「伊方の家」は伊方原発から10km地点、JR八幡浜駅近くの鉄筋アパートの一角にある。12月半ばから常駐の予定でいたが、11/30~12/2の愛媛行動のため、急きょ一先ず11月25日から10日間赴くこととなった。これはその期間の報告ということで、No.0ということにした。言わば準備報告という意味でNO.0とした。12月半ばからの常駐以降、週に一度くらいは報告を届ける予定でいる。(Y・T)
11月25日(月)午後3時過ぎ、八幡浜駅に降り立った時、近藤さん、Hさん、M子さんの3名の方の出迎えを受けた。近藤さんは明日から松山の病院に何度目かの入院ということだそうだ。いろいろ迷いつつ他の用件をキャンセルして今日来てよかった、入院前にお会いできてよかったと心から思った。
広めの2DKの部屋には本当にいろいろなものが用意されていた。地元の方々の気配りというか心遣いが身に沁みるとともに、期待の大きさを感じる。炬燵の上には「伊方の家・家計簿」と書かれたノートが置かれていて、ここが「伊方の家」と名付けられたのを知る。
近くの大家さんちに挨拶に伺った後、」動くためにともかく自転車をと思ったら、早速近藤さんが家にあるのを貸してあげるというので、4人で近藤さんの家まで往復する。
2日目、午前中にアパートの近辺で預かっていたチラシの戸別配布をする。200枚はすぐに終わった。明日から配布するチラシをいただきに斉間さんのところに伺う。途中、自転車で通ったアーケードのあるL字型の長い商店街はあまりのシャッター街に衝撃を受けた。市役所界隈も日が明るい時間帯であったが、人気がなく静まり返っていた。宇和海の海の幸と有数のみかん産地としての山の幸に恵まれた八幡浜市のこの様子は、地方の中小都市が置かれている状況について考えさせられるものがあった。
夜、今治のIさんに電話して、旧保内町の伊予灘に面した磯崎にチラシ入れに行きたいからと、12/1の準備で忙しい中、車での出動をお願いし、翌々日に来てくれることに・・・。
3日目は線路近辺を散策しながら戸別チラシ配布を行う。斉間さんやM子さんが日用品や食べ物をいろいろと運び込んで下さる。風邪をひいたのか、夜になって鼻水が出、少し熱も出ているようだ。東京のK君と電話で話したら鼻声になっていると指摘される。風邪薬と玉子酒を飲んで寝たが、夜中に、K君の助言に応じて差し入れの愛媛みかんをいくつも貪る。
4日目、朝から小雨模様。風邪もまだ残っているようだ。磯崎へのチラシ入れは止めようかも思ったが、Iさんは既に今治を出て向かっているという。するとM子さんからTELがあって、自分も今日磯崎のチラシ入れに行くと言う。こうなればもう止められない。覚悟を決める。磯崎にこだわったのには理由があった。確か1975年頃に結成された「公害問題研究若人の会」の人たちが40年近くたって60代となった今も活動されていることを聞いていたからである。1980年の核燃料搬入阻止の海上行動で搬入船を立ち往生させ、8名の逮捕・家宅捜索等地域ぐるみの弾圧を受け、地域ぐるみでそれと闘った経験を持つこの地域は、今も反原発の気持ちが強く、情宣に行っても反応が良いと斉間さんに聞いていたからである。事実、木田さんの巡回車座会の時にも若人の会の方たちが出席し、近藤さんが再会をとても喜んでおられたと、奥野さんから聞いていた。だからここにはどうしても12/1~2についてのチラシを配っておきたかった。
小雨が降り続く中、漁師町特有の細い入り組んだ路地を伝いながら、私とM子さんで2時間近くチラシを配り歩いただろうか。心臓に持病のあるIさんは浜辺の海底をいろいろと調べていた。彼は高校時代から海の生物に関心があり、生物クラブで伊方や磯崎の磯の生物調査をしたのが、反原発活動に入っていったきっかけだったとか。その後も、磯崎には何度も訪れたそうだ。
