『朝日新聞』(令和3年2021年9月29日)に「カナダ先住民学校の闇に衝撃」記事は伝える。1867年カナダ建国前から1996年まで存続した、先住民(アメリカインディアン)同化政策を目的とする先住民寄宿学校の敷地内で続々と先住民子供達の遺体が発見されていると言う。ある学校跡地では200体、別の学校跡地では750体等。「同化政策6千人死亡の推定も」と記事で強調されている。
寄宿学校の多くを運営していたカトリック教会の責任を問う声も高まっており、「フランシスコ教皇が直接カナダで謝罪すべきだ」と要求さえある。この記事は、アメリカの先住民寄宿学校につい一言も触れていない。
私=岩田は、この残虐な事実の責任をカトリック教会=非市民社会的ヒエラルキーに集中させるのは、市民社会の自己欺瞞であると考える。
ここで、エンゲルスの余りにも有名な論説「マジャール人の闘争」、1849年に1848年革命を論じた文章から肝腎の個所を引用する。
――ヘーゲルの言葉によれば、歴史の歩みによって無残にも踏みつぶされた一民族のこれらの名残り、これら衰亡した民族の残片は、つねに反革命の狂信的な担い手であり、そして、全く根絶されるか、民族性を奪いさられてしまうまでいつまでもそうなのである。……オーストリアでは、汎スラブ主義の南スラブ人がそうである。彼等は、一千年にわたってきわめて混乱した発展をとげて来た衰亡民族の残片にほかならない。――(『マルクス・エンゲルス全集』第6巻、大月書店、p.168)
――フランス・プロレタリアートの蜂起が勝利すれば、ただちにオーストリアのドイツ人とマジャール人は自由となって、スラブの未開人に対して血の報復をとげるであろう。そのとき勃発する全般的戦争がこのスラブの分離同盟を粉砕し、これらすべての強情な小民族をその名も残さず抹殺することになろう。次の世界戦争は、反動階級と諸王朝はもちろん、あらゆる反動的な諸民族をも地上から滅ぼしさることであろう。そしてこれもまた一つの進歩である。――(同上、p.172、強調は岩田)
――オーストリア内の大小すべての諸民族のうちで、……いまなお生命力をもっているものはわずかに三つ―つまりドイツ人、ポーランド人、マジャール人だけである。従って、これら三民族はいまや革命的である。その他すべての大小の諸種族や諸民族はさしあたり、世界を吹きまくる革命の嵐の中で滅びて行く使命をもっている。従って、彼等はいまや反革命的である。――(同上、p.163-4、強調は岩田)
ここで滅びて行く使命を宣告された諸民族は、チェコ人、スロヴァキア人、クロアチア人、ルテニア人、セルビア人、ブルガリア人、ルーマニア人、アルバニア人等である。
このような弱小民族蔑視感覚は、ひとりエンゲルスのものではなく、西欧資本主義の市民社会に共通していた。
これは、共産党宣言の次の文章を理性形ではなく、感性形で表現したものである。「ブルジョア階級は、……、産業の足もとから、民族的な土台を切りくずした。…。…。どんな未開な民族をも、文明のなかへ引き入れる。かれらの商品の安い価格は重砲隊であり、これを打ち出せば万里の長城も破壊され、…。かれらはすべての民族をして、もし滅亡したくないならば、ブルジョア階級の生産様式を採用せざるをえなくする。…。一言でいえば、ブルジョア階級は、かれら自身の姿に型どって世界を創造するのである。」(『マルクス エンゲルス 共産党宣言』、岩波文庫、pp.44-45)
私=岩田は、昭和58年・1983年の編著『ソ連・東欧経済事情』序文で、上記のエンゲルス論説を引用紹介し、70年後のレーニンがエンゲルスとは全く正反対の小民族論を説いている事実を指摘し、東欧マルクス主義が西欧マルクス主義をこの問題に関して乗り越えていた事を示唆していた。
しかしながら、昭和58年・1983年の私=岩田は、かかる「滅びて行く使命をもっている」種族論・民族論を確信している人々が1848年革命敗北後に新天地の北米大陸(アメリカとカナダ)へ移住して行った場合、族滅・ジェノサイドの最終局面におかれていたアメリカ・インディアン諸部族に対してとどめの一撃を加える事になったであろうと推量する事はなかった。
21世紀の今日、はっきり推測できる。スラブの未開人と言えども、コーカソイド=白色人種である。それでも「これらすべての強情な小民族をその名も残さず抹殺すること」を「これもまた一つの進歩である。」と確信する者達は、新天地で、モンゴロイド=黄色人種の無文字文化インディアン諸種族の存在が、自分達が農業経営者たる自立的土地所有者-ヨーロッパ本国では夢のまた夢に過ぎなかった社会的地位―になる際、最大の障害となった場合、容赦なく自分達の歴史的信念を実行したであろう、と。
カナダの寄宿学校の多くは、カトリック教会によって1867年前後から運営されて来たと言う。とすると、寄宿学校制度による同化政策は、それ以前のアメリカインディアンの追放、排除、分断、隔離、そして大量殺害、すなわち族滅=ジェノサイドを志向する白人植民者国家の政策を緩和したものであろう。1848年市民革命への反革命の中心たるカトリック教会は、新天地の北米においては、純粋な形で近代資本主義の市民社会を創造しようとする人々よりは先住民に対して相対的に温和であって、その表現形が先住民寄宿学校だったのかも知れない。
絶滅政策より同化政策が先住民にとって過酷度が低いとは言え、同化とはゆっくり進む絶滅であって、その過程で「カナダ先住民学校の闇」の如き悲劇が生じた。そこだけをとらえて、ローマ教皇に謝罪させるだけで、近代市民社会、すなわち自由、人権、私有、民主の形成にとって、先住民族滅が十分条件ではないにせよ、必要条件であったかも知れないと言う近代資本主義的市民社会自体の反省的自己認識に至っていない。残念である。
令和3年10月5日(火)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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