「ウクライナ・ゲート」と題する投稿の第四弾である。ここでのタイトルと同名の拙著が10月にも社会評論社から刊行される。今回は、この拙著の終章でとりあげている「全体主義的民主主義」について警鐘を鳴らしたい。
2014年8月末、東部への武力介入を順調に進めてきたウクライナ政府は、親ロシア派勢力の巻き返しに直面し、同勢力へのロシア軍の支援を声高に言い募るようになっている。以前から、ロシア軍による支援が問題視されてきたが、確たる証拠は示されてこなかった。今回の出来事にしても、ロシアからの義勇兵が1000人規模でウクライナ東部に入ったのは事実かもしれないが、それがどうして問題なのか、筆者にはまったく理解できない。これを問題にするのであれば、その前に、米国やポーランドの民間軍事会社(Private Military Companies, PMC)による支援や他国からの傭兵や義勇兵の実態を明らかにすべきではないか。さらに、ナチスおよび第三帝国の標章、ハーケンクロイツに似た旗を翻してウクライナ東部で親ロシア派と戦っている超過激なナショナリスト集団、「ライトセクター」の化けの皮をはがすべきだろう。こんな連中を使って、内戦を戦っているウクライナ政府のどこに正義があるというのだろうか。そして何よりもまず、早期に停戦を実施しようとしないウクライナ政府のポロシェンコ大統領を糾弾すべきであろう。彼は、10月の議会選を控えて、何としても選挙に勝利するために、内戦で戦果を挙げることに躍起になっている。そのために、彼は多数の国民を殺戮することを厭わないのだ。そうした事情を知りつつ、米国はポロシェンコを支援し、EU諸国もそれを追従している。
マレーシア機の撃墜にしても、親ロシア派がロシア製のミサイルを使って行ったという確証はいまだ存在しない。むしろ、最近では、ウクライナ政府の仕業との見方が強まっている。7月21日、ロシア参謀本部の作戦総局長のアンドレイ・カルタポロフ中将が行ったブリーフィングでは、ウクライナ空軍のSu-25がマレーシア機と3~5km離れて飛行しており、Su-25は射程12kmの空対空ミサイルR-60を装備しているから、これによって撃墜可能であるとの見方が示された。加えて、元ルフトハンザの操縦士ピーター・ハイセンコの分析によると、残骸の一部であるコックピット近くには口径30mmの機関砲によるとみられる貫通痕が多数、存在することから、これもウクライナ空軍機による攻撃を示唆しているという。優れたジャーナリストであるロバート・パリーも、米国の諜報機関の分析家は実は、マレーシア機撃墜の責任がロシア側にあるのではなく、ウクライナ政府にあることを認めていると伝えている(http://consortiumnews.com/2014/08/03)。南米からロシアへの帰途にあったプーチンを乗せた航空機を撃墜するために、防空ミサイル、ブークをもつウクライナの地上部隊と戦闘機が共謀して作戦にあたっていた可能性もあるという。ケリー国務長官らが親ロシア派によるブーク発射が撃墜の直接の原因だとする説には何の根拠もないというのである。
ウクライナの内戦報道に接するとき、はるか以前にあった学生紛争が想起される。筆者はまだ中学生程度の年齢であったが、それでもデモの映像が学生の側から映したものか、それとも警官隊の背後から映したものかの違いに気づいていた。この立場の違いにマスメディアは敏感でなければならない。さしずめ、政府に守られる形で報道しつづけているのが日欧米のマスメディアであり、ウクライナ東部の人々=学生たちの惨状をあえて報道しようともしない。避難民の報道もない。学生たちの側からの報道と言えば、ロシアのマスメディアくらいしか存在しないのだ。
「世界の民主化」を標榜するネオコンの立場に反論できないのか、世界規模のマスメディアはネオコンの主張に屈しているかにみえる。その結果、「世界の民主化」を実現するためには何をしてもかまわないかのような状況に至っている。それは、民主化に逆行するかにみえる動きを糾弾し、暴力によって抑え込むことさえ看過している。これでは、「全体主義的民主主義」が跋扈することにならないのだろうか。
