《消費せよ、しかし沈黙せよ》― 試練に立つ現代民主主義 ―

著者: 内田 弘 うちだ ひろし : 専修大学名誉教授
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[アフリカからの留学生の密かな訴え] 以前に、この「ちきゅう座」でつぎのような経験談を書いたことがある。
 かつて、3月下旬のイースターで閑散としている或る外国の学生食堂で朝食をとっていると、「ご一緒してよろしいでしょうか」と声をかけてきた学生がいた。「もちろん、どうぞ」と応えると、私の前のテーブルの上に朝食のプレートを置き着席して、「アフリカから来ている留学生です」と自己紹介した。
 しばらくすると、小声で、「ここだけの話ですが、欧米のアフリカ政策は狡猾です。私たちアフリカ人を、分断し、争わせ、両方に武器を与え、戦争させています。そのために、私たちは飢えるようになり、生まれた土地で生活できず、難民になるのです」といった。留学生は、そう言い終わると、急いで食事を済ませ、「ありがとうございます」といって退席していった。
 その直後、《際どいことを聞いたな》と思った。なぜ私にそのようなことを語ったのか、分からなかった。いまでも、分からない。
[『東京新聞』の注目すべき報道] ごく最近、この経験を思い出した。今年(2018年)の9月19日(水)の『東京新聞』朝刊12頁のつぎのような記事を読んだときのことである。そこには、「アフリカ人の手では止められない 大国米中の代理戦争」と題して、スーダン・南スーダン・ウガンダにおける「代理戦争」についての記事が掲載されていた。当地に埋蔵されている「原油利権」をめぐる米中の争いである。
 記事によれば、中国が「後ろ盾」になっているスーダンの「北部政府」および「神の抵抗軍(LRA)」と、米国が「後ろ盾」になっている「スーダン人民解放軍(SPLA)」および「ウガンダ政府」とが代理戦争をしている。「南スーダンは2011年に独立したが、再び内戦状態に陥り、米国に同調する日本は、この地に自衛隊を派遣している」と『東京新聞』記者・沢田千秋は指摘する。
 この記事を読んで、あの学生食堂でのアフリカからの留学生のわき起こる怒りを押さえた、至極小声の私への訴えを思い出した。
 おそらく、『東京新聞』のこの記事に誘発されてであろう、『朝日新聞』は次の日(9月20日)の朝刊に「駆けつけ警護 重装備」と題する南スーダンに派遣された自衛隊についての記事を掲載した。
[《アフリカ関与》に沈黙する者たち] 南スーダンへの自衛隊派遣をめぐる国会の論戦は、もっぱら「日報問題」に始終し、核心問題《なぜ南スーダンに派遣するのか、なぜ南スーダンは内戦に陥っているのか》には論及しないで、表面的な事柄で始終した。
 アメリカも中国も、アフリカの原油資源をめぐって当地の人々に代理戦争をさせているのである。学生食堂で学生から聞いた話しでは、欧米の巧妙な「アフリカ関与」であった。しかし、「アフリカ関与」は中国も行っているのである。中国の共産党=国家(party/state)のいう「一帯一路」の裏面には、このような代理戦争が含まれているであろう。
[集団的自衛権の実態] 日本も、中国と石油利権をめぐって争うアメリカに加担している。集団的自衛権の実態がこれである。オバマ=クリントンもトランプも、このような「アフリカ関与」について語ることはない。習近平もない。安倍晋三もない。日本の野党もない。米中日のこの「アフリカ関与」はなぜ発生するのであろうか。むろん、巨大な原油需要のためである。そのほとんどの最終消費者は各国民である。
[寄付文化推奨の代理戦争隠蔽] 夕食時に、テレビを観ていると、コマーシャル時間にPRとして、アフリカの栄養不足の子供の姿がテレビに映され、《どうぞ、あなたの善意をお示し下さい》と、寄付を訴えられる。送った資金はしっかりあの子供たちに届くのかなと思う。
 自宅近くの駅前広場で最近、同じ訴えをしている活動家がいた。「この運動の創始者はノーベル平和賞をもらいましたが、そんなことは、どうでもよいことです。みなさんと一緒に発展させる活動です。私はこの活動の専従員です」と尋ねていない弁明をいう。それを聞いて、その慈善活動はグローバルな組織によるものであり、専門家を抱えて人件費もPR費もかかる組織であることを知った。
 こうして、一方の「代理戦争」と、他方の代理戦争の「犠牲者(難民・飢餓児童など)救済運動」が一対になって展開している事態が明るみに出てくる。貪欲で無慈悲な戦争と、その悲惨な結果の人道的受け皿との連係プレイである。資源戦争と人道的ボランティアのタイアップである。
