「『韓国強制併合100年』の旅」報告

 

8月22日、小田原近現代史講座では、豊島公会堂で同時に開催されている「韓国強制併合100年共同行動」日本実行委員会主催による「日韓市民共同宣言大会」に連帯して、この100年の歴史を振り返りながら、「共同宣言」を読み合いました。そして、私は26日に韓国に出発。

26日、『韓国併合100年』平和通信使に合流>

 実は私も共同代表の一人である「韓国併合100年市民ネットワーク」では韓国側パートナーの「韓日100年平和市民ネットワーク」(「韓国強制併合100年共同行動」韓国実行委員会の参加団体のひとつ)と協力して、8月14日から釜山に上陸し「平和通信使」の旅を続けていました。

29日まで15日間です! もちろん、途中参加も可でしたが、12人の方がフル参加! エラいっ! 私はとても体力が持ちませんし、そんな時間も無いため、最後の3日間だけ合流することにしたのです。

 ということで、26日の夜、水原の華城青少年修練院に到着。日本の『青年の家』のようなところだろうと思っていましたが、ずいぶんと規模が大きく、大きな建物が何棟もあり、同時にいろいろな団体が『研修』に使っていました。

 平和通信使の旅の中では25日~27日の午前中まで、ここで日韓市民平和キャンプの計画でしたから、私は最後の夜のレクリエーションを中心とするキャンドルナイトから参加したわけです。このキャンプの最終日の27日午前中は各分科会の報告をしてから、「共同市民憲章作り」をしました。

 

27日 利川の五重石塔返還運動シンポ>

 午後、バスで利川市に向かって出発。利川市庁舎(ものすごく立派な建物! ずいぶんとお金がかかっていそうだなぁ、と感嘆)の大きなホールで行われる「利川の五重石塔」返還運動の第一回国際シンポジウムを聞きました。この高麗時代の石塔は今、東京のホテルオークラの大倉集古館の庭にひっそりと佇んでいます。それは、朝鮮総督府に、当時の大倉集古館理事の坂谷芳郎がおねだり!?(ま、大倉男爵の指示ですが)した結果でした。

いただいた資料には、現在、韓国国立博物館が所蔵する坂谷理事と長谷川朝鮮総督との往復書簡などが載せられていました。「平壌停車場の七重石塔がほしいと大倉側は言っているが、これは人目につくのでまずいから、利川の石塔をあげるよ」というようなことが書かれていました。なんとも・・・

利川では20万人の市民のうち、10万9千人が返還要望署名をされたそうです。つまり、市民のほとんどが「朝鮮総督府が奪っていったこの石塔を返還してほしい」と署名した! わけです。7月21日にこの署名を持って・・・運ぶだけでも大変だったそうです・・・大倉集古館の理事長たちと話し合ったのですが、「五重塔は人類の文化遺産であり、私たちは100年来保存管理してきたから、今後もそうする」・・・つまり『返さないよ』・・・といったとか。

韓国側では「その石塔は千年来、生活の一部だった(※お寺の石塔だったのです)。それが、突然ある日、誰も知らないうちに利川市から消えた。東京の大倉集古館にあることを知ったのも最近だ」と反論したそうです。

菅首相が文化財の韓国への「お渡し」・・・「返還」と言わねばならないところですが・・・を約束したのですから、朝鮮総督府=日本政府が略奪したものは、返還すべきでしょう。でも、どうなるか? 「大倉集古館陳列品目録(朝鮮分)」という1918年の資料を見ると、なんと、362点もの李朝時代や高麗時代の仏像やら、お経、青磁白磁、銅鏡、石塔等々が並んでいるのです。これは1918年の分だけ!? しかも、お墓を暴いて持ち出したものも多いとか・・・

「『墓を暴く』というのは韓国では最低の行為です」と言われましたが、それは、日本だって、どこの国だって同じでしょう? いったい、38年間の植民地支配の中で、どれだけの文化財を、どんな手段で、日本は略奪してきたのでしょうか?

