「ボスニアの不安定化と欧州」によせて—―『朝日新聞』紹介記事への疑問 (その一)—―

 『朝日新聞』(2025年・令和7年7月18日・金、第24面)にイスメット・ファティフ・チャンチャール氏の論文「ボスニアの不安定化と欧州」が紹介されていた。推薦した論壇委員は庄司香学習院大学教授である。要約紹介者は、田島知樹氏である。
 1992年4月から1995年11月まで続いたボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦争は、アメリカ・オハイオ州デイトンで結ばれた「デイトン合意」によって終結した。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦(ボシニャク人=ボスニア・ムスリム人とクロアチア人が多数)とスルプスカ共和国(セルビア人が多数、スルプスカとはセルビアの形容詞形)から成る連邦連合国家ボスニア・ヘルツェゴヴィナが誕生した。
 田島氏の要約紹介から一節を引用する。「しかし、新生国家はうまく機能しなかった。各構成体が独自の議会や大統領を持つなど高度に分権化していたからだ。国際社会が任命する上級代表もいて、和平合意の履行を監視する。ボスニアの中央政府の力は非常に弱い。そこにつけ込んだのがドディックだった。ナショナリズムをあおり、分離・独立を図ってきた。ドディックがボスニア中央政府の司法や警察の管轄をそごうとするなか、ボスニアの裁判所は今年、禁固刑と公職追放を言い渡す。」(強調は岩田)
 私=岩田は、この一節を一読した時、1990年代前半旧ユーゴスラヴィア多民族戦争期の日本国報道情況を想い起こして、心が寒々となった。三民族間三巴の殺し合いと罵り合いを報道するに際して、ことの始めから善玉悪玉を決めてしまい、悪玉はそこにつけ込み、ナショナリズムをあおると非難され、善玉は当然の如く同情される位置におかれたか、すくなくとも日本を含む所謂「国際社会」によって批判されなかった。「つけ込み」、「あおり」という感情語が第三者による冷静な表現にとってかわった。
 2025年7月18日の記事において、悪玉の地位に置かれている人物がボスニア・ヘルツェゴヴィナのスルプスカ(セルビア人)共和国大統領ミロラド・ドディックであるとすれば、1990年代の悪玉は、セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチであった。例えば、2011年に出版された『人間と国家(下)』(岩波新書)の中でも「とくにセルビアのミロシェヴィッチなどの旧共産党指導者が・・・・・・一枚岩的な民族主義に乗り換えて、偏狭なナショナリズムを煽ったことが、あの凄惨な抗争のきっかけになったと思われます。」(p.222、強調は岩田)と政治学権威の故坂本義和教授は断定していた。
 凄惨な抗争の相手側指導者達、例えば、クロアチア人の最高指導者フラニョ・トゥジマンが1990年にザグレブで出版した『道無き歴史』(クロアチア語)で何を語っていたか、ボシニャク人=ボスニア・ムスリム人の最高指導者アリヤ・イゼトベゴヴィチが1970年に発した、そして1990年にサライェヴォで再刊された『イスラム宣言』(ボシニャク語、英訳あり)で何を語っていたかは、全く報道されなかった。両書を1989年6月28日のコソヴォボーリエにおけるミロシェヴィッチ演説と対比検討するならば、国際社会を名乗る北米西欧市民社会の理念的常識に近い順に位付ければ、ミロシェヴィッチ>トゥジマン>イゼトベゴヴィチの順になろう。それでは、北米西欧市民社会の対バルカン国際政治が上手に貫徹できない。それ故、両書は意図的に国際社会で言及されず、「つけ込み」や「あおり」の悪いイメージはミロシェヴィッチにだけつけられた。
 ところで、1974年のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国新憲法体制以来、スロヴェニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国、モンテネグロ共和国、マケドニア共和国とは異なって、セルビア共和国だけは、コソヴォ自治州を内にかかえており、しかも、コソヴォ自治州はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国全体を代表する大統領府の一員となる権利を与えられていた。すなわち、セルビア共和国においてベオグラードのセルビア中央政府の力は、コソヴォ自治州に及ばなかった。従って、前記引用文にならって語れば、「セルビアの中央政府の力は非常に弱い。そこにつけ込んだのが、コソヴォ・アルバニア人政治家だった。ナショナリズムをあおり、分離・独立を図ってきた。」と言う事にもなる。セルビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの上級代表がセルビア人民族主義を抑制し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの全体性・統一性を強化すべく努力するのと全く同様に、コソヴォ・アルバニア人民族主義を抑制し、セルビアの全体性・統一性を回復しようとした。相違は現地の人々にとって、ミロシェヴィッチは自国民、上級代表はドイツ人やオーストリア人等の外国人である事にのみ存する。
 ここで、NATOを先頭とする北米西欧市民社会政治は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおけるとは、正反対の政策をとった。コソヴォ・アルバニア人の分離・独立を支持し、最終的に1999年3月24日の対セルビアNATO空爆に至る。これは、米英仏安保理常任理事国が国際法を無視して断行した蛮行・侵略である。2022年2月24日の露安保理常任理事国による烏国侵略の欧州における直接的先例である。
 クリントン・オルブライト侵略とプーチン・ラブロフ侵略は同罪だ。

   2025年・令和7年8月5日   岩田昌征/大和左彦

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14365:250807〕