「五感で捉えられない放射能」とどう向き合っていくか―「風評被害」とは国の責任放棄ではないのか 

福島第一原発事故以降、私の住む東京・小金井市にも放射能が降り注ぎました。無用な被ばくは避けたいと思っているので、洗濯物や水道水、空間線量など気にして生活していたのですが、緊張感を持ち続けるのもなかなか困難です。現在は時折、マスクをつける程度で普段と変わらない生活を送っています。人間の五感で感じとることができない放射能とどう向き合っていけば良いか模索している日々です。

一方で、報道から伝わってくる被災地の様子を見て、「少しでもできることがないか」と、石巻へボランティアにも行きました。しかし、東京での生活もあるので、中長期的に被災地でのボランティアに参加することは困難です。

どこかで誰かが言っていました。「何かできることはないだろうか」これは、誰しも想うことだけれども、大切なのは「私に出来ることは何だろうか」ということ。「私に出来ること」これが、「小金井市放射能測定器運営連絡協議会」(以下、測定室)の活動でした。

小金井市では、チェルノブイリ事故以降、立ちあがった市民の尽力で、市が放射能測定器を購入し、測定室が委託を受ける形で、ボランティアで食品の放射能測定を行ってきました。今年で21年目を迎える測定室。原発事故以降、その一員として関わらせて頂いております。

事故以降、私が違和感を覚えていたことのひとつに、「風評被害」という言葉があります。消費者も生産者も放射能汚染においては共に被害者です。国が測定を行い、基準を超えたものについては保障し、生産者を守るのが本来です。しかし、今日の経済や流通の規模を鑑みる、それらを徹底するのが困難であることも汲み取れます。

消費者としては、単に公表されている情報は本当に信頼できるのだろうかという不安の表れです。情報に対する信頼というのは一朝一夕で得られるものではありません。普段から国や政府を信頼できていたとしたら、この状況においても少し事情が変わっていたかもしれません。つまりは「風評被害」という言葉で、国が責任を放棄しているように感じるのです。

しかし、全てを国に委ねる時代はもう終わりました。国が政府が、と今までのように、文句を言うだけでは何も変わりません。自らの手で自らの暮らしを命を守っていくことが必要になっていきます。ですから、市民が自分たちの手で、放射能測定を行える場というのはとても貴重で大切なものだと思います。震災以降、測定室への見学も増えており、それぞれの場所で測定を行おうという動きが活発になっています。消費者庁も、自治体へ食品等の測定ができる測定器の無償貸出しを始めています。

(PDF⇒http://www.caa.go.jp/jisin/pdf/0907kensakiki.pdf

日本にとっても、また世界においても未曾有の出来事です。汚染が、今後どのように影響していくのか誰にもわかりません。私は、これからも、この小金井に暮らしながら出来る事を続けていきたいと思っています。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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