《藤田嗣治像のコペルニクス的旋回》-富田芳和著『なぜ日本はフジタを捨てたのか』の衝撃-

[不可解なスキャンダル] 藤田嗣治(フジタ・ツグハル:1886-1968)の回顧展が最近終わった。
 不可解なことに、回顧展のたびに、藤田嗣治(以下、フジタを記す)はつぎのようなスキャンダルがつきまとう。
《なるほど、フジタは名作といわれる作品を遺したけれども、フジタは「アッツ島玉砕」(1943年)や「サイパン島同胞臣節を全うす陥落」(1945年)など戦争画を書いたため、戦後占領軍GHQに告発されかかった戦犯容疑者だった。その疑念が晴れぬまま、戦後まもなく日本を捨て、アメリカ経由でフランスにゆき、フランスに帰化した》という風説である。
 その風説がどこからともなく囁かれ、人々はそのような疑惑の枠の中からフジタの作品を観るように方向づけられている。
 この惰性的な慣習ともいえるほどの先入観は、フジタにまとわりつき定着している。その枠を無意識に受け入れ、その中でフジタを観て、フジタをあれこれ論評する者が多い。こうして《スキャンダラスなフジタ》が再生産される。
 ところが、最近、このようなフジタ像を覆す、画期的なフジタ論が出版された。富田芳和『なぜ日本はフジタを捨てたのか』(静人舎、2018年)がそれである。本書は、日本敗戦直後来日し、フジタを米国に離日できるように支援し、美術に関する多面的で専門的な知識・技能をもった米軍将校フランク・シャーマンが集めた膨大なフジタに関する資料を含む「シャーマン・コレクション」を踏まえた力作である。本書に収められた、シャーマンが撮影した多くの写真も、真実のフジタを伝えている。

[真実のフジタ] この富田書によると、フジタをめぐる真実は、こうである。
[1] フジタは決してGHQから戦犯嫌疑に掛けられたことはなかった。
[2] 逆に、フジタは、米軍工兵隊から日本の戦争画の収集を依頼されていた。
[3] フジタの戦争責任を問おうとしたのは、日本共産党系の日本民主主義文化連盟の下部組織である「日本美術会」である。その創立(1946年4月)後まもなく、「日本美術会」の書記長の、それまでフジタと非常に親しかった内田巌がフジタ宅を訪問した。内田はフジタに「日本美術会」の総意として、「日本美術協会の決議で貴方を戦犯画家に指名した。今後美術界での活動は自粛されたい」と告げた。このことに「フジタ戦犯画家説」は端を発しているのである。
「戦犯画家リスト」の作成は日本民主主義文化連盟の指令によるものである。フジタ戦犯画家指名は、日本共産党の下部組織である日本民主主義文化連盟の指図であった。GHQはその指図にはまったく無関係であり、「戦犯画家」のリストの作成を誰にも依頼していない(同書104-105頁)。

[フジタは追放通知を聞き流す] 内田巌はフジタに「日本画壇で活動することを禁止する」と告げた。内田は共産党シンパである。内田はフジタと親しいゆえに、このつらい伝言者の役割を引き受けさせられたとフジタは判断した。フジタは内田巌を親しみを込めて「ガンさん」と呼んでいた。その伝言を聴いたフジタは、反論しないで、雨降るなか自転車に乗って外出し、鮨を買ってくる。酒の飲めないフジタはガンさんに酒を飲ませ、鮨を食べさせた。戦犯問題とは無関係な明るい話題を語り、ガンさんを慰労した。
[フジタの良寛演技] このフジタの行為は、フジタ自身が才能を自負し、良寛の逸話を演じて、その余裕をしめしたものである。
 あるとき、良寛の家に泥棒が入った。その泥棒がつぎの機会に盗みに入ってきたときに不便でないように、良寛は、庭の木の枝などを切り払って、泥棒の再来を待ったという。フジタのガンさんへの「おもてなし」は、この逸話に重ねた演技である。ガンさんはフジタの自分への接客態度が「良寛演技」であることに気づいていなかったであろう。フジタは「日本美術会」の彼に対する日本画壇禁止命令など、馬鹿馬鹿しく、歯牙にもかけていなかったのである。フジタはガンさんに、「鉛筆と紙があれば、太平洋の絶海の孤島に流されてもよい」と伝えたという。

