「ゾルゲ・尾崎事件」像の転換ー孫崎享著『日米開戦へのスパイ』(祥伝社、2017年)を読むー

著者: 内田弘 うちだひろし : 専修大学名誉教授
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 渡部富哉さんの本稿筆者へのメールや「ちきゅう座」での薦めで、孫崎享氏の近著『日米開戦へのスパイ―東條英機とゾルゲ事件―』(祥伝社、2017年)を読んだ。

[スリリングな好著]  本書は、まるでサスペンス映画を観ているような気持ちになる、スリリングな本である。そのような感想をいだきながら、読み進めるにつれて、残るページが少なくなってくるのが「惜しいなぁ」と思いつつ、一気に読んだ。
 本書の内容をあまり詳しく紹介すると、読者の楽しみを奪うことになると恐れる。ここでは、評者が本書に読み取った要点と若干のコメントを記す。拙稿をきっかけにして、本書を多くの方々に読んでいただきたいと思う。
 孫崎氏は、本書で以下のような諸点を明確に史実でもって指摘し、従来の「ゾルゲ・尾崎事件」についてのイメージを一新する。

[(1) ソ連東軍の西部戦線移動はジューコフ元帥の進言による] これまでの理解では、1941年9月6日の「帝国国策遂行要綱」で、基本的に日本軍は「北進(=対ソ連戦」せず「南進(=対英米蘭戦)」することが決定され、その情報をリヒャルト・ゾルゲがソ連へ同年10月4日に打電したことが決定的な情報となって、ソヴィエトの東軍はナチス軍と闘いのために西部戦線に移動し、ソヴィエト軍は、ナチス・ドイツ軍にかろうじて勝利することができた。この点にゾルゲの偉大な貢献があるという説が流布していた。
 しかし、孫崎氏によると、ゾルゲのその打電よりも47日も前の1941年8月18日に、ジューコフ元帥の進言で、ソヴィエト東軍は西部に移動することに決定していた。《なによりもモスクワを死守すること》がモスクワ中央にとっての最重要の課題となっていたのである。この判断では、スターリンも一致していた。
 加えて、日本軍15万人もの兵力を満洲に動員することになる「関東軍特殊演習」は1941年7月11日に決定され、同年8月24日までにソ連警戒態勢が完了する。したがって、この8月24日までは、「日本のソ連攻撃がない」という情報は間違いの可能性があったのである。
 さらに加えて、モスクワは、ゾルゲ以外の多くの情報源から多くのより重要で確実な情報を入手していた。ゾルゲはスターリンたちに「二重スパイ」ではないかと疑われていたので、ゾルゲのその打電も、モスクワにとって信憑性をもつものではなかった。

[(2) 東條英樹の近衛内閣つぶし] ゾルゲや尾崎秀実の情報活動は実際に存在した。たとえば、尾崎は上記の「関特演」を1941年8月に満洲で視察している。しかし、「ゾルゲ・尾崎事件なるもの」は、戦中日本の官憲による「フレーム・アップ」である。その事件の戦中日本における「政治的な」意味はなによりも、つぎの点にある。対米英開戦派の陸軍大臣・東條英機たちは、開戦に消極的な態度をとりつづける近衛文麿首相を失脚させるために、ゾルゲや尾崎たちの活動が「ゾルゲ・尾崎スパイ事件」として「事件化された」のである。したがって、捜査線上に浮かび上がってきた日本海軍の将校クラスの容疑者は、この事件から外された。「ゾルゲ・尾崎事件」はフレーム・アップである。
 尾崎秀実・三木清たち「昭和研究会」などに結集する者たちと連帯していた近衛首相に、「尾崎秀実逮捕」の当日(1941年10月14日)の夜に、東條英機は、自分の使者・鈴木貞一を介して、尾崎逮捕の事実を突きつける。この策謀によって、近衛首相を辞任に追い込み、東條内閣を確立する。アメリカが要求する「占領地中国からの日本軍の撤兵」は拒絶する。米英蘭に対して開戦する。このような経過を孫崎氏は詳細に実証する。
 尾崎秀実が逮捕されたのは、1941年の「10月15日」ではなく「10月14日」であることが、決定的に重要なポイントとなる。この点は、すでに渡部氏が指摘していたことである。なぜ、10月15日という「定説」ではなく、10月14日が正確なのか ― 「たった一日の違い」、この「顕微鏡的な差異」が「歴史の真実を開示する」のである。
 この点については、上記のあらすじを参考に、さらに読者自身が本書「第1章 近衛内閣瓦解とゾルゲ事件」と「第3章[ママ] つながる糸 ― 1941年10月15日の動き、近衛内閣の崩壊、尾崎秀実の逮捕、ニューマンの離日、ウォルシュ司教の離日 ― 」で確認してほしい。

