「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」(2)

ここで少し視点をずらしながら、この時代のヨーロッパを大きく鳥瞰し、「ルネサンス」「宗教改革」そして「マキアヴェッリ」の相互連関の大本を考究してみたい。

ヨーロッパ300年間の成果の瓦解(ペストと百年戦争)
ペスト(黒死病)の流行はおよそ300年のサイクルで起きているといわれる。ボッカッチョが『デカメロン』を書いたのは、その流行下の1348~53年頃である。その序文で、ペストで死んだ者たちの死骸は、あまりに多いため、埋葬することもできず、穴を掘って山積みに放置されていると記していた。今日のガザ、ベイルート、ウクライナでの戦禍を連想させる悲惨な情景が思い浮かぶ。
このころのペストの大流行を扱ったものに、科学史家・村上陽一郎の『ペスト大流行―ヨーロッパ中世の崩壊』(岩波新書)という評判の本がある。しかしここではこの時代のヨーロッパ情勢を眺望するために、歴史学者の樺山紘一著『ヨーロッパの出現』(講談社「ビジュアル版世界の歴史第7巻」2000)を取り上げ、参照しながら考えていきたい。
「1347年9月、シチリアの港に発生した病気(黒死病=ペスト)は、1350年に一応の終息を見るまでに全ヨーロッパを席巻した。15世紀初頭までに、黒死病の餌食になったのは全ヨーロッパ人口の四分の一を超え、これに加えて世紀の初めから悪化した天候事情から、出生率は低下し、結局全人口の三分の一以上が短期間のうちに失われたことになる。」(p.140)
「黒死病の原因には根本的な問題がある。数十年前に始まった全体的な不況と暗転が、その土壌を準備していた。その不況とはただの天候異変の結果ではなく、三世紀にわたる大改新の生み出した負の面であった。着実な人口増加、小麦に特化して行く農業生産、都市を中心とするコミュニケーションの高密度化。このような繁栄にはいくつもの無理が隠されている。食糧供給の不安、制度と現実のずれ、人口密度の増大による紛争の頻繁化、貨幣化された財と生活物資との矛盾。14世紀に訪れたのは、このように堆積された無理、矛盾の相乗効果である。」(pp.141-2)

前回引用した塩野七生が「15世紀前半のフィレンツェは、100年前と比べて人口が半分近くに減った」と書いていたことをご記憶のことと思うが、これは上記のような諸事情によるものなのだ。「ルネサンス」の時代となると、われわれはともすればその華やかな面にばかり目を留めて、その背景の無残で破壊的な現実、社会的な疲弊困窮を見逃してしまいがちだ。しかし、ルネサンスも宗教改革も、こういうむごたらしい現実(ペストと戦乱、社会的貧困)に根差して生みだされたということ、このことに留目する必要があると思う。

関連して面白い一例を挙げる。1971年にフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂内にあるメディチ家礼拝堂の新聖具室の下に、広い地下室が発見され、その壁に描かれていた壁画が何とミケランジェロのものだったことがわかった。どうしてここにミケランジェロが?その謎は、この時代(1494年頃)メディチ家がフィレンツェに返り咲き、共和国政府との間に復讐戦を繰り広げていたため、市の防衛用要塞の設計に協力していたミケランジェロは逃亡生活を余儀なくされ、この地下室に身を潜めていたためという(『メディチ家の墓をあばく―X線にかけられた君主たち』ドナテッラ・リッピ、クリスティーナ・ディ・ドメニコ著 市口桂子訳 白水社2006)。

これ以外にブローデルなども当時の悲劇的な事態について書いているが、それは後程改めて触れたい。ただ、こういう破壊的かつ残酷な現実は、単にイタリアの、あるいは都市部だけに見られるものではなかったということ、ブローデルによれば、むしろ田舎の方がより深刻だったという。
J=Pサルトルの次の指摘が光彩を放つ。
「ペストの作用はただただ階級間の関係を際立たせるのみである。それは極貧者に襲いかかって、金持ちには目こぼしをする。」
私念するに、これらの社会的な崩壊状態が、16世紀のドイツで起きたマルチン・ルターの宗教改革の一要因にもなり、またルターの領主階級との妥協(癒着)に飽き足らず、独自の改革を求めて蜂起したトマス・ミュンツァー率いる農民軍(ドイツ農民戦争)にもつながったのではないか(詳しくは、F.エンゲルス著『ドイツ農民戦争』を参照願いたい)。