[嫉妬深い日本の才無き画家たち] 翌年(1947年)、フジタ宅にやってきた初対面であるけれど、才能があるとフジタが見込んだ岩崎鐸に、フジタはつぎのように語った。
 「日本の画壇はひどいところだね。ぼくは戦争中と、その後の作家の変わりかかたに呆れているよ。あれほど戦争中世話してやった連中が、いまは誰一人として訪ねて来ない。絵描きはなぜもっと仲良くできないんだろう。若い良質の作家が出ても、それを育てるんじゃなくて、寄って、たかって引きずりおろして、叩いてしまうのね。絵描きの嫉妬は怖いからね」(186頁。ボールド体強調は引用者)。
 フジタは、ガンさんが伝えた「フジタ追放」が、日本の才無き画家たちの嫉妬心が「民主主義」という仮面をかぶった攻撃であり、切なくなるほど懸命なフジタ攻撃であることを見抜いていたのである。
 フジタと同時代人である三木清(1897-1945年)をめぐる風評政治にも、フジタと同様の政治的な作為がしぶとく働いているのではなかろうか。
 本稿筆者は三木清に関する或る著作を刊行したことがある。その出来たての本を出版社に受け取りにいくと、なぜか、見知らぬ婦人が数人、奥の席を陣取っている。こちらから自己紹介しても、ご婦人たちは名乗らない。ご婦人たちは三木清に関する何やら暗い噂話みたいことを不明瞭に話して、立ち去っていった。不可解な経験である。このような噂政治(rumor politics)の波状的な垂れ流しがフジタにも行われていないだろうか。

[三木清の嫉妬論] パスカルを精読した三木清は『人生論ノート』で「嫉妬について」というエッセイを書いた。厳しい人間省察のエッセイである。
 三木清は嫉妬についてつぎのように書く。《人間の本性は悪ではないか》と疑わせることがあるとすれば、それは人間の嫉妬心である。嫉妬心は執拗で狡猾である。日ごろ、ものを深く考えない人間も、嫉妬に囚われるや、驚くほど深く持続的に嫉妬心を晴らすために、策略を考える。自分の嫉妬心を隠蔽し、相手を徹底的に打ちのめすには、どうしたらよいか、執念深く考える、というのである。
 本稿筆者は、三木清のその考察を継承して、《ああ、いま自分は嫉妬心に囚われているな、醜いぞ》と自省し嫉妬心を抑制する者がいるとすれば、佛はそのひとに微笑みかけるだろうと思う。

[東独の傑作な絵画を観る] 「美術と民主主義」で思い出すのが、かつて1986年秋、崩壊3年前の東ドイツ=「ドイツ民主共和国」を訪問したときのことである。東ベルリンに大きな美術館があった。
 その中の大きなホールには、古代ギリシャの神々の立像が円形に陳列されている。私のそばにいた美術館の館員に、「これらの彫刻はギリシャから寄贈されたものですか」と尋ねたら、苦笑いをして首を横に振った。
 つぎのホールには、ヨーロッパ中世から近現代への順序で、油絵が陳列されてある。その最後のコーナーに陳列してある、第2次世界大戦以後の東ドイツの画家の絵に眼を転ずると、愕然とした。《よく恥ずかしくもなくこのような絵を飾れるなあ》と、観ているこちらが赤面し嘆息がでるほど、愚作、珍作の陳列である。「民主主義的に優秀な画家の画業」である。ガンさんはこれをみたことがあったであろうか。

[戦犯画家リストの政治的恣意性] 本書の著者、富田はつぎのような決定的に重要な事実を指摘する。
「日本美術協会の『[戦犯画家の]リスト』には、横山大観、児玉希望、藤田嗣治、中村研一、鶴田吾郎、長谷川春子、中村直人、川畑龍子という画家の名がある。[しかし]佐藤敬、猪熊弦一郎、脇田和、中西利雄といった、戦争画で中心的に活躍した新制作派協会の著名作家はきれいに除外されている」(106頁)。
 きれいに除外されている画家は「民主的な画家」であったのではなかろうか。

[フジタ像のコペルニクス的旋回] こうして、「日本美術会」が作成した「戦犯画家リスト」は、きわめて政治的作為で恣意的に作成したものであることが判明する。ところが、このリストにあげられた者で追放を告げられたのは、結局、フジタひとりであった(同上頁)。
 この事実が、「戦犯画家フジタ」という歪んだフジタ像の源泉である。この虚偽の原像を再生産してきたのが、基本的に、戦後日本のフジタ像であろう。戦犯画家フジタ像は政治的捏造である。この点を解明した本書は、《フジタ像のコペルニクス的旋回》をもたらした画期的労作である。フジタに関心のあるひとびとに、この労作を繙くように薦めたいと思う。