[(3) 尾崎たちのアメリカン=フレンチ・コネクション] 孫崎氏によれば、「ゾルゲ・尾崎グループ」は、単にソ連だけに情報を提供していたのではない。アメリカの『ヘラルド・トリビューン』の新聞記者「ジョセフ・ニューマン」や、フランスのアバス通信社の「ロベール・ギラン」にも情報を提供していたのである。本書はこの注目すべき事実を新しく指摘する。
 そのニューマンは、尾崎秀実逮捕の次の日、1941年10月15日に日本の官憲による逮捕をかろうじて免れ、横浜港から「竜田丸」に乗って日本を出国し、ハワイのホノルルに向かう。ニューマンは、船から富士山を見ようとしたが、雲に隠れて見えない、「あの日[1941年10月15日]の午後、近衛文麿首相は米国・英国・オランダとの和解を断念し総辞職した」と回顧録『グッバイ・ジャパン』(1942年[ママ])で書く。ニューマン離日の2ヶ月足らずの50日後、日本時間12月8日に日本の連合艦隊による真珠湾攻撃が遂行される。《ニューマン離日と真珠?攻撃とは無関係であろうか》。《ゾルゲ=尾崎は日本軍の動向をアメリカにも知らせていたのではないか》。《ゾルゲ=尾崎ネットワークはアメリカにも連結していたのではないか》という新たな問題が本書で開示される。読者は、孫崎氏によるニューマンへの注目を知って、このような問題を抱くことになる。

[(4) より大きな米英国家謀略] アメリ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルは、アメリカの対独・対日開戦へとアメリカ世論を導くために、謀議した。さらに、ルーズベルトは、チャーチルと連携して、対日資源輸出禁止によって、日本を対米英蘭戦争に誘導する。この経緯についての孫崎氏の筆致に導かれながら、読者はかつての日本の暗い運命の歩みを追体験することになる。
 ルーズベルトやチャーチルのこのような「謀略工作」に比較すれば、「ゾルゲ・尾崎グループ」の活動はまことに小さなものである。ただ単に「ゾルゲ・尾崎事件」のみを見ていては、その真の意味が分からない。
 「ゾルゲ・尾崎事件」は、「日本=ソ連」という枠から解放して、「第2次世界大戦というマクロ」に位置づけ直さなければならない。この視座の転換は、「ゾルゲ・尾崎事件」をめぐる「コペルニクス的転回」ともいえる。「ゾルゲ・尾崎事件」も、多角的な視座から光りを射影しなければ、その真の姿が分からない。このことを孫崎氏は明示する。

[(5) ゾルゲ・尾崎事件の戦後史] 「ゾルゲ・尾崎事件」のマクロ的な位置づけ直しは、戦後史にも継承しなければならない。ゾルゲや尾崎たちの活動は、「ゾルゲ・尾崎スパイ事件」として、単に戦中の開戦派東條英機たちに政治的に利用されただけでない。日本敗戦の後、アメリカの対日政策にも利用される。
 まず、アメリカにおける反共運動「マッカーシズム」と、それに対応する日本における「レッドパージ」である。占領下日本における「下山事件・昭電造船疑獄・白鳥事件・ラストヴォロフ事件・伊藤律事件・接収ダイヤ事件・帝銀事件・鹿地亘事件・松川事件」などは、占領軍参謀本部と関係があったと推定されていると、孫崎氏は指摘する。占領下日本史には、まだまだ見えない部分が数多存在する。そのうち、伊藤律事件は渡部富哉氏が『偽りの烙印』で、白鳥事件も同じ渡部氏が『白鳥事件-偽りの冤罪-』で、それぞれ真相が解明されている。下山事件は、多くの追跡にもかかわらず、まだ霧の中である。熊井啓監督の映画作品「日本列島」(1965年)が提示する戦後日本像は現在の深部にも存続しているのではなかろうか。
 日本占領軍の参謀本部第2部長のチャールズ・アンドリュー・ウィロビーは、「米国下院非米活動調査委員会」の公聴会で証言し(1951年)、それをもとにした『赤色スパイの全貌―ゾルゲ事件―』(1952年)を刊行する。日本の戦中権力の「ゾルゲ・尾崎事件」のフレーム・アップと、このウィロビー書でもって、「ゾルゲ・尾崎事件」の本書刊行までのイメージが決まったといえる。その既成のイメージを本書は打破するのである。
 戦中の「ゾルゲ・尾崎事件」に検事として関わった人物たちは、さらに田中角栄首相の「ロッキード事件」にも関与する。日本政治の戦中権力と戦後権力のこのような「連続性」を本書は指摘する。戦中の戦争派は、戦後では米国への協力者にスルリと転向しているのである。
歴史とは、権力が書き記す「正史」と、「正史」の書き換え=再定義との闘いである。この重大事を本書は提示する。