この集会の終わりのほうで、「日本から平和通信使の方々が見えていますので、皆様、お立ちください」と言われ、一行20人弱が立ちますと、大きな拍手が沸きました・・・略奪者たちの国の後裔としては冷や汗もの・・・

11月には東京でのシンポジウムが予定されているそうです。

28日~神勒寺>

シンポが終わり、利川から驪州(ヨジュ)の千年の古刹という神勒寺へ。本日はここの僧房に泊まります。韓国では今、「テンプル・ステイ」ということが流行しているそうです。お坊さんと一緒に修行したりする人もいるそうですけど、そこまでするかしないかは自由ということで・・・

ここは、李王朝創設者の李成桂が建てたそうです。李王家の氏寺というところでしょうか? だいたい、韓国のお寺は山か海のそばにあるそうですが、このお寺は南漢江のほとりにあり、風光明媚!

翌28日の朝食後、ご住職がお茶をふるまいながら、いろいろとお話しをしてくださいました。一番、印象に残ったお話は「日帝時代は総督府の命令で、独身であることが当然の韓国のお寺の僧たちは結婚を強制されました。どんなに強制されても妻帯しない僧は最下層に置かれ差別されました。植民地から解放されて、独身の僧が当然という元に戻るまで30年かかりました。」ということです。

そこまでやったか!? です・・・結婚するつもりの無い男性(女性だって)に結婚を強制する、とは・・・なんと気持ちの悪い。

ご住職は「私は環境運動を行っていまして、10年になります。皆さんもそうでしょうが、社会運動をする市民はマイナーです。しかし、皆さんは『地の塩』です」とも言われました。「日本の仏教会の方たちもここに見え『共に協力していこう』という石碑も立っていますよ」とも。

<明成皇后生家・記念館>

 ご住職とのお話の後、日本語のガイドの方にお寺の中を案内いただいてから神勒寺を出発。それから、1895年10月8日、日本公使・三浦梧楼の配下、日本軍・民間人に虐殺された王后閔氏(明成皇后)の生家を訪問。

彼女が8歳まで暮らした家を復元したものです(母屋だけは残っていたようですが)。ここでも過分な・・・としか思えないんですけど・・・、歓迎を受けました。館長さんの挨拶の後、驪州郡の郡長さん、議会議長さん、議員さんが歓迎の挨拶をしてくださったのです。こちらは、府上・平和通信使実行委員会事務局長がご挨拶。

そして、明成皇后記念館を見学。中庭のようなところで、小学生が先生のお話をまじめに聞いていました。館内には、明成皇后が日本刀で惨殺される場面の大きな絵が・・・全く、心が痛いことでした。その後、明成皇后が8歳から結婚するまで住んでいられた感古堂(ソウルにあったものを移築)に招かれ、茶菓をふるまわれました。韓国の伝統菓子はとても上品で、韓国の甘いお茶に良く合いました!

その上、横笛の演奏を聞かせていただき、さらには横笛の演奏をバックに書家が『日韓連帯の書』(たぶん!? ハングルは読めませんので)を書いて、府上事務局長に渡してくださいました。ここでKBSのインタビューを受けました。10分ぐらいだったかな? 最後の質問に「これから、どういうことをしますか?」と聞かれました。

「私は、東京の社会科教員でしたが、扶桑社歴史教科書を批判して生徒に教えたために、石原慎太郎が支配する東京都教育委員会によって不当に免職されました。それで、今、撤回裁判を闘いながら、日本の近現代史を学校で学んだことの無い市民たちに市民講座の講師として日本が朝鮮半島でしてきたことを話しています。

 帰ったら、この明成皇后の悲劇や日本の朝鮮侵略の実態をさらに日本の市民たちに伝えていきます」と答えておきました。でも、韓国の方々は本当にどこでも、とても私たちを歓待してくださるので、とってもマイナーな市民である私たちに、それだけの価値があるだろうかと心苦しい思いが・・・

