「人が人を喰う」文革の意味とは――明大現代中国研究所主催シンポジウムを聴いて――

明治大学現代中国研究所主催で「文革とは何だったのか――文化大革命50周年シンポジウム」が10月16日(日)に明治大学駿河台校舎グローバルフロントにて開催された。

徐友漁氏、矢吹晋氏に続く第三報告者カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授の宋永毅氏の報告が圧巻であった。「広西チワン族自治区極秘檔案に見る文革大虐殺と性犯罪」が宋氏の演題である。私=岩田が最も着目した所は、文革期広西チワン族自治区における人肉供食の事実発掘である。宋氏は、そのレジュメに次のように記述する。「相当規模の“人が人を喰う”、すなわち革命大衆の“階級敵”に対する、心臓を抉り出し、肝臓を摘出して食人する風潮が起こり、その犠牲者は302に及んだ。」

私は、宋氏の報告を聞きながら、グリム兄弟の『童話集』を心に想い浮かべていた。グリム兄弟は、ドイツをくまなく歩き、素朴な民衆の語る昔話を書き留め、1812年に『童話集』初版第一版を出版した。ところが、民衆の記憶にある昔話は性的に露骨かつ暴力的であって、中上流の家庭教育にふさわしくない。そんな批判に答えて、第七版まで版を重ねる毎に、初版の残酷で荒々しい表現をけずっていった。「実の母親が娘を殺してその肉を食べるというような話を、良識あるドイツ市民の母親が家庭で子供たちに語って聞かせることなどできないというのである。」(桐生操『本当は恐ろしいグリム童話』KKベストセラーズ、1998年、p.48)「『子供たちがと屠殺ごっこをした話』として原典に収録されている二つの話など、一つ目の話では、子供たちがそれぞれ肉屋・料理番・料理番の下働き・豚といった役を割り振り合い、肉屋役の子供が豚役の子供の咽をナイフで切り裂き、滴る血を下働き役の子供が皿に受ける。続く二つ目の話では、父親が豚を殺すのを見ていた子供が、やはり自分と弟に肉屋と豚を割り振り、豚役の弟の咽をナイフで刺す。駆けつけた母親は、そのナイフを抜き取り、怒って肉屋役の子供の心臓を刺した。そして母親は、首をくくり、帰ってきてこの惨劇を目の当たりにした父親もひどく悲しみ、まもなく死んでしまう。もちろん、この話は子供に読ませるのにふさわしくないという理由で初版以降、削除されている。しかし、これだけ手を加えた後の版にも、残酷なシーンは多々残っている。『盗賊のお婿さん』という話では、盗賊一味がさらってきた娘の服を剥いでテーブルに寝かせ、体を細かく切り刻んで塩をかける。」(p.218) 私達日本人が知っているグリム童話は、1857年の第七版である、と言う。ドイツ社会の近代化のプロセスに適応して、ドイツ民衆の生活史を反映していた生の口頭伝承は、上品な童話になって行く。そうは言っても、19世紀前半のドイツ社会(同業者や批評家)によるグリム『童話集』への批判の焦点は、性関連であって、グリム兄弟が「一番気を配ったのは、妊娠や近親相姦など性をほのめかす表現を徹底的に削ってしまうことだった。」(p.2)「当時の批評家たちも、残虐な場面については問題にもしていない。グリムの時代全体が、こうした残虐性を許容していたのである。」(p.218)

宋教授の報告、「人が人を喰う」文革期の情況を聞きながら、グリム『童話集』のほかに、もう一つ、1848年革命の研究者、故良知力一橋大学教授の一文「カニバリズム雑考」を想い起こした。cannibalismとは人喰いの事である。以下に良知教授の研究を紹介する。

