●「チェリー・イングラム」の生まれた背景
私の住んでいるイギリスでは、毎春さまざまな桜が咲きます。桜はどれも花の色がちがって多彩なうえ、それぞれ開花時期がずれているため、花の季節は長く続きます。冬の長いイギリスでは、多様な桜は暗い季節が終わり、万物の生命(いのち)の躍動がはじまったことを知らせてくれます。
私は1958年生まれで、‘染井吉野’とともに日本で育ちました。毎春、まちがいっせいに桃色に染まる染井吉野の光景が、私の知っている桜の風景でした。しかし、2001年にイギリスで暮らすようになってから、私の桜のイメージはすっかり変わりました。
この多彩な桜の光景はいったいどのようにして創られたのだろう」かーー。そんな素朴な疑問から生まれたのが、「チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人」です。
多種多様な桜の風景の背景には、コリングウッド・イングラム(1880-1981)という1人の園芸家がいました。彼は日本の桜に魅せられ、20世紀のはじめに自ら日本に出向いて桜の穂木を収集し、それらをイギリスの自庭で育ててイギリス中に広めたのです。
イングラムは、日本の桜を収集した過程を日記やスケッチ、写真、手紙などに残していました。資料はイングラムの実の孫であるヴェリアン・ポラードさん(75)と夫のアーネストさん(77)が一括して保管していました。2014年夏にイギリス南部ライ町に住む夫妻を訪ねると、夫妻は膨大な資料をすべて私に提供してくれました。
日記など資料を読み解いていくと、日本の桜を愛したイングラムがいちばん大切にしていたのは、桜の「多様性」でした。
「チェリー・イングラム」は、イングラムを介して日本の桜がどのように海を渡ったか、また桜が近代日本とイギリスの双方でどんな運命をたどったかを描いた「桜の物語」です。
(25歳時のイングラム、イングラム家提供)
●コリングウッド・イングラムと桜
コリングウッド・イングラムは、ヴィクトリア女王の下で大英帝国が世界中に植民地を持ち、栄華をきわめていた1880年、「新興富裕層」の家庭の3男としてロンドンで生まれました。しかし病弱だったため、ケント州のテムズ河口の別荘地で育ちます。
彼は結局、学校教育はいっさい受けなかったのですが、成長した地の豊かな自然環境が絶好の教育の場となり、ナチュラリストに成長します。家が裕福だったため成人後も生活のために働く必要はなく、はじめは鳥の研究家、のちに桜の研究家になります。
初訪日は1902年(明治35年)、21歳のときで、彼はすっかり日本びいきになります。19世紀半ば、長い鎖国を終えて姿を現した東洋の国、日本は、独自の文化と芸術をもち植物相も豊かで、西洋人の目を惹きました。ヨーロッパでは「ジャポニズム(日本趣味)」が起きて、日本の浮世絵や骨董品を熱狂的に収集する人が大勢現れました。
そんな時代背景からイングラムも日本に興味をもつのですが、日本訪問で彼がいちばん魅かれたのは「自然と人が抜群の芸術的センスで調和している」姿でした。
彼は1906年に、新妻とともに再び日本を訪れます。
イングラムが桜の研究家になったのは、第1次世界大戦後です。彼は妻と3人の子どもを持つ一家の主になっており、1919年、ケント州南部の村、ベネンドンに新居を購入して転居します。そのとき、鳥の研究に飽き飽きしていた彼の目に飛び込んできたのは、新居の庭に植えられていた立派な2本の桜の大木でした。イングラムは、ヨーロッパではまだ知られていない桜を収集して研究しようと思い立ちます。
その後わずか6年で、イングラム邸の庭には64種類の桜の植わった立派な「桜園」ができ、彼は地元で「チェリー・イングラム(桜のイングラム)と呼ばれて有名になります。彼が何よりも愛していたのは、日本人が過去千年にわたって創った「多様な桜」でした。
(1919年、イングラムが新居に入居した際に咲いていた「ホクサイ」。この桜がイングラムの桜熱を引き起こした。イングラム家提供)
●イングラムの警告
イングラムはより珍しい桜を求めて1926年(大正15年)、日本へ「桜行脚」に出かけます。しかしこの旅で彼が経験したのは大きな「失望」です。日本は近代化の波のなかで伝統文化を失いつつあり、園芸界にも商業主義がはびこって多様な桜は絶滅の危機にあったのです。
彼はその現実を見て「日本の大切な桜をイギリスで保存する」ことを決意します。
京都、吉野、富士山麓、仙台、日光、、、と精力的に回りながら、イングラムは懸命に「珍しい桜」を探し、ほしい桜を見つけると地元の人をつかまえて「穂木(桜を増殖する際、台木となる樹に接木(つぎき)する若い枝)」をイギリスに送ってほしいと頼みます。これらの穂木はすべて、その年の冬にイギリスのイングラム邸に到着しました。