朝鮮日報には以下のような記事が出ていました。【朝鮮日報 2010/08/26】
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日韓併合100年:「日本平和通信使」が来韓し謝罪へ
 日本による韓国併合から100年を迎えるのを機に、日本の市民団体のメンバーや知識人など約20人からなる「日本平和通信使」が、今月27-28日に京畿道驪州郡と利川市を訪れ、韓国併合について謝罪する。
  「日本平和通信使」の今回の来韓は、「韓国併合100年市民ネットワーク」が主催し、明成皇后(日本での呼称:閔妃〈びんぴ〉)記念事業会、神勒寺、利川五重石塔返還委員会が主管する。平和通信使は27日、日本統治時代に日本へ持ち出された利川五重石塔の、韓国への返還を求めるシンポジウムに出席し、また28日朝には、驪州郡の神勒寺で供養を行うとともに、明成皇后の生家を訪れ参拝する予定。
  利川五重石塔返還委員会の関係者は、「日本平和通信使は、侵略や強制的な併合により、韓国人に苦痛を与えたことを謝罪し、新たな韓日関係や北東アジアの平和に向けた取り組みをしていく方針だ」と語った。          孫章薫(ソン・ジャンフン)記者

<ナヌムの家>

 明成皇后生家を出て、広州のナヌムの家へ。村山一兵さんにご案内いただきました。私は、1年に4回その日は1日、相互に争議支援をする「東京けんり総行動」(代表:東京全労協議長)に東京都学校ユニオンとして参加していますが、そこで見かける神奈川シティユニオンの村山氏の息子さんです。「お父さんとあんまり似ていませんね」と言ったら「みんなにそう言われます」と笑っていました。でも「この親にしてこの子あり!」・・・もちろん、褒めていますから(笑)。

 入って直ぐの所に、「日本軍性奴隷」被害者ハルモニの、悲しみの中にも優しさを感じさせる大きな上半身だけのブロンズ像があり、下半身は地面に埋まっています・・・日本軍に奪われた絶対に取り戻しえない人生の象徴でしょうか?

 そしてその傍に小さなお墓・・・ここで亡くなられたハルモニの・・・歴史館見学の後、4人のハルモニたちと少しだけ(この後、ソウルでの予定が迫り)お話しました。現在、8人の方が暮らしていらっしゃいますが、入院したり、体調が悪く出てこられないハルモニも多いのです。もう残された時間は少ないのに・・・

 ここで、私が住んでいる千葉県の我孫子市で「あびこ平和ネット」として「慰安婦意見書」を採択できたことをご報告させていただきました。村山さんが、あとでハングルに翻訳してナヌムの家の方々に配ると約束してくれました!

<ソウル 成均館大学の韓日市民フォーラム「東アジアの平和と市民自治」>

 ハルモニたちに申し訳ないぐらいナヌムの家にいる時間がとても少なかったのは、28日15:00~ソウル成均館大学600周年記念館で予定されている、このフォーラム(※27日から同所で行われている『韓日市民共同宣言大会』国際学術大会の一部)に参加する予定だったからです。なにしろ、討論参加者に予定されている二人が平和通信使一行にいるのですから。

 ギリギリ間に合い「東アジアの平和のための地域の市民運動の課題」について川本幸立・千葉県議(「韓国併合100年市民ネット」会員)とイ・ギホ韓神大学教授の発表を聞きました。川本さんは最初「ローカル・パーティーで私が所属する『市民ネットワーク』は『市民自治』社会をめざして発足後、約20年を経過する」と言われました。

 通訳者の翻訳を聞いた韓国の参加者から「市民自治社会が20年も実現しているとは羨ましい」という声が上がりましたので、通訳の問題かどうか分かりませんが、ずいぶん、誤解されたようです(苦笑)。

