書評:『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』 大木 毅著(岩波新書2020)
「独ソ戦」について書かれたものはこれまで数冊通読したことがあった。
それらの本からつくられたイメージでは、軍事力で圧倒的に優越しているナチス・ドイツが「独ソ不可侵条約」を一方的に破棄して東欧、ソヴィエトへの侵略を開始し、たちまちのうちにウクライナを制圧、一気に首都モスクワまで攻め入ったこと。その結果、スターリングラードやモスクワ市街地でソ連側の祖国防衛軍との間に「文字通りの死闘」が繰り広げられた揚句、ドイツ軍はナポレオンのときと同じくロシアの「冬将軍」に敗れて、撤退せざるを得なくなった、というストーリーである。
こうした物語のかなりの部分が、パウル・カレルが書いた『砂漠のキツネ』『バルバロッサ作戦』『焦土作戦』などに影響を受けていると言う。だが、著者大木によれば、最近の研究でそれらは歴史的事実の上からは正確性に欠けることがわかったという。
「パウル・カレル(本名パウル・シュミット)はナチ政権下での外務省報道局長であった。…カレルのナチ時代を暴いたドイツの歴史家ヴィクベルト・ベンツは、独ソ戦をテーマとした『バルバロッサ作戦』と『焦土作戦』を精査したが、(ナチス)国防軍の蛮行について触れた部分は、ただの一か所もなかったと断じている。」
いくつかの問題について
大木は、従来の研究書を丹念に調べながら、「独ソ戦」の経緯をこの本の中で精確かつ実証的に追いかけている。
特に興味をひかれるのは次の事柄である。スターリンの大粛清の結果、ソ連側祖国防衛軍の弱体化がおきるのであるが、まるでこれに相呼応するかのように、ヒトラーの自信(自己過信)がなさしめたのが、参謀を含む将軍連の頻繁な首のすげ替えであったという。また、ヒトラーの世界構想とこれら上級将校たちの軍事的視野との間にはかなり大きな相違があり、その対立の根底には、ドイツの国防軍、特にその上級将校たちが、ナチの時代にあっても、旧ユンカー時代の意識を持ち続けていて、ある意味で自立的存在(ナチとは一線を画する)であったという指摘は面白い。確かに、ヒトラーとゲーリング(エリート出身)の間の対立が問題にされたことがあった。
更にドイツ軍の敗退の原因は、たんにロシアの「冬将軍」に対する備えの不備からのみ説明されうるのではなく、ソ連側の勝利は、従来の「戦略論」「戦術(戦闘)論」に加えて「作戦術」という新たな思考法を導入した結果の、ある種の戦争論上の勝利でもあったという点も興味深い。
しかし、この書評(小論)の限りでは、これらの事柄について触れられた箇所を若干引用する程度にとどめ、詳細にはふれえないことをお断りする。興味のある方は、直接この書物に当たることを願いたい。
扇動され、やがて侵略の「共犯者」になったドイツ国民
それよりも、この書評を通じての問題意識としては、<ドイツ国民は、なぜこのような無謀で過酷な戦争を、しかも長期にわたって(1941年6月から1945年5月7日の無条件降伏にいたるまで)絶え凌いできたのか(絶え凌ぐことができたのか)>という点にある。この問いは、いろんな研究書の中で問われつづけたいわば古典的なアポリアであり、われわれにとっても絶えず鬱々と頭の中でくすぶり続けていた事である。この書物の中の大木の説明だけで十分満足しうる回答をえたとは言いえないが、しかしかなり大きなヒントを貰ったようには思う。
この大問題に、著者は二つの側面から回答を提示している。
大木が提示した第一の回答は、この戦争がイデオロギー的には「民族戦争」として仮構され、民族感情に深く浸透した点にあるということである。敵方の勝利は味方人民の残虐な皆殺し(民族的根絶やし)を意味するが故に、何としてでも戦争に勝利する以外にないという「悲壮な決意」が双方において呼び起こされたからだという。この本の中で、ナチス・ドイツ側も、またソ連側においても、たがいに相手側捕虜への仮借ない扱い方が凄惨極まりないものであったことが指摘されている。拷問、強制労働での酷死そして餓死やガス室(ナチの場合)により大量の人間(捕虜の兵士や民間人)が死んでいる。もちろん国際法上の違反である。