イングラムは日本滞在中に東京で、桜を愛する人々の会「桜の会」の例会に呼ばれて演説し、重大な警告を発します。
「あなた方日本人はかつて、驚くべき数の桜の品種を開発しましたが、多くが絶滅の危機に瀕しています。50年後にはこれらの桜は永久に失われてしまうかもしれません」。
●日本から消えた桜
野生の桜は世界に約100品種あり、日本には9-10種類があります。しかし、日本の桜の特徴は、人の手による「栽培品種(里桜)」がずば抜けてたくさんあるということです。現在では約400種類以上の栽培種があると言われますが、多くは江戸時代に生まれました。
各地の大名や旗本たちが、江戸の屋敷でお抱えの植木職人に競って美しい桜を創らせたのです。古代から桜とともに生活してきた日本人の「桜文化」はこうして江戸時代に最盛期を迎えます。
しかし、明治維新とともに大名屋敷はすたれ、伝統の里桜は多くが消えていきました。代わって明治以降に注目されたのが、幕末に開発された新しい‘染井吉野’でした。
成長が早くて花つきもよく、経済的な染井吉野は大量生産され、「近代国家」日本の象徴として全国各地に植樹されました。そして染井吉野は日本の桜の風景を決定的に変えます。桜は本来、「どの樹もみなちがう」ことが特徴で、花の色や開花時期も樹によって少しずつ異なるのですが、「クローン」の染井吉野の大量植樹によって「花がいっせいに咲き、いっせに散る」という光景が創られたのです。
そのイメージはやがて、日本が戦争への道を歩む過程で軍部に利用され、戦時中、国民は「桜のように散る」ことを求められました。
桜イデオロギーは、日本軍の占領下となった香港でイングラム家の一員をも巻き込み、さらに戦後の日英関係に影を落としていくことになります。
(1926年の桜行脚の際、イングラムが撮影した写真。イングラム家提供)
●イギリスに残った桜
イングラムが桜行脚でたくさんの桜を収集した1926年は、戦争への道を歩みはじめた日本で、桜の風景が変わりつつある時期でした。
消滅の危機にあった日本の桜はイングラムの手によって大量にイギリスへ「疎開」し、ケント州ベネンドンのイングラム邸で、第2次世界大戦を生き延び、保存されたのです。
また彼の手によって、日本で絶滅したとされる’太白‘が、日本に里帰りしました。太白の里帰りは、イングラムと京都の「桜守」である第14代と第15代の佐野藤右衛門のあいだで1930年代に、実現しました。幾度かの失敗を経て、太白の穂木は、シベリア鉄道に乗ってようやく日本にたどり着きます。伝統の桜を残したいという日英の桜守の努力は、5年の年月をかけてついに実ります。
●桜のその後
日本にもじつは、明治維新から戦中・戦後を通じて、ひと握りの「桜守」たちが桜を守った歴史があります。希代の桜守たちは「命がけ」の努力を惜しまず、桜は文字通り、桜守の手から手へと受け継がれて激動の時代を生き抜きました。敗戦後の焼け野原でほとんどの桜が消滅した後も、貴重な里桜の一部は、人里離れた地でゆらゆらと命の炎を燃やし続けていました。イングラムはこれらの桜守たちとも交流していました。
戦後の日本は、再び染井吉野に席巻されます。対照的に、イギリスではイングラムの功績によって日本の桜が急速に広まり、各種の桜が植樹されていきます。桜はイングラム亡き後(1981年)もイギリス社会に根付き、祖国日本で失われた多彩な風景があちこちで誕生しました。
さらに、桜によって日英関係に新たな展開がもたらされます。
大戦中、日本軍の捕虜となった英軍捕虜(POW)問題は、戦後の日英関係に長くトゲを残していましたが、問題の先鋭化した1993年、北海道の桜守、浅利政俊さん(85)の創った新しい松前桜58種が、イギリスのウィンザー城庭園に贈られました。
それらの桜は、日本が過去に行ったことに対する「償いの桜」として、やがてイギリス中に広まり、めぐりめぐってケント州ベネンドンの旧イングラム邸にも植樹されるのです。
こうして、家族の一員が香港で日本軍捕虜となったイングラム家にも、桜を通じた「和解」が訪れます。
(イングラムが日本に里帰りさせた‘太白’のオリジナルの樹。ケント州ベネンドンの旧イングラム邸で著者撮影)
イングラムの生涯を通じて見えてきた日英の「桜の物語」を、大勢の人に知って頂きたいと思います。私の本が、日本の生んだ世界に誇る「多様な桜」を見直すきっかけとなれば、こんなにうれしいことはありません。
(参考:阿部菜穂子ホームページ www.naokoabe.com )
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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