 イ教授の発表の中心は「国家パラダイムから地域(村)パラダイムへ」ということで、なかなかに興味深いものでした。

 川本さんも「国境を越えた日常的な市民・団体レベルでの交流が求められる。『国家利益』の衝突が、戦争にまでに広がることを打ち消す国境を越えた市民のネットワークである」と言われ、年1回の交流会を定期的に開催し、「まちづくり、議会改革・選挙制度、政治システム、平和などの分科会」を持つことを提唱されました。

 ただ、討論参加者の日本人のお一人は「日本が永世中立国になる運動をしましょう」と、「かなり安易な思いつき」としか思えない発言をなさったり、「walk9」を主催なさった方で、若者たちによる韓国での100日の謝罪の旅を終え、「初めは韓国の青年たちと険悪になったりしながらも、最後は強い絆を結べた」「10月1日から江華島で『祭り』をやりますので来てください」という発言には疑問を感じました。

 特に後者については、この会のMLで一人の若者が「元慰安婦のハルモニに『ごめんなさい』と僕が謝ったら『いいよ。これからは、もうしないでね』といわれたので『はい』と答えました。こうやっていけばいいので、もう、それ以上(国家補償)は必要ないと思います」というような、とんでもなく誤った意見が出ており、それに対してただの一人も異議を唱える若者はいなかった事実が存在しますので・・・

 確かに「国家パラダイムから地域(村)パラダイムへ」「国境を越えた日常的な市民・団体レベルでの交流」には大賛成です。韓国に来て、どんなに知らなかったことを教えられること多かったか・・・

しかし、日本軍性奴隷被害、強制徴用被害、女子挺身隊被害、等々、日本帝国主義敗北後65年経っても、まだ、清算されない植民地主義の国家責任が大きく残っている時に、日本人が日本国という足元で、その清算の努力を先ず行うのではなく、「地域(村)パラダイム」「市民・団体レベルでの交流」をしていくのでは、韓国の人たちの寛容・親切・優しさにつけこむことになりませんか?

29日、強制併合100年 韓日市民共同宣言大会 閉幕式>

 平和通信使の一行はフェリーの運行の関係で、この日朝、釜山に向かい帰国の途につきました。私ともう一人の友人は途中参加のために飛行機で来ましたので、30日に帰国予定ですから、この大会に参加できました。

でも、これは午後2時からなので、まず、西大門刑務所歴史館で行われている特別展(『市民共同宣言』韓国実行委員会によって8月12日から開催されている)を参観。これは「巨大な監獄 植民地に生きる」というテーマです。

しっかし、しかし、凄まじい豪雨となったのです。しかし、出掛けにはとても小降りで、もう直ぐやみそうな気がしました・・・何の根拠も無かったんですけど・・・それで荷物に入れていたレインコートは「要らないわよね」とそのまま、荷物に入れておいたのです。ところが、バスに乗った直ぐあとから、スコールのような大雨。私のレインコートは宿舎の中で本当の『宝の持ち腐れ』と成り果てました・・・トホホ・・・

ですから、バスを降りても行列で、豪雨に打たれながら建物になかなか入れなかったときには「早く監獄に入りたいよ~」(笑)・・・でも、やっと入れて…日本人にはため息が出るばかりの展示を見ました。日本語説明が無かったのは残念でしたが、写真ですから、確かに「言葉は要らない」ものも多かったです。

その後は、「国恥日行事『強制併合条約締結地の標石除幕式』」に参加。相変わらず、豪雨はやまず・・・一人の韓国実行委員会の方が「国を失った日を恥じて天が泣いています」と・・・

南山麓、現在、ソウルアニメーションセンターの場所が朝鮮統監府=朝鮮総督府の庁舎が建っていたところだそうで、先ず、そこでバスを降りました。でも、あまりの豪雨ですから、直ぐバスに乗り、現在はソウルユースホステル入り口の公園になっている所、元統監官邸=元総督官邸に行きました。そこには今まで、そこが韓国併合条約に強制的に調印させた場所であることを示す何も無かったのです。