筆者がこの言葉を知ったのは、フランスの日刊紙「フィガロ」に1999年7月24日付で掲載された、ロシアの学者、アレクサンドル・ジノビエフのインタビューを再録したロシア語の新聞を読んだときのことである(「独立新聞」2014年8月14日)。ジノビエフはすでに故人だが、このインタビューのなかで、資本が世界を席捲し、資本の集中化によって国家や個人の自由をも脅かすまでになり、こうした資本を握る一部の人間がイデオロギー上の敵のいなくなった世界で、民主主義を喧伝し、彼らにとって都合のいい資本の論理に組み伏せようとしていると指摘している。
この全体主義的民主主義は、ソ連を崩壊させるにあたって、ソ連を構成するナショナリズムに働きかけ、その連邦を分離させることによって弱体化させたわけだが、ウクライナについても、ナショナリズムを喚起することで、ウクライナを事実上の解体にまで至らせたことになる。まさに全体主義的であるからこそ、世界中に影響力をもつ巨大マスメディアはこの全体主義的民主主義を批判しようとしない。それどころか、民主的に選ばれた大統領(ヤヌコヴィッチ)を武力で追放しても、その行為を「民衆」の民主化のうねりの結果として正当化したのである。しかも、この全体主義的民主主義は「植民地主義的民主主義」(colonial democracy)であり、民主化した国を資本の力で手なずけ、搾取する。民営化といった美名のもとで、外国資本が国内の有力産業を支配下に置くのだ。
西洋で発展した民主主義はそもそも全体主義と親和的である点に注意しなければならない。西洋の共同体では、成員の同質性を前提とし、異質な者を排除するところに成り立つ民主主義が発展したが、それは同質性を前提とする点で全体主義と対立しないのだ。フーコーのいう「牧人型権力」においては、すべての者が告白せねばならず、そのことによって自由な主体が生まれる。つまり、民主主義は牧人型権力に由来すると考えられる。これに対して、自由主義は、いわば、告白しない自由にかかわっているのであって、それはキリスト教からは決して出現しない。重要なことは、キリスト教的共同体にあっては、個人がことごとく救いを求めることが不可欠の条件となっており、ゆえに、牧人型権力において牧人の権力はすべての個人に、彼が救われるために全力を尽くすことを強制する権威を備えていることになる点である。つまり、個としての人間は最初からある種の共同体に内属する者として想定され、その共同体の諸制度がもたらす規制のなかであくまで受動的に獲得する自己を「主体=私」と誤解するなかで、その「私」にあてはまることが万人にも妥当すると「独我論」に陥っている。民主主義はこの独我論に基づく同質性を前提とした制度にすぎない。独我論に陥っているからこそ、イスラム教を受容する、民主主義的でない別の共同体に対して、きわめて専横的な態度がとれるのだ。
実は、この点によく気づき、真正面から批判したのがプーチンであった。彼は2013年9月12日付The New York Times紙に興味深い意見を寄稿している。シリア政府への攻撃を決意していた米国への率直な批判が語られている。
「外国での国内紛争に軍事介入することが米国にとって普通のことになってしまっているのは驚くべきことである。それはアメリカの長期的利益となるのだろうか。私は疑わしいと思う。世界中の数百万の人々はアメリカを民主主義のモデルとしてではなく、「支持か反対か」というスローガンのもとで連携を取り繕いながら、野蛮な力にだけ頼っているモデルとみなしているのだ」と的確に指摘している。そのうえで、「動機が何であれ、人々に対して自らが例外であるとみなすよう促すのはきわめて危険である。大きな国も小さな国もあるし、豊かな国も貧しい国もあるし、長い民主主義の伝統をもつ国もあるし、民主主義への道半ばにある国もある。それらの国々の政策もまた異なっている。我々はすべて異なっているのだ。だが、我々が主の祝福を求めるときには、神が我々を平等におつくりになったことを忘れてはならない」と結んでいる。