[《食べる》中国人、《着る》日本人] あるとき、横浜の中華街の漢方薬店頭に展示されている、鯨の或る部位の干物が珍しくて観ていると、中国人の店主が奥から出て来て、私に「日本人は利口ではないね、着ることにばかりお金使うから。中国人は利口だね、食べることにお金使うから」と言った。「食事か着物かは、それぞれの好みでしょう」と応えた。
 そう応えながら、日本にきたイギリスの友人が、日本人の姿を見て、「日本人は良い物を着ていますね(Japanese people are well-dressed.)」といっていたことを思い出していた。
 中国の或る友人は、中国で一緒に朝食を食べているとき、昼飯に何を食べるか、何処の店が美味しいか、熱心に語った。
 今年の春に招かれ滞在した中国の或る大学の教職員用に朝食だけ提供する食堂で食べた朝食はとても美味しかった。とくに「粟の粥」は格別であった。
 しかし、気になることがあった。周囲で朝食を食べている人たちは、食物をよくこぼす、飯を沢山残して席を立つのである。円形のテーブルの上には、至極薄いビニール布が何枚も重ねて覆ってあり、係の職員が頃合いをみて、一番上のビニールの覆いを剥がして、こぼされ残された食物を一塊にして取り去っていた。この作業は沢山並ぶテーブルのほとんどで行われている。客として失礼とは思いながらも、《もったいない》と感じつつ、筆者は、食物を少しも残さず、皿と椀をきちんと重ねて席を立った。
[紹興の銀木犀と食堂風景] 自著『啄木と秋瑾』を、秋瑾の故郷である紹興の記念館「秋瑾故居」に寄贈するために訪れたことがある。(金木犀でなく)銀木犀の、切ない香りが紹興の街全体に漂っている。《魯迅も、秋瑾もこの香りを嗅いで生活していたのだなあ》との感慨が浮かぶ。
 秋瑾斬首の現場や魯迅記念館を訪れ、紹興の運河をのんびりとゆく船に乗った。夕刻は6時を過ぎていたので、案内役の方に、夕食はこの紹興で済ませましょうと提案され、入った大衆食堂は奥深く、かつ広い。沢山の家族ずれ、友人・知人のグループがそれぞれ、大きな円卓に載せられた、多くの種類の山盛りの料理を精力的に食べている。大声で語り合いながら、旨そうに頬張っている。《よく食べるなあ》と感嘆し、横浜中華街の漢方薬の店主の主張や、スーパーやコンビニの売れ残り廃棄される大量の食品や、日本の大食い競争のテレビ番組を思い出した。
[米日中のアフリカ資源渇望] このような食糧は、自国だけでなく海外からも調達しなければならないだろう。ベトナムとフィリピンなどに囲まれた海域を中国が軍事基地を創り独占しているのも、そのような中国人の巨大な(海産物への)食欲が控えているからだろう。漁をするにはエネルギー(ガソリンや重油)も必要であろう。料理には燃料が不可欠である。石油ガスはアフリカからも獲得しなければならない。こうして論点は、最初の米日中が関与する「南スーダン問題」に再帰する。「豊かな食生活」と「アフリカ関与」は連動している。
[『豊かな社会』と沈黙] 本稿筆者の学生時代は、1960年前後である。現在からほぼ60年前である。60年安保法案に対しては、学内で教学合同抗議集会を開き、教員と学生が一緒になって国会に抗議デモにいった。戦後日本の経済高度成長の始動期でもある。ガルブレイスの『豊かな社会』が訳され読まれたころである。
 ゼミの担当の先生は、ふだんはゼミ生の議論に立ち入らないで、黙って聴いているだけである。ところが、或るとき珍しく、先生は熱心に語った。アメリカの左派の雑誌『マンスリィ・レビュー(Monthly Review)』の特集号「新しい資本主義」をゼミ教室に持ってきて、現代資本主義について論じた。その最後に、つぎのようなことを指摘した。
 「これからの日本は豊かになるでしょう。しかし、注意したいのはその先のことです。もしかすると、《消費せよ、しかし沈黙せよ》という、おかしな社会になるかもしれない。豊かな生活条件を確保するためには、安定した政治体制が前提になる。政争で社会が揺れていると、豊かな生活の条件が不安定化する。それを避けなければならない。そのような理由で、《豊かな生活をしたければ、あれこれ、うるさい意見をぶつけないで、黙っていてほしい》と要求されるようになるかもしれない。さあ、どう考えたらよいだろうか」。
 先生は「革新能力とは、予見力が基礎にあり、予見された蓋然性の束の中の最善を選択し、最悪を回避することにある」といった。いま、最悪の状態に向かっているではないだろうか。