ごぜトンネルを抜けるとみぞれ交じりの雨となっていたが、帰り着いた頃には雨も上がり、私の風邪もすっかり良くなっていた。
5日目(29日)、今日はM子さんが半島の先端に近い三崎に患者さんの定期鍼治療に行くというので、同行させていただく。M子さんは八幡浜でみかん農園を営みつつ、市街地でご夫婦で鍼治療院を営んでおられる。半島はもとは伊方町・瀬戸町・三崎町の三町からなっていたが、2005年の平成の大合併で一つとなり、現在の伊方町となっている。
三崎は、10月下旬に訪れた時からそのたたずまいや雰囲気がとても気に入った小さな港町で、大分の関に通じるフェリーの発着場ともなっている。もともと反原発の気運が強いところだったのが、3/11以降、伊方原発でひとたび過酷事故があれば自分たちは逃げられず、見捨てられてしまうということで、先日の避難訓練に対しても批判的な意見が強かったと聞いている。明日はここに、東京からのバスツアー組が訪れ、戸別チラシ配布をすることになっている。ということで、今日はM子さんを待つ間、ゆっくりと喫茶店でコーヒーを飲んだり、漁協の直売所のおばさんと話し込んだりして、のんびりとした時間を過ごした。
帰り道、この半島出身のM子さんからこの半島に生きる人たちの様々な生きざまの一端を伺った。途中の瀬戸のあたりにはM子さんの実家の所有地だったところにプルサーマル反対の原発さよなら四国ネットの看板が立っていた。また崖地にへばりつくようなみかん畑が有名な潮見みかんの産地ということであった。八幡浜に戻ってM子さんちの鍼治療院でご夫婦や友人と一緒に昼食をご馳走になり、帰り道、持っていたチラシを戸別に配り歩く。「伊方の家」は充分徒歩圏内だった。
11月30日昼ごろ、「伊方の家」で常駐することになっているクマさんが大阪から3人で車でやってきた。休む間もなく早速いろいろな荷物を積み込んで、伊方へと向かう。2時にきらら館で東京からのバスツアー組と合流する予定になっているが、少し時間があるので、その間に、原発と三崎の中間にある瀬戸にチラシ入れに向かう。瀬戸は原発と同じく伊予灘に面しているのであるが、そこの三机湾は1981年に魚の大量死があったところである。県と四国電力は結局その原因究明をうやむやにして3号機建設に強行的にふみきったのであった。その後、伊方原発近辺では7回もの魚の大量死があり、海一面が魚の死体の腹で白くなったそうである。酷いときにはそれは祝島まで続いていたという。
晴れた昼下がり、瀬戸地区は本当にのんびりした穏やかな空気がながれていた。堤防で釣り糸を垂れている何人かの釣り人以外には人影もなく、静まり返っていた。戸毎にチラシを入れて回ると、地域の高齢化が進んでいることと空き家が目に付いた。配り終える頃、日向ぼっこしている年老いた女性と少し話し込んだ。原発への不安や、かっての漁協切り崩しのやり口への批判を口にしていた。事故が起こればここは逃げ場がなく見捨てられること、若い人たちへの心配を言い、頑張ってくださいとの声をもらったが、自らはもはや諦めているような口ぶりが気になった。
PR館で東京からの人たちと一緒になり、屋上から原発の全景や正面奥に霞んで見える祝島を見やりながら、いつかゲート前一帯や海が人々の列や船で埋められ、今は鬼籍に入った人たちの無念とともにこの原発にとどめを刺す時が来ることを夢想した。
手違いで三崎でまくチラシの用意ができていないということで、大急ぎで町役場近辺のコンビニに行ってコピーをし、そのまま三崎に向かい、そこでバス組と落ち合う。そこでチラシをツールとして地元の人たちと話をするということで、三々五々家々を回る。翌日聞いた話では、たんぽぽ舎のYさんが家に招き入れられて話した老女性は、なんと昨日M子さんが鍼治療に訪れた方であったそうな。