プーチンは密かに米国が価値を置いてきたこと、つまり、このネーションの排他性(米国がもっとも民主的で世界のモデルなるべきとする独我論)をあえて批判してみせたのである。プーチンは、国家の世界システムの安定化へのこうした「メシア的」アプローチをシェアしていないことを明確に示し、他にも基本的な価値物があり、そうしたものを示すことができると主張したのである(「エクスペルト」2014年第35号)。このプーチンの勇気は称賛に値するが、これがオバマやネオコンを怒らせたことは間違いない。なぜなら、スノーデンと同じく、プーチンも本当のことを指摘してしまったからにほかならない。もっと言えば、オバマやネオコンにプーチンの哲学は理解できないだろう。独我論者は他人の意見に耳を傾けないからである。
民主主義は資本主義とも親和的であることにも注意を払う必要がある。民主主義も資本主義もともに「多数決」に従っている。そこにあるのは、基本的には善悪ではなく損得勘定に基づく投票行動なのである。資本主義は参加者を増やして、利益を求めて行動する人が多いほど活発になるから、多数を求める。それは、民主主義という多数を前提とした仕組みとよく呼応しているのだ。ただし、主権国家が基本的に優位に立ってきた近代国家においては、普通選挙といった形でより民主主義的な制度が整うまでには時間を要した。男女による普通選挙が実現したのは1919年のドイツにおいてであった。100年前に始まった第一次世界大戦に敗れた国家であったからこそ、国家主権の弱体化に乗じて普通選挙が実現できたのであろう。依然として覇権を握っていた英国は1918年に男子普通選挙を実施したにすぎない。つまり、民主主義の徹底化を推進することが自国の資本主義の発展や覇権の維持に役立つという意識はそう簡単には生まれない。
ただ、ソ連崩壊後の1989年の東欧での「自由・民主主義」の勝利が1991年のソ連崩壊で確信に変わり、自由や民主主義を世界中に広めるというグローバリゼーションが折からの情報技術の革新に助けられて推進されたわけである。しかし、この動きは経済格差の拡大という問題に加えて、リーマンショックに代表される金融危機を引き起こし、あっという間に国家資本主義へと形を変えている。国家資本主義を強力に推進する中国に対抗するためにも、国家は資本主義に積極的にコミットするようになっている。これは、ネオコンのいう自由や民主主義の否定を意味していない。むしろ、ネオコンは国家主導で、貿易自由化を通じて自国に有利な産業を世界中に売り込み、民主化要求を通じて米国中心の覇権グループに抱き込むことで利益につなげようとしているにすぎない。その意味で、ネオコンにとって、実際に民主化が進むかどうかよりも、独裁的で反米的な政権を転覆させ、自らの陣営に引き込むことが重要なのであって、その後、当該国が民主的であろうがあるまいが本当は、大きな関心はないのではないか。だからこそ、米国は独裁的なウズベキスタン、トルクメニスタンといった国に対しても自国の利益になると思えば、民主化要求など後回しにしてしまう。
このネオコンのメンタリティーはEUの人々にも広がっている。もちろん、日本人も同じだ。だが、民主主義は決して正義ではないことに気づかなければならない。真正面から民主主義を批判し、その問題点を理解し克服する努力が必要なのである。筆者は民主主義の徹底をめざすことにまで反対しようとは思わない。問題は民主主義のあるなしではなく、その徹底化がどこの国でもなされていないという現実にある。立候補する被選挙権者の多くが政治家の子弟という現実のどこに民主主義があるのか、よく考えてほしい。あるいは、シェイクスピアの悲劇「コリオレイナス」ないしその舞台を現代に置き換えて映画化した「英雄の証明」(2011年)をよく鑑賞して、民主主義と真摯に向き合ってほしい。
もう一つ、拙著『ウクライナ・ゲート』であまり説明できなかった論点について補足しておきたい。それは、正義をめぐる考察である。筆者は『腐敗の世界史』という本を近く上梓する予定だが、そこで腐敗の問題が「人間の安全保障」にかかわっていると論じている。その「はしがき」を紹介しよう。