 以上のように本書は、記録されつつも埋もれかかった史実を一つ一つ積み重ねて、従来の「ゾルゲ・尾崎事件」のイメージを一新する、痛烈な決定打である。日本の近現代史に関心のある方々に是非、繙かれるようにお勧めする。

[評者のコメント=太平洋問題調査会と尾崎・牛場・西園寺コネクション]
 以下の1点だけ、評者としてコメントしたい。
 尾崎秀実は1934年10月より東京朝日新聞社「東亜問題調査会」に勤務することになった。尾崎は1936年、米国カリフォルニアのヨセミテで開催された「太平洋問題調査会(The Institute of Pacific Relations: IPR)」(1925―1961年)、第6回ヨセミテ会議に参加する。尾崎は米国に向かう船で、旧制一高の旧友・牛場友彦に西園寺公一を紹介され親しくなった。牛場友彦・西園寺公一・尾崎秀実は、のちに近衛文麿首相を囲む「水曜会(朝食会)」のメンバーとなる。太平洋問題調査会(IPR)の本部は、あの『ヘラルド・トリビューン』の記者ニューマンが日本から米国に帰国するとき、彼が途中で立ち寄ったホノルルにあった。「水曜会」だけでなく、尾崎のヨセミテ会議参加が機縁で、ニュウーマンにつながる「アメリカン・コネクション」もできたかもしれない。
 『太平洋問題資料』に、尾崎は論文「支那の経済建設批判」(1937年)を寄稿し、三木清も論文「日支文化関係史」(1940年)を寄稿している。米国のIPR関係者は戦後、「マッカーシズム」で容共者のレッテルを貼られた。この受難は、戦中日本で尾崎秀実や三木清など「昭和研究会」の同人が偽装転向者として東條たちに睨まれたことと類似している。
 なお、日本IPRは1926年に渋沢栄一を中心に設立され、1937年の日中戦争の影響で1938年にその調査報告書(インクワイアリー)の刊行を巡って対立し、1939年のヴァージニア・ビーチ会議以後、本部と関係を断った。戦後1946年に日本IPRは高野岩三郎・羽仁五郎・都留重人なとによって再建され、本部には1950年から正式に復帰した。羽仁は三木清のドイツ留学のときからの親友であり三木の獄死(1945年9月26日、豊多摩刑務所)を悼み『三木清著作集』(1946年~)を編集した。都留は日米開戦後、交換船で米国から帰国した。

[エピローグ] 本書の巻末には、尾崎秀実の「遺言」ともいえる、担当弁護士・竹内金太郎宛の書簡が掲載されている。その書簡で尾崎は娘・楊子さんを細やかに気遣っている。のちに、その楊子さんと歴史家・今井清一氏は結婚した。今井氏は、亀井勝一郎たちとの「昭和史論争」の発端となった『昭和史』(岩波新書、1959年)の共著者の一人である。尾崎秀実の亡き後、昭和研究会・太平洋問題調査会などで尾崎と同伴した三木清は、尾崎家の或る油絵を買い取るかたちで支援を申し込んだ。この事実を拙著『三木清』(御茶の水書房、2004年、30頁)で指摘したところ、刊行後まもなく、今井氏は筆者に書簡を送ってきた。その書簡で、三木清の申し出では事実であるけれども、「生誕100年記念 柳瀬正夢展」に展示された柳瀬の油絵「首飾り」(1938年制作)の絵葉書を添えて、その絵は結局手放なされなかったことを伝えた。歴史は個別的にも奥深い。(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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