以下は樺山紘一の前掲書と堀米庸三の『中世ヨーロッパ』(「世界の歴史」3中央公論社1976)からの引用。つまり、英、仏の両国でも同様な混乱が起きている実例。
「イングランドのワット・タイラーの乱とフランスのジャクリーの乱と呼ばれる反乱は、これまで知られる限り、最も大きな農民一揆であり、農民戦争とでも名付けられるべきであろう。重ねて、この二つの国は、しばらく前から戦争状態にあった。100年戦争は延々と続き、戦場となった西・北フランスは荒廃を免れなかった。」樺山:(pp.143-4)
「フランスとイギリスでほぼ同じ時期に大規模な農民反乱がおこったのは、このような社会の大混乱の状況下においてである。1356年のポアティエの敗戦を機に起きた、1358年フランスのジャクリーの乱(ジャックというのは当時の貴族たちが農民一般を呼んだ蔑称)。リチャード二世治下の人頭税賦課をきっかけに起きた1381年イギリスのワット・タイラーの乱、である。しかし、彼らの要求はつまるところ領主支配からの解放であった」堀米:(pp.446-7)

このような極限まで疲憊した社会の、その底辺からの目覚め、呻き声が「人間の解放」の雄叫びとなる、それが現実のなかに外化し表現されたものが、一方では「ルネサンス」文化であり、他方では「宗教改革」である。
既成の制約=身分制社会(宗教的、社会身分的拘束)からの「人間性の解放・自由への憧憬」は、絵画や彫刻の世界に花開く。また、詩文の世界でも、エラスムスやラブレーは、この事態を冷ややかに皮肉・批判を込めて描き出し、トマス・モアは、『ユートピア』(ギリシャ語で「どこにも存在しない場所」の意)を書いて、領主などの支配者からの自由をうたった。 それらとは逆に、マキアヴェッリは、進行する事態の裏側で蠢く政治権力の貪欲さ、権勢欲の薄汚さを赤裸々に写し取り、その権謀術数のありさまを世に示した。それ故、彼の『君主論』は、出版当初から長きにわたって発禁の憂き目を見ることになった。私見では、これらの総合的な傾動こそまさに「ルネサンス」(再生)であり、文芸の復興であったと思う。

「宗教改革」を呼び起こした背景にも当然この大きな社会的なうねりがある。ローマ法王庁(カトリック教会)の権威主義、つまり神と人との仲立ちをし、魂の救済をする客観的施設としての唯一の教会、この教会に属し仕えるのは聖職者のみ(聖職者団体としての教会)であるため、神による魂の救済を求めるものは、必ず教会を(つまり聖職者を)頼らざるを得なくなる(迂路としてのキリスト教)。ここに庶民から超絶した、絶対的な権威としての教会権力(カトリシズム)が成立するのである。例えばミシュレの『魔女』などを読めば、いかにこの権力が下層民にとって恐怖の的であったか、庶民社会がこの制度の悪弊によってどれだけ悲惨な目にあい、破滅させられたかががわかる。

