって、日本国憲法制定権力の列に加わっていないだろうか。
日本国憲法について、このような深刻な反省を読者に促す。それが本書の気迫に満ちた記述内容である。
護憲論者には、日本国憲法のこのような戦争責任回避の仕掛けを批判的に認識することで、現在の日韓関係のような帰結を、如何に打破し、如何にアジア諸国民との連帯を構築するかという基本課題に正面から取り組む使命が存在しないだろうか。
[忘却は歴史の捏造に加担する] 我々現代日本人は、そのような無意識の、しかし実は演出された忘却によって、テオドール・アドルノがいうように、忘れた行為をさらに歪め正当化するという、より救いがたい泥沼に埋没してゆくのではなかろうか。
[護憲運動の課題] むしろ逆に、護憲運動の真髄は、アジア諸国民との連帯へと自己を解放=深化する方向に存在する。その方向を構想するうえで、本書は必読文献のひとつであろう。本書はこのように、今日の日本の時代傾向を真っ向から批判する、注目すべき著書である。
主な新聞にはまだ、本書(初版2019年5月20日刊行)の書評が掲載されていない。その掲載が強く期待される。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion8886:190809〕