[中国中産階層の政治的妥協] 現代中国産業革命としての1978年以後の「改革開放体制」から、比較的豊かな中間階層が登場してきて、その経済的基礎を条件に政治に活発に参加するようになる。中国の政治が民主化する。《経済的発展→政治的民主化》という方向は中国でも作用し、《2022年までに中国は一党支配体制から離脱するだろう》という予見が胡錦濤時代に、党内アンケートのデータを前提に語られた(呉軍華『中国-静かなる革命-』2008年、日経出版社)。
 しかし、事態は逆に進んだ。いまでは、中国の中間層は政治に口出ししないという暗黙の契約をしている。少数の例外を除いて、政治問題にはほとんど沈黙を守っている。《政治には口出ししないで、消費を楽しむ》。60年前の恩師の予見が現代中国に妥当するようである。日本の現在も同じ方向に進んでいかないだろうか。
[《自由・平等・友愛》の変質] フランス1848年革命が生んだ第二共和制憲法は、「所有労働」をフランス社会の基礎にして「自由・平等・友愛」を目標とする。これは、有産階級(所有)の無産階級(労働)への「歴史的妥協」であるとアントニオ・グラムシは指摘した。1848年体制は、新旧の有産階級による無産階級に対する支配体制=「ウィーン体制」(1815年)からの大きな旋回である。
 ところが現代のフランスでは、豊かになった勤労者は、少数の制御テクノクラート(高度技術支配層)と協同して、《アフリカなどからの難民は豊かな消費生活圏に入れない》という「より狭く制限された友愛」への「歴史的妥協」を生み維持していないだろうか。
[デジタル資本主義は迅速な意志決定を求める] 技術・交通・通信に支えられた経済と社会は、デジタイル高速技術のネットワークに組織されている。所与のシステムでの情報処理・決定は高速である。その条件の実相は、今回の北海道地震でも垣間見えた。
 政治・行政・企業経営・社会的インフラはそのようなシステムに存在する。時間をかけてじっくり行う議論=「熟議」は、そのようなシステムに適合しているのだろうか。トヨタは最近、取締役を20数人から10人未満に減らした。人件費節約が公にした動機であるけれども、迅速な経営上の意思決定の推進がその真の動機でないだろうか。「船頭多くして船、山に登る」の事態を回避したいのであろう。
 問題をよく理解できない者たちの長い時間をかけた議論は、正確な結論に到達するとはかぎならない。結論が出るのが遅すぎて、問題自体が変化していて、事態はより深刻になるかもしれない。そのような《まなざし》がシステム自体から発生し、人々の意識の深層に浸透して、《沈黙》を促していないだろうか。深刻なのは豊かな社会に潜むリスクである。
[監視カメラ社会の受容] リスク回避のため、監視カメラがあちこちに設置されるようになったばかりの頃のイギリスに留学したことがある。イギリス社会のこの大きな変質を留学先の大学の職員は、「私たちイギリス人は、《オーウエルの世界》を受け入れたのです」と文学的表現で釈明した。日本もイギリスの後を追うように監視カメラをあちこちに設置し、「共謀はないか」と監視する社会になった。
[民主主義の再検討は不要か] 問題が高度に専門化し、少数のテクノクラートが問題の解明と解決を担い、他の多数の者たちは、《消費せよ、ただし沈黙せよ》と事実上要求されているのかもしれない。中国に限らず、経済開放型の政治独裁体制は、案外、21世紀の政治経済に適合する形態なのかもしれない。このシニカルな動向から眼を背けず、直視しなければならない。
 思考実験を多様に経験することを現代民主主義は求められていないだろうか。われわれを現実に組織している現代の制度に対応できる民主主義とは、いかなるものであろうか。
[マルクスは《民主主義者》ではない] 因みに、マルクスは若いとき、スピノザの『神学・政治論』を精読し、代議制民主制は、商品の代表としての貨幣が支配する資本主義経済と同型であることを洞察し、『経済学批判要綱』でそのことを再確認している。マルクスは、いわゆる民主主義者ではない。意外であろうか。
 真理は生の形では存在しない。むしろ虚偽の背後に隠蔽されている。虚偽に対する徹底した批判の彼方に真理が顕現してくる、と彼は考えた。《すべては疑いうる》。《天動説(虚偽)から地動説(真理)への天文学史的旋回》が彼の研究のパラダイムである。その旋回を聖書で反駁した《宗教改革》のルターやカルバンはマルクスの批判対象である。