このようなカトリシズムへの抵抗・批判として出現した宗教改革(プロテスタント)は、絶えず民衆あるいは虐げられた民族の実態的な困窮と結びついていた。民衆のあまりの貧困、それに比して教会の蓄財と特権、宗教改革の先鞭をつけたといわれるイギリスのウイクリフ(彼は農民戦争の首謀者とも目された)、また1415年に異端者として火刑に処せられたチェコ(ボヘミア)人フス、彼が代表したのはチェコの民族主義であったが、フス戦争として知られるものの背景にはやはり貧困にあえぐ農民の闘いがあった。
ドイツのルターとフランスのカルヴァンについては、長くなるのでここでは割愛したい。ただ、ルターと共に宗教改革に勤しんだ挙句、ルターの俗物主義(領主権力との癒着、妥協)に抵抗して、貧農とともに立ち上がった、トマス・ミュンツァーについて一言だけ触れたい。
ドイツのテューリンゲン州にミュールハウゼンという小さな町がある(若いころのJ.S.バッハもこの地の教会で楽士を務めている)。ここがミュンツァーたち貧農の最後の戦いとなった場所である。ザクセン、ブラウンシュヴァイク、ヘッセンの諸侯たちと結託して、農村の貧困に目をそむけたルター派の軍勢に追い詰められ、この地で彼は拘束され、斬首されたのだ。彼には墓もない、埋葬することも許されなかったという。エンゲルスは『ドイツ農民戦争』の中で、ミュンツァーたちの目指した農民革命について、当時の時代条件にそぐわなかった理想社会を追いかけたがための敗北、という意味の総括をしている。

以上のなんともすわりの悪い叙述を一応締めくくる意味で、再び先の樺山紘一の著書から次の引用をしてひとまずこの章をまとめたい。
「ルネサンスは、イタリアの諸都市に起こった。淵源は遠く遡ることができるが、詩人ぺトラルカやボッカチオらの最初期の後、クワトロチェント(1400年代)の前半に、確立されたと思われる。諸都市、とりわけフィレンツェは、金融と毛織物で、先進の海港都市に経済力において肩を並べ、15世紀にはルネサンスの都となった。おりしも、1453年、ビザンツ帝国がオスマン・トルコ軍の襲撃によって崩壊し、その直前からギリシア人学者が、イタリアへ亡命してきたことも好機となった。」(p.157)
「14世紀から次の世紀にかけて、黒死病と、そして東方のトルコ人の脅威とが、相次いでイタリアを圧した時、知的好奇心や美への希求はかえって人々の存在を根底から揺さぶることになった。死や滅亡に直面し、その悲惨を目撃した人々は、世界の意味に問いを発し、人間のかけがえのない全体性を覚知したことであろう。再生(リナシタ)を唱えた人文主義者たちにとって、生とは喜ばしくもありまた、辛苦と暗礁とにもみちていた。現世を生きる愉楽は同時に人間の苦悩への直面をも含んでいた。だからこそ、ルネサンス人は、熱い心で真理と美とを追求して、称賛さるべき均衡のとれた万能人となる傍ら、死の影に怯え、不可視の亡霊や魔術に身を託し、悪徳と傲慢とを友としたのでもある。実際、ルネサンスの栄光の影には隠微な争闘や、頑迷な迷妄が隠れている。さまでいわずとも、占星術や錬金術、黒魔術や黙示録瞑想など、隠された(オカルト)真理をまさぐる無気味な術知が、大流行した。」(pp.159-60)

ここで興味深いのは、差し迫った危機(自己の破滅)を目の前にして、人間は初めて自己の「実存の何たるか」を意識し始めることになるということだ。ヘーゲルは『法哲学』の中の「戦争論」として知られるくだりの中で、突然外敵が出現し、否応なくどこかへ逃亡(疎開)せざるを得なくなった時に初めて、われわれは自分の財産も生命すらもはかないものだったということに気づくのである、と述べている。ナポレオン軍のイエナ侵攻の経験からの言葉であろう。

「ルネサンス人が、いつも拠り所にした…古代文明は、ビザンツ帝国とイスラムの諸国家によって継承され、地中海文明として成熟をつづけていたのである。…ヨーロッパは長らくこの先進の地中海文明から恩沢を受けず、辺境の地を占めてきた。」(p.163)
「ヨーロッパ人はルネサンスによって、地中海古典文明との間に和解と決着を見出した。ヨーロッパは南岸において地中海に接していた。ローマ帝国の遺産は、細々とではあれ、ヨーロッパ人の財産の一部に収められていた。ビザンツとイスラムの先覚者から、なにがしかの教示を受けてきた。けれども、森と石、都市と農村のひらくヨーロッパ文明は、全体としては、地中海を拒み続けてきた。ルネサンスは、その拒絶の歴史に終止符を打ち、偉大な遺産との和解を進める宴であった。」(p.164)

つづく

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