2019年の夏。小学校教科書を採択する教育委員会を傍聴して、採択の観点などの資料に目を通しながら、「キャリア教育」と「自己有用感」という用語に目が留まった。これまでこの市では使われて来なかった用語だったからだ。従来は、キャリア教育が強調されることはなく、「自己有用感」ではなく「自己肯定感」が重視されていた。でも、教育委員たちからは、これらの用語に触れる発言は、残念ながら一言も聞かれなかった。特に「自己有用感」には危険なにおいを禁じ得ないのだけれど。
❖思考力・判断力、主体的・対話的で深い学びなどが消えて……
2017年採択(2019年度から使用)の「平成30年度使用小学校特別の教科道徳教科用図書調査研究の観点」と2019年採択(2020年度使用)の小学校道徳教科書の「観点」とを比べてみた。変化を確認したかったからだ。
19年採択の「観点」。「教科・種目に共通な観点」が11項目。内容と構成、客観性・妥当性、発展的学習、表記・表現など、17年採択の「観点」と同様の項目が並び、11項目目に「キャリア教育の目標との関連」が加えられている。10項目までは県教委と共通だが、11項目目は市独自だという。一方で17年「観点」から削除されている項目は、とても気になる。「難易度の妥当性」「思考力、判断力、表現力」「興味・関心」などだ。
17年採択の「観点」の道徳に関する項目は5項目。「道徳科の目標と内容との関連」「主体的・対話的で深い学びを促す視点(質の高い指導方法の工夫)」「現代的課題への配慮」「道徳的価値の理解・促進」「話題・題材」だが、19年採択の「観点」では、「主体的・対話的で深い学び・・・」などが消えて、「道徳科の目標と内容との関連」「現代的課題への配慮」と「自己有用感」の3項目。「自己有用感」には「自己や社会の未来に夢や希望を持ったり、人としてよりよく生きる喜びや勇気を感じたりできるような内容が適切に扱われているか」と説明がついている。
消えた言葉と新たに加えられた言葉「キャリア教育」「自己有用感」とを絡めると、何となく狙いが浮かんでくるような気がする。「自己有用感」については後で詳しく触れるが、「キャリア」とは、いわば「誰かの(社会の)お役に立った実用的な自己の経歴」と言ってよいだろう。消された「思考力・判断力・表現力」や「主体的・対話的で深い学び」も合わせて考えると、まさに06改悪教育基本法第2条(教育の目標)が定める5項目の「態度を養う」の具体化だ。
誰かのために役立つ人になりなさい、学校教育は世の中のために役立つ有為な人材をつくるために勉強する場所だよ! 社会の実用の役に立つ知識・技能を身に付けて、世の中のお役に立つ立派な人材に育ちなさい、という学校教育政策の現状だ。そしてさらにその背後で、《社会の役に立たない人は、生きている価値がない》という生産力主義のささやきも聞こえる気がする。
❖他者の役に立ち・喜ばれる自分こそが、存在価値のある自分なのか!?
教職経験者に聞くと「自己有用感」は、10年前ごろから学校現場でちらほら聞こえるようになったという。調べてみると国立教育政策研究所が2015年3月に、生徒指導リーフ『「自尊感情」? それとも、「自己有用感」?』を発行し、「自尊感情」(「自己肯定感」と同義)ではなく「自己有用感」を使うことが適当だと、推奨していた。
このリーフの内容の前に、ちょっとした説明をしておきたい。じつは自尊感情も自己肯定感も、自己有用感も、同じ英語のSelf-Esteem の日本語訳だ。自尊心・自己評価・自己重要感などとも訳され、「うぬぼれ」の意で使われることもあるらしい。一般的には、自己肯定感・自尊感情が広く使われている。Esteem とは「尊重する・尊敬する・高く評価する」といった意味だから、「自己有用感」と訳すには、特定の価値観を加えて一捻りする必要がありそうだ。
生徒指導リーフはまず、「社会性の基礎となる『自己有用感』」として、こう述べる。
《…(略)…例えば、「自分に自信が持てず、人間関係に不安を感じていたりする状況が見られたりする」という指摘を受け、その対策として“子供の「自尊感情」を高めることが必要”と主張される方は少なくありません。/しかしながら、日本では、児童生徒の「規範意識(きまり等を進んで守ろうとする意識)」の重要性も強調されています。それらを併せて考えるなら、「自尊感情」よりも「自己有用感」の育成を目指す方が適当と言えるでしょう。/なぜなら、人の役に立った、人から感謝された、人から認められた、という「自己有用感」は、自分と他者(集団や社会)との関係を自他共に肯定的に受け入れることで生まれる、自己に対する肯定的な評価だからです。》
さらに、「最終的には自己評価であるとしても、他者からの評価やまなざしを強く感じた上でなされるというのがポイントです」「『自己有用感』の獲得が『自尊感情』の獲得につながるであろうことは、容易に想像できます。しかしながら、『自尊感情』が高いことは、必ずしも『自己有用感』の高さを意味しません。あえて、『自己有用感』という語にこだわるのは、そのためです。」と主張している。
❖他人の目⇒いいね!⇒受け狙い⇒ポピュリズム⇒忖度…「自己卑下」の態度を養う
なぜ、これほどに、他者の役に立つことや喜ばれることを重要視しなければならないのか?もちろん、それを否定はしないし、人の役に立ったり喜ばれたりすることは、誰にとってもうれしいことだし、自分を褒めたくなることだ。でも、他者の役に立ったり、喜ばれたりしなければ、自分の存在価値を認められないのか? そして、「他者」に家族や友人や隣人などが当てはまっている間はともかく、そこに国家や企業、上司や指導者、教師や監督、司令官や警察官、そして「安倍晋三」が入ったら、どういう「有用」になるか? こう考えると、“危険思想”と言ってもいいのではないか。そして、他人の目にかなわなければ、自己卑下つまり自分を認めることができなくなる。
個人の尊厳、個人の価値は、人間として生まれてきた存在そのものにあり、「人身得ること難し……已に受け難き人身を受けた」(曹洞宗の経典『修証義』第1章)というべき、かけがえのない存在なのだ。まず個人の価値がしっかり認められて、その個人がかかわり合って、人間関係が始まり、社会が形成される。釈尊の言葉に「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己を良くととのえたならば、得難き主を得る」(ダンマパダ第12章160)とある。まず、自分(自己)をしっかりと立てなければ、他者とかかわることも難しいし、ましてや世間の役に立つのは困難だろう。
「自己有用感」を重視すると、他人の受けや目を気にしろ、ということになろう。世間体と言ってもいい。SNSのいいね!漁りや、インスタ映え欲求など、受け狙いのススメともなる。ポピュリズム思考の基盤づくりとも言える。忖度のススメと言ってもいいだろう。
教育委員会が、道徳教育の(教科書選びの)中で、「自己有用感」なるものを押し出している。ちょっとした言葉の置き換えに注意したい。これが、学校教育の実用主義化、役立つ人材づくり化につながる。実用に役立つ知識・技能優先で、人格の完成に向けて欠かせない知識・技芸・感性は軽視される。国語でも、契約書など実用の文章重視で、文学は軽んじられることになると、心配されている。これらの教育は、統治機関としての学校が担う機能というべきものだ。学校を統治行為の道具にしてはならない。
自分の価値は、人の役に立たなくても喜ばれなくても、生きてそこに居るだけで意味があり尊い。それが個人の尊厳であり、学校(教育)の基本だと、確認しておきたい。
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