哲学者スピノザの友人ヤン・デ・ウィットが食べられた。ヤン・デ・ウィットは、1625年生れ、17世紀オランダ共和主義の代表で、1653年から72年までネーデルランドを事実上統治する。1672年英仏海軍の攻撃を機に、国内に暴動が発生し、兄のコルネリウスと共に、暴徒に包囲され、虐殺される。その後、作者不詳の「二人の著名な兄弟に関する歴史的回想」記が出版された。それによると、「残虐な暴徒は、両名の死体を絞首台に運び、州会議長を兄より一フィート高く吊るし、そのあと彼らの体を切りさいなみ、着ているものをずたずたに切りさき、・・・・・・。暴徒の何人かは、二人の肉を大き目に切りとり、それを焼いて食べたbroiled and eatのである。」「この非人間的虐殺の模様はきわめて詳細に記録された。なかでもひときわ人の目についたのはヘンリー・フェルホーフという金細工師で、この男はまるで肉屋のように二人の胴体を切りひらき、二つの心臓を取り出して、それをパブへ持って行き、デ・ウィット兄弟の宿敵の祝宴の肴にし、そのあと長いあいだ自分の手元にとっておいたのである。」 友人が食べられてしまったスピノザは、その数年後、哲学者ライプニッツに会った時、自分もまた「ずたずたに引きさかれてしまう危険にさらされていた。」と語っている。ライプニッツの証言である。

このような「人が人を喰う」実例に続けて、良知力は、「アイルランド貧民の子供の肉を食用に売ったらいかがかというスウィフトの『控え目な提案』(1729年)」もある。」と付言する。

「ここでの人食い群衆は熱烈な正統カルヴィン派であり、そのほとんどは貧しい農民と職人だった。食べられたデ・ウィットは異端的アルミニウス派であり、社会的には金利生活的な都市の寡頭制を代表していた。同時代にあらわされた多くのパンフレットが示すように、スピノザとデ・ウィット一味は、“無神論者”であると共に、“凶悪な悪魔”だったのである。民衆が神の恩寵に対する確信にみちみちて“悪魔”の肉を腹に収めたのかどうか、そこまでは資料からはわからない。」以上は、良知力『1848年の社会史 ウィーンをめぐって』(影書房、1986年、pp.207-210)より。

宋氏が発掘し報告された諸惨劇、すなわち軍隊による俘虜虐殺、民衆による暴行・殺人、民衆による女性凌辱、財産盗奪、そして人喰いは、人喰いを除いてだが、1990年代の旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の渦中で発生していた。私=岩田は、極少数とは言え、人喰いさえその痕跡をそこに感じている。当初、そのほとんどは、北米・西欧・日本の市民社会のマス・メディアではセルビア人だけにその責を帰せていた。しかしながら、時の経過と共に、諸事件の複雑な構造が明らかとなり、クロアチア人もボシャニク人(=ムスリム人)も大なり小なり、同じ惨劇を引き起こしていたことが知られるようになった。

文革期の諸悲劇は、半封建・半資本主義の遺制から毛沢東「社会主義」への飛躍を目指して生起した。旧ユーゴスラヴィア多民族戦争期の諸悲劇は、自主管理社会主義から純粋資本主義市場経済への飛躍プロセスで生起した。資本主義先進地域、北西部ヨーロッパの場合、飛躍ではなく、資本主義化の移行プロセスの節目節目で、すなわち1789年フランス革命の流血、1848年全西欧革命の流血、そして1871年パリ・コミューンの流血の時に、同じ質の惨劇が発生していた。第一次大戦は、それら諸惨劇の国家主導の組織版である。第二次大戦は、それら諸惨劇の党主導(ナチス党、共産党、アメリカ党主導)の大組織版である。

宋氏の研究は、私達が視野の中に必ず入れておくべき重大事件の発掘である。しかしながら、宋氏の諸惨劇の解釈は、あまりに「中国的特色」を特記しすぎている。諸惨劇の有する社会経済史的・政治史的・軍事史的普遍性と地域的・国別的特殊性とを複眼視する必要があろう。ヨーロッパのようなキリスト教文明圏では、タブーとなって、公的に記録されなかったかも知れない「人が人を喰う」事象が、秘密とは言え中国では公的に記録されていた。これは、中国における記録文明=史の長い伝統の故なのか。

石井知章明大教授が「ちきゅう座」ネットで「文化大革命50周年シンポジウム」を広報してくれたおかげで、大変に勉強させていただいた。記して感謝。

平成28年10月17日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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