[大観の富士龍画] 本書が指摘するように、「リスト」にあげられた横山大観は、戦場を直接には描かなかった。しかし、日本国の象徴・富士山の頂上近くに垂れ込める灰色の雲から、身を捩(よじ)り立ち登る巨龍の姿を日本画を大観は描いた。むしろ凡百の戦争画より、音も無く聳立してくる日本の戦意を如実に描写した。本稿筆者は、この絵を横山大観展で観たことがある。無論、それは戦争画とは規定されていなかった。

[戦意高揚画を描けば、必ず戦犯画家になるのか] 米国国旗をベースにしたポスターが戦争中アメリカに掲示された。戦意高揚の絵である。その画家は戦争犯罪者であろうか。むろん、そんなことにはならない。戦犯は、戦勝国が敗戦国の戦争指導者や、その積極的な協力者を規定する。誰が戦犯か。その線引きは戦勝国の手中にある。
 フジタのモンマルトル時代の友人にあのピカソがいる。スペイン人民戦線の拠点、ゲルニカへの爆撃に抗議してピカソは壁画「ゲルニカ」を描いた。これも戦争画である。かつて1962年の名古屋で、その布地のレプリカを観たことがある。巨牛がスペイン・ファシズムの象徴として描かれていた。会場に同時に陳列された、その壁画を準備するために鉛筆で描いたデッサンの線の鋭さ、形を一瞬にして表現する力量に刮目した。この壁画でピカソは反ファシズムの戦いを宣揚した。
 ドラクロアはフジタの典型的模範である。フジタはパリにいるときに、ルーブルにあるドラクロアの絵を観たことであろう。屍を超えて自由の女神が大衆を導く絵である。屍に焦点を当てれば、残酷な絵である。「自由」は犠牲死を要求することができるのだろうか。その犠牲は「自爆テロ」とどう違うのか。フジタの戦争画を評価するとき、その評価基準は何か。その基準について深い再考が不可欠な時代に、わたしたちは生きていないだろうか。

[二つの『アッツ島玉砕』画] フジタの戦争犯罪を問う者は、フジタの戦争画の代表二作「アッツ島玉砕」(1943年)と「サイパン島同胞臣節を全す」(1945年)を引き合いにだす。両方の絵とも、米国が日本国に永久に貸与するというかたちで日本にある。
 著者は、フジタの「アッツ島玉砕」画には二種類あるという。そのうちの一つが近代西洋美術館がアメリカから借りているものである。本稿筆者もかつてこの方をみたことがある。
「腕が鳴って」仕方がないフジタは、創造的衝動に突き動かされて、この絵を描いた。そこには、いままでのどの戦争画にもない光景が描かれている。薄靄が掛かったような戦場で、闘う者が雄叫びをあげているけれども、それが聞こえない静寂が画面を覆う。敵も味方も等しく戦いで倒れ死にゆく悲劇画である。
 戦時中、展示されたその絵を観て、思わず観客は合掌した。焼香した。花も活けられた。フジタはその絵の脇に直立不動で立って、合掌する人々に最敬礼する。フジタは、この絵には貴方たちの父親、兄弟が描かれています、という。この絵は戦争末期の日本を巡回し、米軍による空襲の最中の九州でも展示され、人々はその絵を観にいった。この絵は「戦意高揚」の絵ではなく、その主題は「鎮魂」であるという評価がある。傾聴すべき意見であろう。
 陸軍はこの絵を展示するのを渋ったけれども、この絵は、自己犠牲をいとわない精神を宣揚するものであると解釈して、展示することを渋々許可したという。

[もうひとつの「アッツ島玉砕」画] 本書著者によれば、フジタはもうひとつ、「アッツ島玉砕・軍神山崎部隊の奮戦」を書いた。それは戦中、靖国神社が発行し、東條英機が表紙題字を揮毫した画集『靖國之繪巻』に載った(1943年秋刊行の巻)。この絵を含むフジタ作品はすべて現在靖国神社のホームページでは黒塗りになっていて、観ることはできない状態になっているという(本書35頁)。
 これらの絵が掲載している雑誌の現物を観た本書著者は、「鬼のような顔面の日本兵は雄叫びをあげ、敵兵はやられるがままの断末魔の悲鳴をあげる」絵であると報告する(36頁)。その報告に従えば、フジタはそのような戦争権力迎合画も描いたことになる。著者はこの絵を「チャンバラ絵」と厳しく評価する。このような戦争画を描く側面もフジタにはあったのであろう。