そこで、「韓国併合100年 共同行動」韓国実行委員会が中心となって、そこに「標石=碑」を置くことにし、その除幕式が行われたのです。「標石の除幕式式次第は大韓民国臨時政府が1926年8月29日、上海で挙行した国恥記念行事式を参考にして再現した」ものだそうです(※独立新聞 1926年9月3日付け)。

経過報告の中で「ソウル市に、この標石=碑を立ててほしいと要請しましたが、ソウル市では委員会を作り審議した結果、『恥ずかしい歴史を記念するようなことに、お金は出せない』(だったと思います)ということで否決されたのは、残念です。二度と恥ずかしい歴史を繰り返さないための誓いの場としてこそ、恥ずかしくても、この標石=碑を建てねばならないのです」と言われました。

なるほど・・・でも、ソウル市議会の議長さん(たぶん)は、祝辞を述べられたと思いますので、どのくらいの票差だったのか、知りたい気がします。相変わらず豪雨は続き「直ぐ近く」ということですが、乃木神社跡の見学は中止。

<午後2時~『市民共同宣言大会』閉幕式、「韓日100年平和市民ネットワーク」

顧問の柳鍾玄(ユ・ジョンヒョン)先生に再会>

 柳鍾玄先生は外交官で韓国横浜総領事やアフリカの国の大使などを歴任されました。定年退官後も韓国外交部(外務省)から「その経験を生かしてほしい」と…何しろ、韓国語・フランス語・日本語・英語に堪能な方で朝鮮通信使の歴史にも造詣が深い方ですので…いろいろなことを頼まれてたいへん多忙な方ですが、「韓日100年平和市民ネットワーク」という市民団体の顧問も引き受け、私の『免職』撤回裁判の控訴審のために、「韓日100年平和市民ネットワーク」としての意見書を取りまとめるのに尽力してくださった、私の大恩人です。

 ちっとも偉ぶったところがなく気さくで優しい方で、私が今回の平和通信使に最後の3日間だけですが参加し、29日は成均大学の『市民共同宣言大会』閉幕式に参加するとメールで伝えましたら、「その時だけは予定が入っていませんから、私も参加しましょう」といわれ、本当に久しぶりにお会いすることができました!

 この閉幕式の内容については以下のブログを見てください。

http://nikkan2010.exblog.jp/

 最後に「被害証言者と支援者は舞台に立ってください」という司会者に促されて被害者とその支援の方たち・・・日本軍「慰安婦」のハルモニたち(昨日お会いした朴玉善さんも来ていらっしゃいました)、強制動員被害の方々、サハリン残留者の支援の会の方々(この日はサハリンでも連帯集会が開かれています)、関東大震災朝鮮人虐殺被害者遺族の方たち、(在日)差別と闘う方たちが舞台いっぱいに立たれました。

 その時、柳先生が「増田さんは最新の『清算されない植民地主義の被害者』なんですから、舞台に立ったら?」といわれました。確かに!? しかし、舞台に立つのは遠慮しました(笑)。

 解散後、成均大学の食堂かどこかで交流の食事が用意されている、ということでしたが、柳先生の案内で私は友人と共に小さな韓国食堂(というのか、居酒屋かな?)に連れていっていただきました。お料理もマッコリも、とっても美味しかったです。実は私以外の方は「アルコールは苦手」ということで、私一人でマッコリ一瓶を飲んでしまったよ~な気が(笑)・・・

 食事後、柳先生が「腹ごなしにあなた方の宿舎近くまで歩きましょう」ということで、李瞬臣像のある大通りを歩き、世宗大王像、新しく完成しライトアップされている光化門を見学しました。ニュースで「李瞬臣記念館、世宗大王記念館ができた」と聞いた覚えがありますが、それは、この大通りの下、つまり地下にあるそうです。

