「ちきゅう座」で、内藤光博教授(専修大学法学部)による「いわゆる『経産省前テントひろば』に関する憲法学的意見書――表現の自由と『エンキャンプメントの自由』――」を一読した。
それによると、日本国民は、「公開空地」や「公開の空間」を活用して、アメリカでいわゆる「パブリック・フォーラム(公共の言論広場)」を設定する事が「集会の自由」として憲法的に保障されており、「集会の自由」の実践行為として「公開空地」に「テント設営および居住」する事が許されている。経産省前の「テントひろば」は、経産省管理の国有地であるが、経産省敷地本体の柵外にあり、あきらかに「公共空地」である。
私のような市民法学に不案内な者は、2013年5月11日に「ちきゅう座」で「テント出現の意味」を論じて、以下のような趣旨を書いた。すなわち、どんなに民主的法であっても、日本史上初の重大社会問題が発生して、民衆がそれに関する自分達の正直な判断を実践的に表現しようとすると、既存の法に触れる所、すなわち、違法性、不法性が出て来る。経産省の土地に他人が反原発のテントを建てると言う行為は、社会的正義に適っていても、実定法的に完全に合法的とは言えまい。その意味で正清、淵上の両人は違法者であるかも知れない。しかし、だからと言って、正清と淵上だけに社会的責任を負わせてしまうのは、日本常民社会の仁義にもとる。気が付いてみれば、私も女性テントで開かれた研究会に3回ほど出席していた。経産省の許可なく、経産省の土地を利用していたわけだ。その意味で両人ほどに正々堂々の「違法者」・「不法者」ではないとは言え、私にも一種の「共犯性」があるだろう。2年前の私の実感であった。
内藤意見書を読んで、「違法」や「不法」や「共犯」のイメージから解放され、なるほど、このように「テントひろば」の正当性を理論付け出来るのかと、感じ入った。同時に、一つの難問が出て来ると思った。経産省前の「公開空地」は、意見書によれば、狭く89.63平方メートルである。反原発の三テントで満杯である。
ところで、ここにもう一つの社会運動があり、経産省と東京電力に対して「人間に値する生存」を維持しようと抗議しているとしよう。「化石燃料使用の全発電所の即時廃止。自然エネルギーと原子力発電のみ許容。」要するに、放射能の危険性よりも炭酸ガスによる地球温暖化の脅威を重視する市民運動である。全原発の再開、そして石炭発電、石油発電、天然ガス発電の即時廃止の要求である。当然「反原発テントひろば」と正反対の社会的主張である。しかし経産省も東電も反原発以上に拒絶するであろう。そこでこの市民運動も亦、経産省前に自分達の「テントひろば」を設けたい。しかしながら、かの「公開空地」は満杯。内藤意見書によって「公開空地」の市民運動による使用は、憲法的に正当化できても、長期独占的使用までは正当化できない、と思われるが・・・。
ここで内藤意見書を再読すると、「エンキャンプメント(テント設営および居住)の自由」は、「緊急かつ一時的に居住する権利」とあり、同時に「その具体的行使にあたっては、①長期・短期を問わずに持続的に・・・」とある。「一時的」と「持続的」は矛盾するようである。
平成27年3月6日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion5217 :150307〕