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「腐敗は病気である」と考えてみよう。そのためには、何か症状があって、それを病気とみなす視角を必要とする。だが、どのような症状を病気とみなすかは時代によって異なるし、その症状自体も時代によって変化してしまう。そう考えると、腐敗そのものを定義するのは難しいと気づかされる。
腐敗を「病」として忌避・防止する対象とみなすことが困難なのは、何か頼みごとをする際、贈り物を差し出し、その返礼としてサービスを期待するという行為(贈与と返礼に基づく互酬的行為)が、人間がもっと動物的であった古代から、当たり前のこととして受け入れられてきたことに関係している。この互酬的関係は長く人間関係のなかで習慣化されてきた。とすれば、官僚に贈り物をして返礼を求めることが罪の対象とみなされるようになるまでには相当の時間が必要であったと想像されるだろう。
本書は、「腐敗とは何か」と問うのではなく、腐敗はどのようにして腐敗とみなされるようになるのかを問うことで、腐敗問題の本質に迫ることをねらいとしている。それは、「正義とは何か」を問うのではなく、「何が正しいとされていくのか」ないし「何が悪とされていくのか」を考えることを意味している。
たとえば、賄賂を意味するbribeという英語にしても、最初から賄賂を意味していたわけではない。メソポタミア時代からさかのぼって賄賂について考察してみると、そこに、人間、神、自然といったものの関係が変化するなかで、つまり、人間と自然、人間と神、人間と人間、神と自然といった関係が少しずつ変化するにつれて、それらの関係における互酬的関係もまた変容してきたことがわかる。互酬的関係が少しずつ変化するなかで、互酬的取引でありながらも一部の行為については刑事犯罪、すなわち腐敗とされるようになるのである。
実は、互酬そのものは、他者との交換を通じて、「敵」「味方」を区別する作用を伴っているから、人間の安全保障と深くかかわっている。その意味で、「腐敗は安全保障の問題である」と言っても決して間違いではない。なぜなら贈与者と返礼者の間の敵か味方かの区分がその後の贈与と返礼の実現に深くかかわり、その行為が安全に資すると判断したうえで行われるからである。それが、腐敗とみなされても、刑法犯罪として告発される可能性が少なければ、当時者の安全は確保できるから、腐敗行為が行われる。外部からみて腐敗とみなされる行為であっても、内部者の「腐敗せよ」との命令に従わざるをえない「強制された腐敗」が起きるのは、その腐敗行為者の内部における安全保障のためであると考えられる。「人間の安全保障」という観点から、腐敗を探究すれば、腐敗の本質に迫ることができるだろう。
極論すれば、現在、多くの国々で主張されている反腐敗への掛け声は、「国家主権」という、近代化の過程で生まれた、不可思議な概念をあくまでも守ろうとする人々による「運動」と理解すべきものなのだ。その運動によって何を守るかというと、近代的国家主権そのものである。何に腐敗を見出し、それから何を守ろうとするかは、実は人間の歴史において、異なっている。どんな腐敗を「悪」として防止するかは、あくまで安全保障の一環として、敵、味方を区別する世界観のもとで展開されている運動なのである。それは、「権力闘争」とみなすべきなのだ。
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こうした問題意識にたつと、ウクライナの問題は国家主権を民主主義や資本主義を通じて堅持し、既存の覇権を維持することで個人の利益拡大につなげようとする人々の闘争のように思えてくる。ここでは、正義が国家のための正義になりさがり、真実をのべてもスノーデンのようにお尋ね者にされてしまう。あるいは、プーチンのように、ネオコンから目の仇にされてしまう。
国家主権のもとで安閑とした日常生活を営む国民は国家の正義に疑問をはさみにくい。国家語という強制的手段を通じて、義務教育が施され、国家主権の危うさや虚妄は隠蔽される。他方で、主体なるものが各人に備わり、その各人が「主権者=国民」として国家に君臨するという神話に対する疑いの芽を摘み取っている。そこに、「主権者=国民」の自由な選択に基づく民主主義の不可侵性が完成する。そして、この神話のもとで、官僚が得をする。官僚が世界各国で跋扈し、腐敗の規準がますます官僚に有利なものになっていくのである。