[フジタの自己演出] フジタは自己宣伝の技を考案し実践した。「鎮魂画」と評価される「アッツ島玉砕」の脇に直立不動で立つパフォーマンスがその好例である。例の「おかっぱ」頭髪もそうである。
 パリに着いたばかりのフジタがすでにこのおかっぱ姿をしていたことが最近、栃木県宇都宮市で発見された。フジタが日本の友人に送った葉書でそのことが確認されている。「フジタ・おかっぱ」は、パリなどで絵はがきとなって売店(タバコ)で売られていた。
[自己表現の重要性] フジタは宣伝の重要性、PRの有効性を知っていたし、自発的にそれを実践したのである。映画「チャーチル」でも確認できるように、英米の政治家はスピーチの訓練をする。プレゼンテイションの重要性を知っているからである。この問題は政治家だけの問題ではない。「以心伝心」は主観主義的で無効である。

[『論語』の自己満足] 技があるだけでは評価されない。その技が注目されるように宣伝しなければ、その技はひとに知られることなく埋もれてしまう。この悲劇と無念をフジタはよく知っていた。知っているからこそ、その悲劇を回避するために、自分の才能がよく知られるように宣伝しなければならない。それを知り、かつ実行したのがフジタである。
 この機略を展開するフジタを「嫌らしい野心家」と決めつけることもできよう。しかし他方の、その機略の現実的有効性に気づかない者を何というべきであろうか。宣伝の重要性・有効性に気づいても、宣伝せずに埋もれてゆく者を「純粋無垢な芸術家」と褒めるのだろうか。しかし、知られることなく死んだ者を、後世の者は、その人、その作品をどのようして知ることができるのであろうか。「人、知らずして、慍(いか)らず」という静観主義の『論語』は、ここで行き詰まる。ぼたもちは、いつまで待っても、棚から落ちてこない。
 しかしながら、もう一つの「アッツ島玉砕」画はその機略の行き過ぎであろう。なぜ、フジタは「鎮魂」画の方の「アッツ島玉砕」だけに限定できなかったのであろうか。

[戦争末期の美大クーデタ] 本書は、隠されてきた戦中日本画壇史の裏面を描く。「美校クーデタ」である。戦争末期、1944年の初夏に、戦争画を書いてきた東京美術学校(美校)の教員たちを追放し、戦争画を書いてこなかった画家たちをその後任に当てた。反軍的・反文部省的な行為である。
 もう、日本は戦争に負ける。負けたとき、戦争画を描いた者の責任が問われるだろう。その事態を回避したい。そう考え準備する者たちがいたのである。先に紹介した、敗戦直後に抜け目なく「戦犯画家リスト」を作成したグループよりも先んじていたし、大胆不敵である。クーデタで後任者、小林古径・安井曾太郎・梅原龍三郎を推したのは、宮内省官僚の侯爵・細川護立である。その側面援助を、児島喜久雄・横山大観が担った。
[戦中日本の反東條戦線] 吉田茂は戦中、東條英機に警戒され睨まれる行動を密かに行っていたので、警察に拘留されたことがある。このような反東條グループの一環が「美校クーデタ」を展開した「細川グループ」ではなかろうか。戦時日本の支配層は、敗戦色濃くなると、事実上分裂していたのである。軍人・国民の玉砕をわきにみつつ、自分たちだけは敗戦後、うまく逃れようと密かに画策する者たちがいたのである。この画策は、皇族たちの必死な「国体護持」の実態の一環であろう。
[戦後準備への肩すかし] しかし、「アメリカは戦争画が生まれる必然性を知っている。もし戦争画を否定するならば、戦争そのものを否定しなければならないことも知っている」(本書198頁)から、敗戦後、進駐した米軍は戦争画家の責任を問わなかった。この米軍の判断を知ったとき、「細川グループ」は肩すかしを食らったと思ったであろうか。一方、戦後民主主義派は、党派的な「戦争画家リスト」を作成し、フジタ追放を画策した。その歪みが今日まで再生産されてきたのではなかろうか。