例えば、富田武が日本人捕虜の扱いと対比させながら書いていたもの(『シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』富田武著 中公新書)によれば、ドイツ人捕虜に対するソ連側の対応の苛烈さは、日本人捕虜に対するよりはるかに酷かったという。
たがいに「民族憎悪」が煽られ、それだけに「恐怖心」が煽られた結果、「やめられなくなった戦争」という中身が付与されたと推量される。
この本の引用などによって、もう少しこの辺の事情を順を追って見て見たいと思う(引用の仕方は必ずしも本文に正確ではなく、文章も適宜書き換えている)。
まず、ヒトラーの世界観=戦争目的についてはつぎのように触れられる。
「ヒトラーが、東方植民地帝国の建設を戦争目的に据えていたこと…(その)中核になるのは、フランス領のかなりの部分、旧チェコスロヴァキア領のボヘミア・モラヴィア地域、ポーランドのすべてを併合し、大幅に拡大された『大ドイツ国』である。これに、西方やバルカン半島の諸衛星国が従う。この大国となったドイツを支える植民地が、ヨーロッパ・ロシアに築かれる。沿バルト海地域と白ロシアを統治する『オストラント』『ウクライナ』、ロシア内陸部を統括する『モスクワ』『コーカサス』の四つの国家弁務官区である」。
この世界観が、ナチス・ドイツが掲げた「優秀民族としてのドイツ人」(北方系のアーリア=「高貴な」人で、金髪碧眼の人種)思想に裏打ちされていることは言うまでもない。これに対して、スラブ系の民族は、劣等民族であり、奴隷に甘んずべきであるとされる。
因みに、ドイツ語の奴隷(Sklave、英語ではslave)という語彙は、スラブという単語からの派生である。
このヒトラーの壮大な構想(「第三帝国」構想)と確固たる信念(世界観)は彼の自死に至るも微動だにしなかったようで、その「遺書」にさえ、最後まで徹底抗戦すべきと指示されていたという。
また、モスクワでの凄絶な攻防戦の敗退後、ドイツ軍司令官マンシュタインによる最後の反撃もむなしくソ連軍の追撃にあい敗走した時に、「戦術的講和」という策が具申され、話し合われたというが、ヒトラーはそれをも断固として拒否し、最後まで「一歩も退いてはならぬ」という総統命令を出し続けたことにも彼の信念の固さが見て取れる。
以下、少し長いがこの条を引用しておく。
「1944年3月、エーリヒ・フォン・マンシュタイン(ドン軍集団の司令官)は、退却により空間(占領地)を犠牲にすることになろうと、ドイツ軍の戦力を温存し、それを使ってソ連軍に出血を強いることにより、敵を戦争に疲れさせ、妥協による講和を導きうると考えていた。しかし、ヒトラーは、世界観戦争と収奪戦争を優先させ、その妨げとなる占領地の放棄を肯んじなかった(ヒトラーのこの考えは最後まで変わらなかった)。…このような認識の違いは国防軍だけでなく、ドイツの内外においても見られる。実際、ソ連との戦争を通常の和平交渉によって終わらせようとする動きもあった。例えば、同盟国日本は、ドイツの戦力を吸収し、対英米の戦争努力を阻害する独ソ戦を終わらせたいと様々なアプローチを試みていた。そもそも、1941年11月15日の大本営政府連絡会議で決定された戦争の基本方針『対英米蘭(和蘭)蒋(蒋介石国民党政権下の中国)戦争終末促進に関する腹案』には、『独「ソ」両国の意嚮に依りては両国を講和せしめ「ソ」を枢軸側に引き入れ』る策が挙げられていたのである。これは、外務省の主導によるもので、海軍も賛成していた。この方針を受けて、1942年2月から3月にかけて、海軍軍令部が駐日ドイツ海軍武官に独ソ和平を打診した。同3月、東郷茂徳外務大臣も、駐日ドイツ大使と独ソ和平の条件に付いて話し合っている。【この段階では、リッペントロップ外務大臣によって拒否されたが、戦況悪化につれて、逆にリッペントロップは日本の対ソ参戦を慫慂する一方で、スウェーデンでソ連側との接触を始めている。しかし、ヒトラーは政治的解決の可能性を排除した】。また、ムッソリーニもスターリングラード敗戦後、ソ連との和平をヒトラーに訴えていた」。
対するソ連側はどうだったのか。
ウクライナ戦役での完膚なきまでの敗退と、その後のスターリングラード、モスクワでの血みどろの攻防戦の中で、スターリンは「共産主義インターナショナル」という旗を投げ捨てたのである。そしてそれに代わり、伝統的な「ロシア民族主義」が登場する。「大祖国防衛戦」の始まりである。
