『何をなすべきか』というのはあまりにも有名なレーニンの本である。僕らが学生のころ、それは今「輝ける1960年代」と回顧される時代であるが、まだ、レーニンの本は影響力があり、よく読まれていた。難解な本であったが、ロシア革命の権威が残っていて結構読んだのである。僕はここで自分のレーニンについての経験やレーニン論を披歴するつもりはなく、『何をなすべきか』を取り出したいのではない。著作のことではなく、「何をなすべきか」という言葉を使いたいと思うのだ。俗にいえば枕言葉風に使いたいのだ。それは何かにつけてこの言葉が口について出るからだ。今、レーニンの著作をあらためて読も気はないのだが、それとは無関係に「何をなすべきか」という言葉は口にのぼるのである。時代に向かっての呪文のように出てくるのであり、自然に呟いている言葉なのだ。これは世界と自己の関係を表象する言葉であり、意識のある状態を示していて、自問自答に随伴しているものかも知れない。そして、また、何よりも解答の出しくいものであるのだろうと思う。「何をなすべきか」へのこれはという答えは出ないものだろうが、しかし、そういう自問は不断に出てくるものなのだと思う。
過日、吉本隆明を偲ぶ「横超忌」があった。二回目だった。思えば、速いもので彼がなくなってから二年が過ぎたのであるが、僕は今でも吉本隆明ならこれをどう考えるのだろう、と対話を求めてしまっていることも多い。この「横超忌」に出ながら、彼の思想から一番の影響を受けたのは何だろうと考えた。それは想像以上に大きいものだったのだろうが、彼が人間の戦場は三つあるという形で提起してきたものではなかと思った。三つの戦場とは、社会的なことと家族のこと、それに自分の内面のことである。これを彼は共同の世界、家族の世界、自己の世界と呼んだが、人間はこの三つの世界に独自の位相をもって関わっているのである。僕らの身体は一つであり、その身体は一つの行動としてあるのだが、その身体や行動は三つの世界(対象)を持ってあるのだし、それらは相互に関係するにしても独自の位相を持ってある。自分の老いゆく身体のことを含めて自分の内面のこと、あるいは家族のこと、また社会のことを差のあることとして考え、行動しているのであって、自分の中では自然と総合化もしているが、差を持って考え、対応していることがあるのだと思う。僕が現在のことを考え、「何をなすべきか」と自問していても、この三つの世界ということを踏まえている。これは人間の存在の仕方でもあるのだ。
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