《湘北拙句抄》その4

『西東三鬼全句集』(角川ソフィア文庫、2017年)を読んでいる。三鬼(1900―1962)のつぎの句が最初に注目され、代表作の一つとなった。

《水枕 ガバリと 寒い海がある》

初出は1935年(昭和10年)『京大俳句』である。「水枕」と「寒い海」が「ガバリと」で連結し、対句となる。三鬼句の面白さは、対句がガラリと反転する対称性にある。その舞台転回に意外な情景が浮かんでくる。ただし、対句の精妙なバランスが肝要である。奇をてらいすぎると、いやみになる。これは詩作の場合でもおなじであろう。それを自戒に、この《三鬼句》を「本歌取り」ならぬ「本句取り」で詠んでみる。

《水枕 熱に揺れ行く 地中海》

三鬼の「水枕」と「寒い海」との対応に応じて、拙句では「水枕」は「地中海」が対応する。風邪熱で夢うつつのなか、かつて訪れた真夏の地中海が浮かぶ。地中海は、とろんと生温かった。土産にスペイン南部の海岸で白い小石を拾い持ち帰った。いま、自宅の茶箪笥にある。

《拙句》茶箪笥が 渚の小石 地中海

「茶箪笥が」の「が」は、[1]「茶箪笥渚の代わりである」という意味と、[2]「茶箪笥にある」という二重の意味を含む。

かつて小学生の夏休みに遊びに行った、母の田舎の実家で「オラ村」という言い方を聞いて、その「が」が奇妙であった。しかし、高校生1年生の古語の授業で、「オラが」の「が」は「我が」の「が」と同じであることを知って、田舎には古語が残っていると思った。言語分布でも、都市と農村との空間距離は、今と昔との時間距離に対応する。

以下、三鬼句と、それを本句とする拙句を対応させてみる。

《三鬼句》 汽車と女ゆきて月蝕はじまる

《拙句》  女乗り 夜汽車去りゆく 月蝕妖し

奇しくも、最近(2018年1月31日)、皆既月蝕があった。その様子を翌朝の朝刊の写真で確認した。自然現象でありながら、どこか妖しい。しかも、その妖しいという思い自体が奇妙である。

《三鬼句》 哭く女窓の寒潮縞をなし

《拙句》  哭き貯めは できないものねと 哭く女

敗戦直後の幼い頃、私たち子供たちは、皆でそろって、よく泣いた。一人の泣きがみんなに伝わった。大声でワァーと泣き、あるいはシクシクと泣いた。泣いて、泣きに没頭し、不幸の泣きの中で、不幸を忘れた。大人に代わって、米軍の空襲による焼け跡・バラック小屋の生活を泣いたのかもしれない。泣いたあと、ケロリと忘れ、ワイワイ愉快に遊んだ。

《哭き貯め》は悲句ではないか。『悲の器』は高橋和巳の書名である。かつて河出書房の初版で読んだ。自滅してゆく悲劇である。平成の子はあまり泣かないのではかなろうか。それだけ幸福なのであろうか。

《三鬼句》 王(ワン)氏の窓旗日の街がどんよりと

《拙句》  王(ワン)という 女の眼光り 我睨む

王氏は中国人である。彼にとって、なぜ戦時中日本支配下の「日の丸の旗日(はたび)」が楽しかろうか。当日、空は晴れても、心は曇る。敗戦間近になると、中国でも朝鮮でも、当地の国旗が翻った。植民地で空威張りしてきた日本人は急に萎縮した。その急変が卑しい。状況が戻れば、また空威張りするだろう。

人間には夜道は照らさないライトがある。いざというとき、眼がきらりと光る。それで十分意志が相手に伝わる。眼の光に心塞ぐときもあろう。妖しく光る蠱惑に戸惑うこともあろう。