「少なからぬ旧ロシア軍将校が、祖国の統一を維持できるのはボリシェヴィキだけだと判断して、赤軍に協力した…。目立たぬうちに、ボリシェヴィキとロシア・ナショナリズムの提携が始まっていた。第二次世界大戦を経て、この過程を完成させるのはスターリンだ」(『ロシア革命-破局の8か月』池田嘉郎著 岩波新書)
「1941年11月7日の革命記念日、スターリンはモスクワの地下鉄の中で演説し、…社会主義からナショナリズムへとイデオロギーの基調が変わった」
「大祖国戦争という表現はまさにナショナリズムとの和解に他ならなかった」
(『ソビエト連邦史 1917‐1991』下斗米伸夫著(講談社学術文庫2017)
確かに、民族的憎悪(裏返しの恐怖)に追い立てられていたとしても、なお次の疑問は残る。
地獄への道は花で飾られている-安逸な生活の裏では「貧困」が蔓延している
「しかし、ヒトラーはそうであったとしても、ドイツ国民はなぜ、絶望的な情勢になっているにもかかわらず、抵抗をつづけたのだろう」か? これは言い換えれば、ドイツ国民をナチス・ドイツの「共犯者」に仕立て上げた、その拠って立つところとは何であったのかという深刻な問いに繋がる。
この点に関する著者のもう一つの回答には大いに留意すべきものがある。それは、国民を戦争へと繋ぎとめるために、ヒトラーとナチ政権が、戦時中にもかかわらず「ドイツ国民の生活水準維持」に努めたことである。
そして、そうであったが故に、著者はこの戦争を通じてドイツ国民はナチス・ドイツの「共犯者」であったと見なしているのだ。このことはきわめて重要な指摘であると思う。
しかし、なぜそういうことが可能であったのか。
以下の引用は少々長く、前後順不同であるが、非常に重要な個所なので我慢願いたい。
「…近年の研究では、ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ドイツ人であるだけで他民族に優越しているとのフィクションにより、国民の統合を図った。しかも、この仮構は、軍備拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。こうした政策がとられた背景には、第一次世界大戦で国民に耐乏生活を強いた結果、革命と敗戦を導いた『1918年のトラウマ』がヒトラー以下のナチ指導部にあったからだという研究者もいる。…1930年代後半から第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるが故の特権維持を可能とした。換言すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の『共犯者』だったのである。それを意識していたか否かは必ずしも明白ではないが、国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停止、更には、収奪への報復を意味していた。故に敗北必至の情勢になろうと、国民は戦争以外の選択肢をとることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけたというのが、今日の一般的な解釈であろう」。
「首相となったヒトラーは、軍備拡張を実行したが、国民に犠牲を強いることは避けた。体制への支持を失うことを恐れたためだ。その理由について、ヒトラー以下、ナチス・ドイツの首脳部には、第一次世界大戦の際、国民に負担をかけた結果、革命によって国家が崩壊したことへの懸念、『1918年のトラウマ』があったと、イギリスの歴史家ティモシー・メイソンは論じている。だが、戦争準備と国民の生活水準維持という二兎を追ったことは、ナチス・ドイツの国内政治に緊張をもたらすことになる。まず、財政の逼迫が生じた。軍拡や公共事業に要する財源は、当然、国家が確保しなければならない。そのためヒトラーは、あえて赤字支出を選んだ。増税によって国庫の収入を大きくすれば、国民の不満が高まるからであった。次いで、貿易の分野でも『危機』が顕在化した。いわゆる『持たざる国』であるドイツが軍拡を行おうとすれば、兵器生産のために大量の原料を輸入せざるを得ない。だが、外国から原料を得るには外貨による支払いを必要とするから、大規模な軍拡は、外貨準備高の急激な沈降につながる恐れがあった。それを避けるため、外貨を使わぬバーター協定によって、工業製品と引き換えに、東南欧諸国から原料や食料を輸入する政策が推進されたものの、ナチス・ドイツが進めた再軍備のスケールからすれば、焼け石に水だった。結果として、1936年には、ドイツの原料備蓄と外貨準備高は、ほとんど底を打つに等しい状態になった。ところが、こうした『危機』のさなかにおいても、国民が不満を持たぬよう、貴重な外貨を使って、嗜好品や衣料の輸入は継続されていたのである。例えば、1938年から39年にかけての煙草、コーヒー、カカオの輸入量は、1929年の恐慌以前、ドイツがなお好況を享受していたころに匹敵するほどになっていた」。
