「マルクス生誕200年シンポジウム」の感想2です。
まず。お詫びを。前回の「マルクス生誕200年シンポジウム」の感想ですが、訂正があります(大西さん御本人から指摘がありました)。
1、「利潤率低落化傾向」は、『資本論』が「明らかとしていないこと」ではなく、「明らかとしたが、論証が完璧でないもの」ですね。
2、前回の感想の1では、私は「マルクスの基本定理」について、どんな価格でも証明できる」と述べましたが、置塩さんのオリジナルの証明では、置塩さんは「どんな価格でもいい」とはしておらず、「投下労働価値説」による価格を使用しています。大西さんの説明はこのオリジナルの証明のほうを使ったものでした。もっとも、私自身は「どんな価格でもいい」証明のほうがより一般的だと思いますが。
さて、感想の2ですが、これはVersachlichungの訳語を巡る問題です。
私の参加した分科会2「マルクスの経済学と哲学、どう捉えるか」にでは、大西さんのほか、松井暁さんと田上孝一さんが報告されましたが、田上さんは、Versachlichungに「物件化」という訳語を採用すべきと提案されたのです。
質疑応答の時間に、私はこの提案について質問をさせていただきましたが、時間の都合で充分な議論をすることができませんでしたので、後で、この訳語について調べました。
すると、色々な訳語があることにはじめて気づいたのです・・・。私の訳した張一兵氏の『マルクスへ帰れ』での「事物化」(この言葉の訳書での使用は、張さんがなぜこの用語を使うかを本文で説明してあったゆえです。、それがなければ、私は「物象化」と訳したはずです)、田上さんと芝田進午さんの「物件化」、マルクス関連から離れるとウェーバー用語の翻訳の「事象化」などもありました。
でも、一般的にはやはり「物象化」でしょう。一般的な訳語を廃してあえて新しい訳語を使用するのなら、よほどの根拠が必要だと思います。
ということで、「物件化」という訳語の由縁が書かれている田上さんの「マルクスの物象化論と廣松の物象化論」(『経済理論』第48巻第2号)という論文を読みました。そこでの「由縁」とは以下のようなものでした。
① 「物象化」という言葉には「~のように見える」とか「~のように現れる」というニュアンスが強い。つまり「認識」に関わる用語である。だが、マルクスがVersachlichungに込めた意図は、Personが実際にSacheになるというものであり、「存在論的な次元」の言葉である。したがって、「物象化」はVersachlichungの訳語としては不適である。
② Personが実際にSacheになるということは、PersonがSacheとして手段=「物件」になるということだから、「物件化」がふさわしい。
①について。「物象化」を使用する多くの論者は、「物のように見える」という指摘だけにとどまらず、その「物」が人間の行動を支配し規制するという点も同時に指摘していると思います。ですから、田上さんの批判は当たらないのでしょうか?
②について。「物件化」であると、「人間がストレートに物と化す」というニュアンスが強く、むしろVerdinglichungの訳語にふさわしいのではないでしょうか。
以上から見ると、一般的に受け入れられている「物象化」をやめて「物件化」を採用するというのには賛成できません。やはり、「一般的に使用されている」ということは軽視できないのではないでしょうか?
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study998:181031〕