民法第818条「成年に達しない子は、父母の親権に服する」。憲法公布から73年過ぎた今も生きている「親権」の条文です。これに続く第820条「監護・教育権」は、「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」、第822条「懲戒権」は、「親権を行う者は、必要な範囲内で自らその子を懲戒し、又は家庭裁判所の許可を得て、これを懲戒場に入れることができる」でした。
820と822条は、2011年に中途半端に「改正」されています。子どもの権利・人権への鈍感さと無理解が露わな「改正」。820条には「子の利益のために」と付け加えられ、822条には「第820条の規定による」が付け加えられ、「又は家庭裁判所…」以下が削除されました。
深刻な児童虐待の増加もあり、2019年になって「懲戒権」についての議論が盛んになりました。でも問題の多い「親権」の規定に関しての議論はどこからも、まるで聞こえてきません。
❖誰かの下に「服する」誰かの存在は、差別で決して許されない
子どもが「親権」に「服する」とは、親に従属し、その支配下にある、ということ。家族が家長の統制・統率の下に置かれた制度(家長権に「服する」家族制度)が、子どもに関しては戦前のままに維持された、と言ってもいいでしょう。子どもが親に従うのは当然だ、ということです。親権はまさに、子どもに対する家長権、子ども差別の規定と言うべきもので、子どもの基本的人権を著しく侵害しています。
2011年に、「懲戒権」について中途半端な「改正」がなされた際には、その削除は「懲戒という言葉がなくなったら、しつけができないのではないかと誤解されるおそれがある」と見送られたとのことで、その時の法務相は江田五月だそうです(朝日、2019・2・22)。
この人はたしか、弁護士で社会党系の2世議員。優生保護法やハンセン病の強制隔離など、憲法違反がまかり通ったのも、“理解のありそうだった”社会党の議員すら、人権に関する認識がこんな程度だったからで、何とも愕然としてしまいます。子どもについて、《誰かに「服する」誰かの存在など、許されるはずがない》は、今もなお、当たり前ではないのでしょう。
子どもは「親権」という親の権限の下に置かれ、「監護及び教育」されます。「監」は、監督や監獄の監で、上から見下ろす・見張りをする・取り締まるという意味。今や政府の官房長官も「監房」長官と言ったほうがよさそうな時代の、監護です。そして「教育」も被教育者を管理支配するような、親の描く像に向けてしつけられるような、いわば戦前型の教育です。
❖親・保護者には、子どもの権利を守る第一次的責任と、代弁の役割がある
先ずは、このような親の子どもへの支配的権限は、すべて削除すべきです。
憲法にも、国連子どもの権利条約にも、明らかに反しているのですから。その上で、子どもの人権を護り、主体的な成長を援けるために、親・保護者と社会がどのような責任を果たさねばならないかを、きちんと議論すべきです。もちろん、子どもたち自身の意見表明と参加・参画を保障してです。子どもの権利条例を制定している自治体は、先頭に立って当然です。
考えるべきなのは、まず、▽子どもたち一人ひとりが、生まれながらに一個の権利主体として尊重されること、および▽子どもには、親と共に生活し成長する権利が基本的にあることを明記すること。子どもは、親の付属物でも所有物でもないことの、いわば宣言でもあります。
その上で、▽親・保護者は、子どもの権利(基本的人権)を保護し、子どもの権利主張・行使を支援する第一次的な責任を負うこと(この責任は、社会的な権利としての意味を持つが、子どもへの権限であってはならない)、▽前項の責任を果たすために、親・保護者は子どもの意見を受け止め、子どもの利益に添って代弁する責任を有すること、▽親・保護者の行為が子どもの利益に反するときは、親・保護者からの離脱を求める権利があること――などがあります。
子どもの基本的人権を基本において、子どもの健やかな育ちの基盤となるような親子関係を構想する規定への転換です。支配的な権限がなければ「子育て」できない、という関係から、生活の中で子どもの主体的な「育ち」を応援できる関係へ、ということです。
2019・4・26
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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