実際にヒトラーやナチス・ドイツに関する多くの研究書が、ナチの国内諸政策のち密さ、巧みさ、それによる国民的支持を裏付けている(例えば、『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員10人の思想と行動―』ミルトン・マイヤー著 田中浩、金井和子訳:未来社 や『ヒトラーを支持したドイツ国民』ロバート・ジェラテリー著 根岸隆夫訳:みすず書房、をご参照願いたい)。
もちろん、多くのプロパガンダによる大衆誘導や誤魔化しがあったことも事実である。
しかし、一方で「軍拡」による国費の乱費をやりながら、他方ではドイツ国民であるが故の特権(高い生活水準の保証と社会的勢威の上昇)維持、この両者を同時に可能とするための他国への侵略と収奪、捕虜への容赦のない奴隷労働の押しつけ、このような「拡張政策」がナチス・ドイツの政権とドイツ国民の生活水準を支えていたということができる。
この本は「独ソ戦」を扱ったもので、ナチス・ドイツを主題にしたものではないので、ある意味で当然なのかもしれないが、あえて注文を付けるとすれば、このような「拡張政策」の背後にあるドイツ・カルテルとナチとの結びつきがほとんど触れられていない点は残念である。
「ドイツ・カルテルの連中が、ヒットラー独裁の背後に潜む真の力であり、この連中の資金と影響力がナチの権力掌握を可能ならしめたのだ。連中の組織的な経済戦争が、ヒットラーの武力侵略の前奏曲を奏でた」(ハーレィ・M・キルゴァ)
「(戦後押収された)証拠が示したところでは、ファルベン(IG.Farben)は『名目上は一介の私企業であったが、実はドイツ国家に仕える巨大な帝国』であった。―それは少なくとも、380のドイツの会社を支配し、世界93カ国にわたって散在した500以上の会社を保有していた。同社は、地上における最大最強の化学トラストとして、多くの国の諸会社と2000以上のカルテル協定を結んでいた。…1933年2月に他の大工業と共に、ナチ党の選挙資金として120万ドルを寄付…『事実上ドイツ政府の研究機関のように機能した』」(『独占資本の内幕』D.マッコンキィ著柴田徳衛訳 岩波新書)
まだまだ触れたいこと、触れなければならないことは山ほどあるが、おそらくそれは「書評」という埒を超えてしまうであろうし、到底小論という形では納まりきれないであろうから、次の言葉を結びとして、とりあえずはここでひとまず筆をおきたいと思う。
「すべては疑いうる」。政・財界から発せられる「新型コロナ」禍へのその場しのぎの対応も、先日の半澤ひろしさんのご指摘(ちきゅう座1月11日掲載)https://chikyuza.net/archives/108161 にあるように、新自由主義政策による「医療合理化」の結果として反省するとき、その欺瞞性は明白である。
「『誰がヒトラーを選んだのか』だけでなく『なぜ彼らはヒトラーを選んだのか』を問わなければならない。-大衆運動の社会的構成や選挙基盤だけを見ても不十分。その運動の推進力となっていた人々がどのような性格の人々であり、どのようなイデオロギーに駆り立てられ、どのような期待をもって運動に参加していたか、を具体的にとらえることが必要-S.ノイマンの『危機の三階層』(『失意の中間階級』『社会に根をもたぬ失業者群』『第一次大戦生き残りの失職軍人』)+『若者の反逆』」(『ナチ・エリート 第三帝国の権力構造』山口 定著 中公新書)
S.ノイマンの「危機の三階層」の中のいくつかは、今日の日本社会の危機状況の中にも確実に見て取れるように思う。
2021.1.14記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0966:210114〕