『朝日新聞』(2025年・令和7年7月18日・金、第24面)、ボスニアのボシニャク人(ボスニア・ムスリム人)政治学者論文「ボスニアの不安定化と欧州」の田島知樹氏要約紹介記事より前回拙論引用と重なる個所を再引用する。「しかし、新生国家はうまく機能しなかった。・・・・・・。国際社会が任命する上級代表もいて、和平合意の履行を監視する。・・・・・・。ドディックがボスニア中央政府の司法や警察の管轄をそごうとする中、ボスニアの裁判所は今年、禁固刑と公職追放を言い渡す。」ここにドディックとは、ボスニア・へルツェゴビナを構成する、セルプスカ(セルビア人)共和国の大統領である。
私=岩田は、この一節を読んだ時、ただちに橋本敬一氏、ボスニア・へルツェゴビナはサライェヴォ、そこの上級代表(OHR)事務所政治アドバイザーを経験した政治学者の判断を想い起こした。
――紛争終結後20余年――。ボスニアには今なお、国家機関を超える権力を持つ国際社会の代表が駐在している。デイトン合意の規定に従って任命された「上級代表」である。立法府を迂回した法の発効、行政府の意向に反する政策決定、司法への介入、さらに公職者の一方的解任――。その強権的なアプローチが、「英国による19世紀のインド支配」や「信託統治」にたとえられることも多いが、こうした「荒療治」なしにはボスニアの国家建設が停滞していたとの見方もある。和平合意当時の国際社会の想定を超えて、ボスニアに君臨し続ける「上級代表」のあり方を問う。――(柴宜弘・山崎信一編著『ボスニア・へルツェゴビナを知るための60章』、2019年、明石書店、p.168)
私=岩田ならば、マッカーサーGHQ政治が昭和45年になっても続き、その終わりが見通せない状況に等しい、と書くだろう。
庄司香学習院大学教授は、ボスニア・へルツェゴビナの今日を考える上に重要と考えられたチャンチャール氏論文を『朝日新聞』に推薦された。私=岩田は、ボスニア・ムスリム人と対立する側、すなわちボスニア・セルビア人の論説もまた同時に紹介されるべきだと考える。
私の手元にミラン・ブラゴイェヴィチ著『犯罪的上級代表主義』(フィリプ・ヴィシニチ、バニャ・ルカ、2021年、セルビア語キリル文字)がある。セルビア人共和国首都バニャ・ルカの管区裁判所判事かつ憲法学教授である。本書は、2015年から2021年にかけて上級代表の「権限」行使に対してブラゴイェヴィチ教授がその時々に発表して来た54篇の論説を時系列的に編集した単行本である。
私=岩田は、ここで第28論説「恐怖とコンフォーミズムによる支配」(2021年5月11日)のさわりに当たる文章を紹介したい。
――コンフォーミズム、大勢順応主義ほど、我国における個人や集団の今日的心性を集約表現する言葉はない。この言葉や概念は、事実上の、あるいは想像上のあるグループによる圧力の結果として、諸個人があるグループに対する信情を変容させることを意味する。反対の態度をとった場合、自分に生じるだろう否定的結果を意識して個人が社会的に容認される事を目指して、そのグループの立場が法的にだけでなく、道徳的にも正しくない時にさえ、そのグループの立場を受け容れる時に、そんな変容が起きるのだ。――(p.162、強調は岩田)
この引用文で強調された「あるグループ」や「そのグループ」とは、スルプスカ(セルビア人)共和国のエリート層の相当部分、具体的に言えば、サライェヴォの上級代表事務所とそれに通じる現地セルビア人社会集団のことである。
第24論説「スルプスカ共和国、何処へ向かう?」(2021年1月14日)は、上級代表の圧力によってスルプスカ共和国が元来保有していた諸権限を、サライェヴォ中央政府に移管する政治を結局認めてしまったと、ミロラド・ドディック大統領に批判的に言及している。要するに、ドディックも亦「あるグループ」の一員であった訳である。
『朝日新聞』田島知樹氏は、記事の締めとして「ドディックを抑止するための部隊を派遣してもらい、状況の悪化を防ぐ。」と言うチャンチャール提言を肯定的に紹介している。
1990年代前半のボスニア内戦期、ボスニア・ムスリム人軍に中近東のイスラム人義勇軍が数千人、セルビア人軍にロシア人やコザックの義勇軍が多数、そしてクロアチア人軍に北米西欧諸国の義勇軍が数多く参加していた。1990年代当時、ロシアは最弱国であったし、政権は親西欧派が握っていた。ムジャヘディンをバルカンのボスニアに送り込んだアラブ諸国、トルコ、イランもまだ力不足だった。NATOが最強であった。
しかし、21世紀の今日、力関係は激変している。そんな時勢に、20世紀最後の10年間、旧ユーゴスラヴィア多民族戦争において、北米西欧市民社会の軍事力NATOは、自己の国際政治力学から逆算して、カトリック・クロアチア人に並んでボスニア・ムスリム人にも味方しただけであって、別にボスニア・ムスリム人の政治文化・歴史宗教・文明に共感したからではない。ロシアやトルコ、イラン、中近東諸国と事前了解なしに、いわゆる西側諸国だけがボスニアに増強部隊を送り込んだとすれば、脅威を感じ敏感に反応するのは、セルビア人とロシアだけであろうか。ボシニャク人本来の支援勢力、トルコ、イラン、アラブ諸国も亦脅威を感じるのではなかろうか。かくして、三勢力三巴のドローン戦争が勃発しかねない。
私=岩田は、今日誰も語ろうとしない事実を想い起こす。上級代表が影も形もなかった時代、三民族が協力して成功させた1984年サライェヴォ冬季オリンピックがそれである。
2025年・令和7年葉月7日 岩田昌征/大和左彦
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