《三鬼句》 夜の湖ああ白い手に燐寸の火

《拙句》  夜の湖に 白い手浮かべる 燐寸の火

中の句を少し換えた。こう書いて、なぜか映画『陽の当たる場所』を思いだす。「白い手」は、ボートから湖に落ちた女、シェリー・ウインタースの手かもしれない。そのボートを漕いでいた男、モンゴメリ・クリフトが、映画の最後で処刑に向かう表情が潔い。彼のような性格俳優が、なぜか、いなくなった。

最近見た米国映画『スリー・ビルボード』は、かつて画家ワイエスが描いた20世紀中西部アメリカの農村近郊都市のその後の様相を描いていると思わせる名作である。映画『デトロイト』と合わせて観ると、クリントンやハリウッドが巧みに隠してきたトランプ登場の背後が見える。その背後をハリウッド自身が描写するようになった。時代軸はここでも大きく旋回している。

同時に、かつて1950年代、高校生の時に観た、ジェイムス・ディーン出演の三部作『エデンの東』『理由なき反抗』『ジャイアンツ』がすでに表現していた「アメリカ的生活様式の空虚さ」が、半世紀後のいま、如実に赤裸々になっているのだ、とも考えられる。すでにそのとき、その空虚が分かっている人がアメリカにいたのだ。この点にアメリカのすごさがある。彼らは一様ではない。その非一様性(反・世間性)を『スリー・ビルボード』が克明に描写している。

《三鬼句》 雷と花帰りし兵にわが訊かず

《拙句》  声喪くし 黙々喰らう 帰還兵

十五年戦争(1931-1945年)からの帰還兵が多かった私の世代の父親たちは戦後、寡黙であった。このことは、辺見庸が著書『1★9★3★7』(い・く・み・な)で深刻に指摘することである。憲法9条の背後にはこの寡黙がある。寡黙、沈黙の裏に、語れば舌が麻痺する記憶がある。《三光作戦》《七三一》など、語れないことを戦場で苛烈に経験したからである。護憲運動はこの沈黙になぜか触れない。中国やフィリピンやシンガポールのひとたちは、とうの昔に、この沈黙に気づいているだろう。問題は対岸にだけあるのではない。

《三鬼句》国飢えたりわれも立ち見る冬の虹

《拙句》 飢えて喰う 故郷の餃子 自慢種

宇都宮連隊は大挙して中国に出兵し駐屯した。帰還兵は大陸で覚えた餃子を妻や娘に作らせた。宇都宮の何処の家でもギョウザを作って食べてきた。だから宇都宮は「ギョウザの街」なのである。高校生のとき、餃子店で《水餃子》を《スイチャズ》と「オ」を高めに強調して発音すると教わった。最近、宇都宮は再び「日本一のギョウザ街」に返り咲いた。第2位は浜松である。戦時経験はいまもなお生息する。それが見えないのは、戦時経験を語らず沈黙するからである。テレビ局もただの「街興し競争」として報道し、その背景は指摘しない。歴史隠蔽は続く。

《三鬼句》 朝の飢ラジオの琴の絶えしより

《拙句》  朝ラジオ 腹は空っぽ 一・二・三

夏休みは早朝のラジオ体操から始まった。出欠を取られた。出欠カードに紐をつけて首に掛けた。戦中の日本国家も戦後の日本国家も、国民の体力維持では、一貫していた。

《三鬼句》 蠓(まくなぎ)の阿鼻叫喚をふりかぶる

《拙句》  真夜中に 阿鼻叫喚の 寝息聞く

蠓(まくなぎ)はヌカカの類の小さな羽虫である。三鬼のこの句は、ある電子辞書の語句「まくなぎ」に引用されている。「まくなぎ」と「阿鼻叫喚」との対比は三鬼固有のものである。それにならって、《拙句》では「寝息」と「阿鼻叫喚」を対比した。合宿などで隣の寝息が気になって寝付かれないときの、そのうるささは、拡声器が耳元でがなり散らすようなものである。人間の心理と接合する耳は微妙である。心は声や音を小さく、あるいは大きく変換する。保育所・幼稚園・小学校の子供たちの声は、いま騒音である。なぜ幼子の声がうるさく聞こえるのか。その心理はなぜ生まれたのであろうか。問題はここでも対岸にのみにあるのではない。かつては、近くの小学校から昼休みにビバルディの『四季』が流れ聞こえたが、いまは静かである。