[南方派遣されたフジタ・宮本三郎・小磯良平] 1942年、戦後日本画壇の代表者となった宮本三郎・小磯良平はフジタとともに軍部に南方戦線に派遣された。フジタだけでなく、宮本も小磯も戦争画を描いたのである。宮本は、「マレーの虎」・山下奉文司令官(やました・ともゆき。1885-1946。マニラ軍事裁判で絞首刑)が英国軍のパーシバル司令官に向かって、「イエスか、ノーか」と迫る場面を描いた。それが「山下、パーシバル両司令官会見図」(1943年)という著名な戦争画である。宮本はその他、「シンガポール陥落」(1944年)など、多くの戦争画を描いた。
 小磯良平は戦後、端正なバレリーナの姿を描いたけれど、戦中、「ラバウル守護隊の奮戦」(1944年)や「無縁のガダルカナル島勇士なお闘ふ」(1944年)を描いた。
 つぎの展覧会は、フジタの戦争画だけでなく、宮本と小磯の戦争画も一緒に「フジタ・宮本・小磯展」として合同展示し、シンポジウム「戦争画とは何か」を開催したら、フジタがより正確に位置づけられるのではなかろうか。

[戦時戦争画と戦後戦争画の比較] 小林久美子は、ネットで公開されている論文「絵画と戦争Ⅱ」で、生徒たちに戦争画を観せ感想文を書かせた研究を報告している。フジタの戦争画「アッツ島玉砕」と丸木位里・俊の「沖縄戦の図」との比較で、生徒たちは意外な感想文を書いていることがネットで確かめられる。
 戦争画を描いた宮本三郎も丸木位里も、最晩年になると、深紅の薔薇の絵を沢山描いた。生命の最期の輝きであろうか。

[マッカーサー夫人とフジタ] 先に指摘したように、GHQは戦争画を描いた画家の戦争責任は問わなかった。フジタの場合もそうである。であるのみか、ダグラス・マッカーサー将軍の夫人、ジーン・マッカーサーは、フジタにクリスマス・カードを作ってほしいと頼み、フジタはその要望に見事に応えた。ジーンはフジタの講演「キュービズムについて」をGHQ教育センターで聴く会を催した。
[フジタのピカソ秘密の暴露] その会でフジタは、ピカソがキュービズム絵画を制作する秘密を実演してみせた。ボール箱を壊してボール箱の裏側も見えるように展示して、それを「写実」する。これがピカソ・キュービズム制作の実態である。フジタは、三次元をむりやり二次元で表現するというようなことはしないと、ピカソを批判した。その実演を観たジーン婦人たちはやんやの喝采した(本書206-212頁)。このエピソードも、日本画壇の要人の嫉妬心をいたく刺激したにちがいない。

[フジタの日本画壇へのメッセージ] フジタは1949年3月10日、羽田飛行場からアメリカに向けて日本を離れ、日本に戻ることはなかった。日本を去るにあたって、フジタはつぎのようなメッセージを残す。
《絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界的水準になってください》。
 このメッセージを裏返せば、フジタは《自分は絵だけを描いてきたし、描いてゆきたい。自分は日本の画家たちに親切に接してきた。自分は世界的水準の画家である》というメッセージとなる。才なき画家が聞けば、なんと傲慢な言いぐさかと聞こえよう。フジタは、そのような「裏聞き」をおもんぱかることなく、率直に自分の思いを語ったのである。

[フランク・シャーマンのフジタ支援] 本書は、フジタの離日までに、上記のフジタの離日メッセージが妥当するような、《一難去ってまた一難》と形容できるような、フジタへの波状攻撃を記述する。そのようなおぞましい状況下で、フジタの才能を正確に評価し、フジタから学び、フジタを支援したのが、フランク・シャーマンである。シャーマンは1945年、横須賀に上陸した。
 占領下日本の通貨円は外貨と兌換できなかった。パスポートやビザも容易には入手できなかった。その困難を突破したのがシャーマンである。結局、「米国がフジタを招待する」というダグラス・マッカーサーの提案で(本書228頁)、フジタは離日=渡米することができた。アメリカ・ニューヨークでの生活資金・就職先などの世話をシャーマンが行った。このフジタ救援は基本的には、日比谷GHQ本部でマッカーサーの副官バンカー大佐がシャーマンに与えたつぎのような任務の一環である。その任務とは、「日本の実力のあるアーティストたちを探し、彼らの力になること」(本書54頁)である。そのためにシャーマンには、当時の「凸版印刷所」にオフィスが設けられ、高額な給与を与えられた。