主体を疑うことは国家を疑うことでもあるのだが、なかなかそこまで到達するのは難しい。たとえば、米国の哲学者、ローティは、自我を「中心のない偶然的な網目」にすぎないとしながら、つまり、主体を鋭く疑いながらも、その自分が自分の育った文化のなかからしか生じえない理不尽を引き受けて、あえて自文化中心主義を唱えた。その意味で、彼はそれを正当化しているわけではないから、異文化を認める。だが、彼は、「共同体の解釈学的閉鎖性を越えた観点を、交流の言語という共同体の内部から、外のものとして設定することが可能」ということを忘れている(三島憲一、「解釈と批判」『思想としての20世紀』)。
他方で、市民を信頼し、市民が置かれた政治性に目をつぶる思潮が広がっている。たとえば、東浩紀の議論を参考にしてみよう。彼によれば、陳情やロビイングといった政治活動は、人間のコミュニケーションへの信頼性や理性に立脚した熟議重視の政治を支えてきた要素であった。そうした要素が今後なくなることはないにしても、多数の市民が無意識に行動した結果、蓄積されたデータとしての無意識の集積(データベース)が重視されるようになれば、そうした政治活動の意義が相対的に低下するという(東、『一般意志2・0』)。
だが、多数の市民が無意識に行動した結果、蓄積されたデータとしての無意識の集積(データベース)に信を置く東の主張には、共同体を成り立たせている政治構造への問いかけがない。つまり東の主張は、「正義と不正義、社会的公正と社会的不公正に関する倫理的道義的判断と、生活形式、例えば儀礼の是非に関する判断とを区別する」にしても、両者の次元がどのように絡み合っているかを無視することにつながりかねない。市民だからという理由で、彼らを信頼することはできない。彼らは毎日の生活に忙しいのであって、生活形式にとらわれており、倫理的判断に出会うのは選挙といった必要に迫られてのことだからだ。
三島は、ウェーバーの『宗教社会学』の例をあげて、そこで、「ヨーロッパの合理性を描きつつも、それが例えばヨーロッパ以外の芸術がヨーロッパのそれよりも価値が低いといったことではまったくないことを、ただ合理性の違いであるだけのことを指摘する他者理解、つまり正義の問題に触れないならば他者の生活形式を尊重する態度と矛盾しないぎりぎりの境位が、模索されていた」と指摘している。こうした「ぎりぎりの境位」を探し、共同体内部にある相違や対立から目をそらすのではなく、それを乗り越える努力を是とする姿勢が求められている。こうした批判を研ぎ澄ますなかで、新しい「公」の領域が紡ぎだされるのではないか。そこに、官僚の役割が縮減された社会を実現できるはずだ。
こうした問題意識からすれば、ウクライナの問題は、「世界の民主化」を通じて生活形式に基づく判断と倫理的判断を混同させながら、全体主義的民主主義によって自らの利益と国家利益を結びつけようとするネオコンによる権力闘争として理解すべきことになる。
ネオコンにとっての最大の誤算は、こうした彼らの目論見がウクライナ危機を通じて白日の下にさらけ出されてしまったことではなかろうか。少なくとも筆者には、彼らの危険思想がより鮮明に理解できるようになった。そして、それはこの論考を読んでいる読者も同じであろう。専門家と称せられる輩や大多数のジャーナリストの厚顔無恥もわかっただろうし、こうした連中の言説がソーシャル・ネットワーク・サービスによって伝播し、多くの人々がすっかり騙されてしまう現状も露呈したのではないか。
問題は、こうした彼らの目論見をどう打ち砕くかにかかっている。当面、少しでも多くの人々にここまでのべてきたような事態を理解してもらうことが必要だと思う。その意味で、筆者の拙稿(『ウクライナ・ゲート』)が役に立つことを願ってやまない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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