《三鬼句》 赤き火事哄笑せしが今日黒し

《拙句》  野次馬が 火事を喜び ヒヒーン鳴く

在職中、ゼミ生を連れて近くの消防署を訪問し、その仕事について伺った。消防士は語る。

深夜午前2時ごろ、消防士が救急車で事故現場に到着すると、トレーラーの後ろから衝突した乗用車がその下に深々とのめり込み、ペシャンコになっている。傷口が開かないように丁寧に救助しないと負傷者は出血多量で死んでしまう。《出来るだけ早く、しかし丁寧に》という相矛盾する作業に集中する。

その最中、どこからか集まったのか、事故現場付近を野次馬が取り囲む。

《なにをモタモタしているのか、なんで早く救助しないのか》と口々に怒鳴り、救助に当たっている消防士を叱る、責める。

これが《世間》の姿である。《世間》は普段は《沈黙の神》である。われわれは、それを気遣い、肩身狭く生きていないだろうか。日本で死刑制度を支持する8割は《沈黙の神》と無関係であろうか。最近亡くなった野中広務は、《世間》に壟断される社会的弱者の痛覚を自ら知るから、彼らに優しかった。

外国の或るジャーナリストが《お★も★て★な★し》の日本国民がなぜ《南京事件》を起こしたのか、分からないと、首を傾げていた。しかし、なんら不思議ではない。

かつて《い★く★み★な(1937)》を促した《荒ぶる神》は、いま《和の神》に変身していて、《く★る★み★な(来る皆)》、すなわち神の賓客に対して、ひとびとに《お★も★て★な★し》を要求する。それを怠ると、《荒ぶる神》に戻り、激しく怒る。神がひとびとを《お★も★て★な★し》の《和》に駆り立てる。だから、《和の神輿》をかつがないではいられない。《時勢》とは、この動態である。

(秩序)》への集中には、その裏面の《(無秩序)》への集中が対応する。しかし、《和》への集中が極限まですすむと、その集中点は口を大きく開き、その裏面の《荒ぶる神》に変身する。《荒ぶる神》は内外で猛威をふるう。野次馬は《荒ぶる神》の一つの姿である。《荒ぶる神》は、あの関東大震災にも出現した。

《和・戦》好みの神は、《ヘイト・スピーチ》だけに現象するとは限らない。人の《弱点》を執拗にみつけては、それを高見から密かに突く政治野卑にも潜む。

消防署に帰ってきた消防士は、負傷者の救助と野次馬のヤジで二重に精神的に傷ついている。帰ってきた消防士から事故現場の報告を丁寧に聴くことは、その傷を癒すためでもある、と伺った。学生たちも驚いている。仕事とは、真実、このような事柄である。

《三鬼句》 大寒や転びて両手突く悲しき

《拙句》  空腹で 氷に転び 頬涙

空腹でふらつき歩いていると、滑る氷でスッテンコロリン。倒れて氷にひっついた顔に惨め涙が垂れる。悪いことは重なる。人生、残酷でもある。喜悲劇でもある。

《三鬼句》 われら滅びつつあり雪は天に満つ

《拙句》  敗戦後 天皇いまだ 生き神ぞ

敗戦直後、小学2年生のとき、昭和天皇が行幸で宇都宮にも来た。 (宇都宮連隊付近にあったので「軍道」とよばれた)「桜通り」の近くにある孤児院を訪問するという名目である。