[フジタは死んではいない、生きている] シャーマンは来日以前にフジタをパリで偶然目撃したことのある。しかし彼が来日したとき、「フジタは空襲で死んだ」とか「原爆で死んだ」という噂が流れていた。マッカーサーもこの噂を聞いていた(本書227頁)。この事実に反する噂は、最初に誰が流したのであろうか。フジタはおそらくこの噂を耳にしたであろう。自分はこうして「生きている」のに「死んだ」と世間で噂されることはどのような経験であろうか。「フジタは死んだという噂」とあの「戦犯画家リスト作成」とは無関係であろうか。
 シャーマンがバンカー大佐に「フジタは生きているのでしょうか」と尋ねると、「生きている」と答えた。シャーマンが「フジタに会いたい」というと、シャーマンにバンカー大佐は、実はフジタは工兵部隊のもとで「日本の軍部が描かせた戦争画を集める仕事にフジタが従事している」と教える。
 シャーマンは1946年春に、東京の板橋区小竹町(現在は練馬区小竹町)に住んでいるフジタに会うことができた。

[下町の職人技に学ぶフジタ] フジタはシャーマンが頻繁に訪ねてくるようになると、彼を下街につれだした。「裁縫師・畳屋・マッチ箱のラベル貼り・ガラス屋・自転車屋・板金屋など」、ありとあらゆる職種の現場に案内し、それぞれの屋仕事ぶりを注意深く観察することを教えた。敗戦直後の日本の下街である。

[鍛冶職人に怒鳴られる] 本稿筆者が小学生低学年のときは、ちょうどその敗戦直後であった。北関東の地方都市にあった我が家の近所には、桶屋・下駄作り・鍛冶屋・表具屋・時計屋・自転車屋など、さまざまな職種の店が、表戸を開けて、仕事をしていた。仕事ぶりが道路からよく見えた。子供が近くでいたずらしていると、「こら-」と注意した。どこの子も我が子のように可愛がったのである。
 鍛冶屋の鞴(ふいご)がコークスの熱を赤から青白に上げてゆく「スーカ、スーカ」という音や、熱せられた鉄の固まりが次第に、斧、鎌、包丁などに変身してゆく過程が面白く、鍛冶屋の入口前でしゃがんで観ていた。
 あるとき鍛冶屋の前の道路で、農家の荷馬車の馬の馬蹄を張り替えることになった。鍛冶屋の親父さんは、そばで観ていた筆者に「小僧、危ないから、どけ」と怒鳴った。中学卒業が迫ってきたころ、鍛冶屋の親父さんは、「お子さんを弟子に欲しい」と母に頼みにきた。筆者はすでに高校進学を決めていた。親父さんのところに行って、「進学します」と告げると、「じゃあ、勉強で頑張れや」と苦笑交じりに応えた。

[アートの二重性] 絵画は美の表現である。そのためには美のイメージを明確に思い浮かべる「想像力」が不可欠である。しかし、それだけではない。その美を実際に表現する「技」が不可欠である。逆に優れた技がイメージを鮮明にする。アートとはこのような「美の想像力とその美を実現する技との重層的な相互規定(並進対称性)」をもつ。だから、英単語artやドイツ語単語Kunstには「美術・芸術」という意味と「技術・手腕」という意味の、二重の意味がある。
[乳白色の裏技] フジタがシャーマンに下街で見せたのは、多様な職業に担い手である職人それぞれが、いかなる技をもっているか、その技をいかに駆使しているかを実際に正確に観察し、それを身につけることが、美の表現にとって決定的に重要であることを知らせるためである。あの著名な「フジタの乳白色」の発明は、この真実に具体的な根拠をもっている。

[フジタの真実とは何か] フジタは自分が着るものを自分で制作した。料理もした。手仕事でフジタに無関係なものは、なにも存在しないのである。われわれには、フジタに学ぶことがある。職人を軽視し馬鹿にする芸術家がいるとすれば、その人は芸術家ではない。レオナルド・ダ・ヴィンチも多彩な技をもっていた。だからフジタの洗礼名はレオナール(=レオナルド)なのである。
 意図的に捏造されたフジタ風評に流されて、フジタを誹謗することは、もうやめなければならない。それは「フジタのため」というよりは、フジタに学ぶことによって、人間存在の豊かさの可能性を拡張するためである。本稿筆者は、歴史の検事や裁判官になるよりも、歴史の弁護士になりたいと希望している。(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture0714:181013〕