夜は大阪からの3人の強行軍の労をねぎらいつつ、魚を買い込んでの鍋で話し込んだ。
12月1日(日) 今日はいよいよ「NoNukesえひめ」の日である。何よりも天候と集まる人数のことが気になる。事前の予測では5000人集まればよし、ということだそうだ。朝早く車で向かう。会場に着いた時は正面のあたりが既に場所取りのシートが敷かれ、真ん中の通路にはブールが立ち並んでいた。そうこうするうちに全国からの幟旗がいっぱい用意され、立ち並ぶ。続々と人が詰めかける。集会が始まり、若い人たちの音楽と様々な人のスピーチが続く。会場では入院中の近藤さんが医者の許可を得て姿を見せておられる。M子さんは今日は夫婦での参加で颯爽と会場を歩いている。八幡浜原発から子供を守る女の会の人たちは有機農産生協のブースに陣取っている。原発さよなら四国ネットワークのブースでは、Iさんが2日間にわたって仕込みをした鯛めしやカニ汁に長蛇の列。無茶茶農園のブースで挨拶をし、自然派生協のブースでSさんに紹介をしていただく。
午後に入って途中で雨が降り出したが、立ち去る人もなく次々と力強いスピーチが続き、集会参加者が8000名と発表されて会場は湧く。最後に斉間さんが40年有余にわたる闘いの中で最大規模の集会となったことに、感激のスピーチをされて、鎌田さんの鬼籍に入られた人たちに想いをこめたスピーチと重なりあって、長い闘いの歴史に想いをはせる。今日の大集会はきっと伊方をはじめとする30㎞圏―南予の地にも確実に影響を及ぼすに違いない。
市中デモの後、翌日に備えて全国の幟旗等を車に積み込み、夜の全国交流会場に向かう。この時のためにIさんが丹精込めて仕込んでくれた料理と飲み物を運び込んで、交流会は熱気に包まれて始まった。地元から伊方原発反対八西連絡協議会(近藤さん)八幡浜原発から子供を守る女の会(斉間さん)原発さよなら四国ネットワーク(松尾さん)南予住民交流会(堀内さん)とスピーチが続き、そこで廊下に並べられた食事を美味しくいただく。
交流会の参加者が80名の予定をはるかに超えて112名と発表されて、第2部が始まった。駆けつけて下さった鎌田さん、阻止ネットから柳田さん、1000万人アクション事務局から藤本さん、反原連からミサオさんとスピーチが続き、そのあと「伊方の家」の紹介、支援とカンパの訴え、そして活動報告と続く。それからは北海道・泊から九州・川内まで、怒涛のごとく各原発現地の報告が続いて、交流会は大いなる盛り上がりのうちに終わった。そこから八幡浜まで車で引き揚げたが、今夜は別の2人組を加えて5人の大所帯で睡眠を取る。
12月2日、朝起きると愛媛新聞に昨日の集会とデモが写真入りで大々的に報じられていた。それを貪り読みながら車に全国の幟旗や午後の講演会に用意するものを積み込んで、八幡浜駅前に集合。10数人が集まって、それぞれ車に分乗して伊方原発ゲート前に向かう。ゲート前に着くとみんなで幟旗をセットしフェンス沿いに立ち並べる。松山からのバス組も到着して総勢100名、原発を見下ろしながらゲート前からフェンス沿いにヒューマンチェーン、そして全国からのリレートーク、四国電力への申し入れと続いた。3/11後、最初は3人から始まって毎月11日にゲート前座り込み行動を続けている斉間さんの表情も、今日は誇らしげに輝いて見える。
そのあと、きらら館の方に上がって、若者連合が用意した風船上げ行動に参加。糸がもつれあって解きほぐすのに苦労しつつも一斉にあげると、風船は宇和島方面に向かって舞い上がっていった。ちなみに風船はエコ風船で、時間とともに溶けて土に還元されていくという。