天皇の車が通る宇都宮中央大通りに並んで待っている私たち小学生に、教員たちは、「天皇陛下を見てはなりません。見ると眼がつぶれますよ」と大声でヒステリックに何回も警告した。子供たちは怖がって、腰を45度に折る最敬礼をしつつ、天皇が過ぎるのを待った。しばらくすると、黒塗りの車が前を通過した。

教員にとって、敗戦直後はまだ実質的に「戦中」であった。その教員たちの時代は、そのあと、ずるずると断層なく「戦後に成った」のである。この《成った》は、丸山眞男のいう日本人の「歴史意識の古層」の《つぎつぎと・なりゆく・いきほひ》の一例である。一言でいえば、《時勢》である。《時の勢い》である。《みんな》がそうしているから、それに従って生きる。その《みんな》の中にすでに自分がいることに気づかない。《みんな》の各々が、すでにできているように見える《みんな》の中に入る。こうして《みんな》ができる。《みんな》という集合と《みんな》の各々という要素の相互前提関係が《時勢》を強固に構成する。

《三鬼句》 限りなく降る雪何をもたらすか

《拙句》  高きより 降り来る雪に 街黙す

夕方、高英男(こう・ひでお)の歌う「雪の降る街を」がラジオから流れ来る。雪をロマンに変える良歌である。男体山や那須山の颪で急に底冷えするように変わる北関東の初冬の夕餉を迎える少年期が思い出される。

この冬は雪がよく降る。幼き頃を思いつつ、高秀男を歌おうか。「・・・思い出だけが通り過ぎてゆく・・・」。

《三鬼句》 凍る沼に我も映れるかと覗く

《拙句》  凍る沼 夏に映りし我 凍る

夏訪れた沼は、そのとき水面に映った私を記憶してきたが、冬になれば、凍るのでそのまま私も沼に凍りついている。

街の橋できみと別れた時、きみが触れた橋の欄干にきみがまだいるので、そこを撫でてみる。きみが去った街に、きみの影が黒々と残る。世界はいま、きみで満たされている。

ヒチコック映画『めまい』の「後半・冒頭」が描く、主人公スコティの心象風景がこれである。現代世界の専門映画評論家が推すベスト・ワンの映画は『めまい』である。かつてはオーソン・ウエルズの『市民ケーン』であった。映画『めまい』の高密度に重層するシンメトリーは、いつか精密に解読しなければならない。

《三鬼句》 黒蝶は何の天使ぞ誕生日

《拙句》  炎天の庭に 亡き母 黒アゲハ

真夏に飛び来る黒アゲハは、なぜか悲しみを運ぶ。三鬼の「天使・誕生日」に「母・死去」を対比した。

《拙句》 折を見て 逝きひと語るも 供養かな

つぎの三鬼句に移ろう。

《三鬼句》 広島の夜陰死にたる松立てり

《拙句》  皆黙す 帰国列車の 広島駅

1946年9月、満洲からの引き揚げ列車は、博多駅から東京に向かって出発した。が、なぜか広島駅で10分くらい停車した。見れば、辺り一面に灰色の空漠がひろがっている。帰国を喜ぶ車内の満洲帰りの人々は、ここで急に沈黙した。なにやら本土もただ事では無かったようだ。その思いに撃たれたのである。

《三鬼句》 広島や林檎見しより息安し

《拙句》  息を飲む 広き静寂 被爆街

《三鬼句》の上掲句についての「自句自解」は、こうである。「粉砕された街。夜は尚更黒と白と灰色。その中の露店で紅い果物を見た時初めて呼吸が楽になった。次の汽車に乗ってそこを去った。」

三鬼も、ヒロシマの被爆空間で思い詰め、ゆっくり呼吸する余裕がなかったのである。私たち満洲帰りは、ただ砕けに砕けて沈静するヒロシマの姿を観て、息を飲み、自ずと沈黙した。誰からも実情を聴かずとも、何があったか、真実分かる。いま、こうして目撃する光景がすべてを語っている。皆、黙って凝視している。筆者満7歳のときの経験である。(以上)

 

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