『朝日新聞』(2025年・令和7年7月18日・金、第24面)の記事——「火薬庫」爆発前に「西側」は行動を――に「ドディックがボスニア中央政府の司法や警察の管轄をそごうとするなか、ボスニアの裁判所は今年、禁固刑と公職追放を言い渡す……。再び内戦の危機が生まれている。」とある。あの戦争の最中、「ここより戦場」なる交通標識をまじかに見つつ、現地常民達と共にバス旅をしてきた者にとって、見過ごせない記事である。
ボスニア・ヘルツェゴビナと言う国連加盟国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボシニャク人とクロアチア人)とスルプスカ共和国(セルビア人)の二構成体から成る複合国家である。ここに構成体とは、英語のentity(エンティティ)の訳である。南スラヴ三民族間の三つ巴内戦を終結させた1995年デイトン和平合意に登場した用語がentity(エンティティ)である。複合国家の構成単位をstate(州国家)とかrepublic(共和国)とか素人にも馴染みある表現ではなく、entity(実体)なる素人には一見意味不明瞭な表現が選ばれた所にボスニア・ヘルツェゴビナ戦争を終結に導いた唯一超大国アメリカ外交の苦心が見える。
デイトン和平合意は、11の附属文書から成る。その第4文書がボスニア・ヘルツェゴビナ憲法である。このような和平枠組文書の作成と終戦が同時並行的に進行していた。私=岩田の想像にすぎないが、今日の露烏戦争、その実質はロシア人、ベラルーシ人(表面上参戦していないが)、ウクライナ人という東スラヴ三民族間の戦争であろう。個々の停戦の試みの積み上げの結果としてではなく、デイトン和平合意に類似する和平合意がトランプ的米国の支援によって成立する事で露烏戦争も亦終了するかも知れない。局外者の願いにすぎないが。
その場合、ボスニア・ヘルツェゴビナに相当する枠組みは存在せず、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の位置にロシア連邦が。スルプスカ共和国の位置にウクライナが。そして附属文書10で定められた和平履行監視役の上級代表の位置に、例えば、独立主権文武大人国であってほしい我が日本、印度、中国、ブラジル、インドネシア等の国際社会から選ばれるかもしれない上級代表が。そして、スルプスカ共和国を軍事的に支援していたセルビア共和国の位置とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦内のクロアチア人を軍事的に支援していたクロアチア共和国の位置とにウクライナを軍事的に支援し続ける英独仏等の西欧諸国が在ると言う構図になる。
デイトン合意成立の軍事的条件は、NATO空軍が、すなわちアメリカ軍がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に味方してセルビア人軍を半月にわたって空爆し、スルプスカ共和国とセルビア共和国に継戦を断念させた事である。露烏戦争のケースでは、米国が露側に立って参戦するのではなく、烏クライナ側への軍事支援から手を引いた事態がこれに相当する。やがて、烏クライナと西欧諸国は継戦を断念する。そして和平。ただし、ウクライナにその後長く不満が残り続けるだろう、今日のスルプスカ共和国の如くに。
第二次世界大戦は、完全勝利と完全敗北の形で終了した。しかし、ボスニア戦争の場合、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側の不完全勝利であり、スルプスカ共和国側の不完全敗北である。前者は、西欧諸国から、特にオーストリーやドイツから派遣される上級代表と組んで、勝利を完全にしようと努力する。後者は、上級代表の権力が国際法源に根拠無し、「法の支配」理念に反すると抵抗する。その結果がスルプスカ大統領ミロラド・ドディクに対する禁固1年と公職追放6年の判決である。その理由は、ボスニア・ヘルツェゴビナ憲法裁判所決定の不履行とボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表クリスティヤン・シュミット決定の不尊重だ。
要は、上級代表に忠実であるか否か、に在る。かって、民族主義政党のニコラ・ポプラシェンを当時の上級代表ウェステンドルプが解任し、独立社会民主同盟のミロラド・ドディクを権力の座につけた時、彼ドディクは、「上級代表はこのように決定する権利がある。それはデイトン合意によって得たものだ。そこには上級代表はボスニア・ヘルツェゴビナ憲法よりも、またエンティティ憲法よりも上位にあるとする条項がある。」(ベオグラードの親欧米週刊誌『ヴレーメ』2025年3月6日、p.27)と語った。こんな流儀で権力について、10年も20年も上級代表=外国人権力者の言うなりに生きるのは、セルビア人政治家として苦痛になる。そうして、今日の混乱が生じる。
上述した2月下旬の判決は、8月1日に控訴審で確定する。それを受けて、サライェヴォの中央選挙委員会は、ドディクの大統領失格を認定する。大統領派が多数を占めるバニャルカ(スルプスカ共和国の首都)議会は10月25日に判決の諾否に関する共和国国民投票の実施を議決する。続いて中央選挙委員会は、スルプスカ大統領選挙を11月23日に実施すると決定。スルプスカ共和国のセルビア人は、10月25日と11月23日と言う相矛盾する投票の選択を迫られている。
ところで、上級代表の権限、俗称「ボン大権」は、上級代表が主張し、ドディクがかって追従したように国際法源としてのデイトン合意にその根拠を見出せるか否か。
8月8日「ちきゅう座」発表の小論(その二)で紹介したボスニア・セルビア人の著書『犯罪的上級代表主義』(セルビア語)は、全篇通して、「ボン大権」無根拠論である。
私の手元にあるボシニャク人のカシム・イ・ベギチ著『ボスニアとヘルツェゴビナ ヴァンス・ミッションからデイトン合意へ(1991-1996)』(ボサンスカ・クニーガ、サライェヴォ、1997年、ボスニア語)における上級代表の任務解説(p.286、 p.294)を読んでも、著者は、今日上級代表が振るう権限を全く予想されていない。
根本法源たるデイトン合意に修正権も立法権も与えられていない上級代表が、法治を実施できるはずがなく、ましていわんや法の支配を実現できるはずがない、とスルプスカ共和国の法律家(政治家ではない!!)は批判し、非難する。
私見によれば、上級代表制は、三民族のそれぞれに損得の位相で受け止められているが、正当性・正統性が欠如している。
和7年・2025年長月1日 大和左彦/岩田昌征
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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