[代理戦争のブーメラン効果] 代理戦争で当地を追われた人々は、代理戦争を仕掛けて豊かな国に向かう。豊かな先進国の国民は、「代理戦争」などで発生した沢山の難民が入国してくると、その豊かさを脅かされると考え、難民を規制・禁止し福祉政策を抑制することを要求するように急変している。先に見たフランスだけでない。イギリス、北欧、ドイツ、イタリアなどの最近の動向がそのような急速な右傾化を示している。日本は事実上難民受入れ禁止状態である(2017年現在、難民申請者約2万人、認定20人。認定率0.1%[朝日新聞2018年9月23日朝刊30頁])。
[不可能な一国主義を支持する没落中間層] 移民国アメリカは、低賃金労働供給国の中国(に資本移動した米国系多国籍企業など)からの輸入品に関税を全面的に掛けて、国内産業を保護育成しようとしている。しかし、相互に相手を内部に包摂している「入れ子構造」が多国間で高度に発達した21世紀の世界資本主義では、一国主義は不可能である。貿易取引と資本の自由化を推進してきたアメリカに、その推進に「改革開放体制」で対応してきた中国が「ブーメラン」になって、アメリカを保護主義に自閉させている。その自閉は自壊であろう。
[社会の底が割れていないか] それにも関わらず、そうしたい、そうできると信じる者たちがトランプを支持する。彼の失言など、メディア(新聞テレビ映画など)を中心とした米国リベラル派の偽善・欺瞞にうんざりしたと感じているトランプ支持者にとって、どうでもよい事柄になっている。支持者と批判者とは、同じ事柄が別の事柄にみえる。《オルタ・ファクト》である。人間の社会形成能力が作動しづらくなっている。「社会の底」が割れはじめている。市民社会の基礎が崩壊しつつある。従来の市民社会論では対抗できない。経済学を含む社会科学の前提が危うくなっている。その危機から眼を反らしてはならない。
[ショッピング・モールに軟禁される消費主義国民] 「モリカケ? もう、いいや。それより、大坂なおみの優勝、すごいじゃないですか、償金が4億6千万円だってね!」と国民の関心は他にシフトしていないだろうか。2020年の東京五輪は、この政治不正を根こそぎ彼方に流し去る「政治津波」になるかもしれない。
 最近、やたら神社仏閣のテレビ番組が放映される。近くの神社で開催される年末の餅つきなどで、政治家と昵懇になりたい。けれども、政治そのものは語りたくない。こう思うひとが結構存在するのではないだろうか。いや、生の政治はごめんだと距離を置く人々が多数であろう。これまでの左派を含めた「政治の作風」に問題がなかったのだろうか。
[ショウ・ビジネスの最高潮・東京五輪] サッカー・野球・フットボールなどの「ショウ・ビジネス」は消費主義社会の華である。ラグビーもその仲間に入ろうとしていないか。テレビ中継が映しているように、贔屓(ひいき)チームに自己確証(self-identity)を求めて、多くの人々が熱中している。大きなグラウンドが「居場所」になっている。東京五輪をその最高潮にしようと懸命な教育族=五輪勢力が、学生にボランティアを強制している。教育族=五輪勢力の「大学関与」である。
 五輪では、なによりもスピードの競いである。デジタル高速化社会にぴたりと対応する。至極少数の人がそのスピード主義に不安を抱いている。「どんどん決める政治は危険を感じる」との投書が『東京新聞』「発言」欄に掲載された(2018年9月21日)。
 「利害関与」の対象は、あのアフリカだけでない。夏冬の2年ごとの五輪も「利害関与対象」である。五輪は垂涎のビジネス・チャンスである。世界資本主義は、ビジネス・チャンスを「祝祭の姿」に仮装して組織する。マルクスの時代の1851年のロンドン万国博覧会がその祖型である。その祝祭のツケは、長野五輪のように、開催国民(市民)が長期間かけて負担する。
 東京五輪が間近の日本も「自国民第一主義」原理で「少数テクノクラート」が「消費主義大衆」を「ショッピング・モール社会」に包摂=統合するように、じわじわと移行しつつあるのではないか。日本も《没政治的な消費主義社会》に移行しつつあるとすれば、民主主義はこれまで通念で有効なのであろうか。迅速にタフに、再考しなければならないと思う。
 ほぼ60年前、ゼミ担当の先生から、《消費せよ、しかし沈黙せよ》という、回避しなければならない未来像を聴いて、ゼミ生であった本稿筆者が「《消費せよ、しかし沈黙せよ》というその社会は、「シニシズムの社会」ですね」と発言すると、先生は「そう、そうです。一番怖いのは、その価値意識が崩壊したシニシズムですね」と応えた。(以上) 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/ 
〔opinion8027:180924〕