12時を過ぎたところで伊方町役場に移動し、伊方町への申し入れ行動へ。80名ほどで政策推進課原子力対策室と議会事務局に申し入れ書を渡し、いくつかのやりとりを行った。事故時の汚染水対策については今まで全く考慮してこなかったことを認めたうえで、ひたすら規制委の検討と判断をあおぐ考えであるとか、事故時に半島の大半の人々が被曝なしに避難できる方法が現在見当たらいないことを認めた上で、その方法を検討中であるとか、再稼働推進との矛盾を自己暴露する発言もあった。
申し入れ行動を終えると、一行は伊方をあとにして八幡浜市の「みなっと」へ。港と隣接して道の駅と交流センターを合わせて今年5月に完成した、全国から公募した公衆トイレが自慢の施設。一行が昼食休憩をとっている間に、街中の目立たない公民館にある午後の講演会場に向かい、Hさんがかいがいしく動き回っている会場設営を手伝う。元東電技術者で高知に避難され、そこでエネルギー自給生活をされている木村俊雄さんは、東電が公開した最新データの解析によって地震による配管断裂が事故原因であることを明らかにし、省エネ生活と電力自給の工夫について興味深く話された。東京からの参加者17名を含んで、60数名の和やかな集まりであった。市議・町議と思われる方も何名か目に付く。1年半ほど前に経産省前テントに来られて何時間か話し込んだ伊予市のMさんと再会し、感激。クマさんたちは木村さんを宇和島まで車で送っていき、先に帰って食事をつくって待つ。3人で食事しながら、「激動の3日間」が無事終わったことを実感し、眠りにつく。
12月3日、「激動の3日間」の疲れを癒しに、3人で半島の亀ケ池温泉に行く。伊方原発よりもう少し先のところを左に降りた宇和海側にある町営の日帰り温泉で、1500m地下から汲み上げているそうだ。ゆったりとした施設で、もしかしたら地元のお年寄りと話をする機会があるかも・・・と思いながら、露天風呂でのんびりとリラックスして心身の疲れを解きほぐした。クマさんたちは夕刻大阪に向けて帰って行った。4日間、目いっぱい車を運転してくれたクマさんの相棒に感謝。
近藤さんにお電話すると昨夜退院されたとのこと。明日、Hさんと一緒にお話に伺うことを約束。
12月4日、今日で「伊方の家」の生活も10日目を迎える。午後、松山からバスでやってきたHさんと落ち合って近藤さんのところに伺った。来年4月の町長選をめぐる動きと、これまでの町長選挙など原発利権をめぐる伊方の政治構造の話が強く印象に残った。ちなみに来年4月の町長選挙に立候補を表明しているH氏は05年の町長選で当選した2か月後に収賄罪で逮捕され辞任した経歴の持ち主であるとのこと。
今後の活動について、規制委の審査状況や3月議会のことなどを話題にしながら、以前から話に上っているシール投票のことなどを話し合った。
帰り道、Hさんに食事をご馳走になりながら、これからのことをいろいろと話し合う。南予は松山から見ても悠久の時が流れているように感じるから、焦らず粘り強くやらなければ、と助言を受ける。ともかく、明日いったん東京に帰って12月半ばに戻ってきたら、年内に「伊方の家」にできるだけ多くの人が集まってお披露目と忘年会を兼ねた集いをやろうと約束した。12月の11ゲート前行動に参加できないのは心苦しいが、それにはクマさんに参加してもらい、同日対規制委行動で連帯することを伝えて、再会を心待ちにしながら別れた。
こうして10日間の「伊方の家」準備活動はひとまず終わった。 13.12.10
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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