 歩きながら聴いた柳先生のお話では「私は日本が敗戦した年には12歳でしたが、『韓国という国があった』ということを知りませんでした。年の離れた兄は知っていたようですけど」ということが一番、印象に残りました。「えーっ?」と私は驚き「ご家族の中で、そういうことは話されなかったんですか?」と質問したら「ええ、なかったですねえ」といわれました。

30日、最終日、江華島へ>

本日は、いよいよ友人(ハングルを学習中)と二人だけです。飛行機の時間が5時半なので3時半には仁川空港に着かなくてはならないとしても、2時半くらいまでは時間があります。「日本のアジア大陸侵略の第一歩の地、江華島に行きましょう!」と、まとまりました。

宿舎から、江華島へのバスが出ているというシンチェン(確か、こういったと思う)までは、うまくタクシーも拾えて行けました。ところがところが・・・そこではバス停らしいものが見えません。

ウロウロとしていたところに、向かい側から通りかかった若者(手に大きな荷物を持っていました)に友人が一生懸命、韓国語で質問しましたら、なんと!? 「20日から江華島行きのバス停は別の場所に移った」というのです。私たちが「エーっ!?」と、真っ青になったのでしょう。その若者はかなり遠かったんですのに、重い荷物を持ちながら、自分の目的地とは正反対の方向のバス停まで、私たちを連れて行ってくれたのです。
 もう、本当に「カムサハムニダ! カムサハムニダ! カムサハムニダ!」で、思わずその若者に合掌していました。韓国の人々は親切で優しい方が多いですけど・・・「ここまで外国人に親切にできる日本の若者はいるかしら?」と友人と二人、感嘆しきりでした。
 そして、無事に江華島に到着。歴史館まではタクシーで直ぐでした。歴史館は見ごたえがありました。土器や石器は日本のものと本当に良く似ています、といいますか・・・それこそ、「国」というもののなかった時代、人々はごく自然に海という便利な通路を行きかっていたんですね!

ただ、江華島事件などは、最後にとても小さな扱いでした。もう少し、詳しくてもいいのではないか? と思ったのですが・・・
 この歴史館の受付の女性もとても親切な方で、館を出たら、あらかじめ呼んでくださっていたタクシーが待っていました! でも、「日本語のできる運転手さんは江華島にはいない」ということで、ちょっと困ったな、と思いました。 
 でも、運転手さんが、とっても「チャッカダ!」・・・「親切」という韓国語を覚えました!・・・「エイコさん」という鹿児島出身の日本人女性がボランティアで電話による日本語ガイドをしてくださっているということで、ジェスチャー&友人の韓国語では通じないところは、直ぐエイコさんに電話して、ガイドをしてくれたのです。エイコさんも常に携帯を手に持っていなくてはならず、大変だったでしょう(笑)。
 それで、運転手さんが、草芝鎮(チョジジン)そばの韓国で一番古いお寺、確か西暦391年だかに創建されたという、傳燈寺に案内してくれました。冥府殿とか薬師殿とか梵鐘など、ここも、とっても見ごたえがありました! 私はお寺がとても好きなので・・・こういう言い方は信仰者から見れば、ちょっと不謹慎かもしれませんが・・・何か、懐かしいような気持ちになり、心安らぎます。
 曹さんという運転手さんはタクシーを運転しながらCDに合わせて歌を口ずさまれ、それが本当にお上手なので、思わず拍手をしたりしていましたら、帰りに友人と私に、「記念に」と言って韓国の歌手の方のCDを一枚ずつ、くれました。
 そして、念願の草芝鎮! 日本帝国主義のアジア大陸侵略の第一歩の地・・・勝海舟のいった「日中韓の連合」や、孫文のいう「『西洋覇道の犬』とならず『東洋王道の牙城』」となる道を日本が選んでいたら、世界の歴史は大きく変わっていたのに・・・を見て、草芝大橋から無事に仁川空港に到着し、予定通りに成田に帰り着きました! 

                                   オシマイ

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/

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