「共謀罪」法成立で想ったこと

「共謀罪」法が成立した6月15日夕刻、私は国会正門前の抗議集会に参加していた。

57年前の1960年6月15日、私は国会前のデモの隊列にいた。夕刻だったと思うが、南通用門を押し開けて隊列が国会敷地内に入った途端、待ち構えていた機動隊の警棒の雨がデモ隊を襲った。

私のすぐ前にいた樺美智子さんが機動隊に虐殺された。私たちは議員面会所の裏庭で、周囲を機動隊に囲まれて拘束された。時間が経過して、トイレに行かせろと要求していると、社会党の秘書団が人権問題だと強く抗議して人垣を作って議面のトイレに誘導してくれて、私たちのトイレの窓から脱出した。

当時、私は杉並区井荻に間借りしており、すぐ裏の通りの向側は武蔵野市吉祥寺で、数日後、裏の通りを散歩していると、葬儀の花輪が並んでいた。ふと見ると、樺美智子さんの葬儀の花輪だった。

6月15日付朝日新聞の夕刊に、雨宮処凛さんが「ガサ入れ」体験の恐ろしさを語っている。

戦中の横浜事件や、戦後の志布志事件だけでなく、今年の1月、埼玉県加須市の59歳の市職員が反原発の仲間とレンタカーを借りて福島県楢葉町を訪れた件で、「白タク」行為に当たるとして、21日間拘束されている。

最近では、安倍ベッタリのジャーナリスト山口敬之が強姦容疑で高輪署から逮捕状が出ていたのを、警視庁中村刑事部長がもみ消し、中村は「共謀罪」の組織犯罪部長に昇格している。菅生事件の戸高公徳を思い出す。

私の少ない経験からも「共謀罪」がなくても治安維持法の思想は公安警察に受け継がれて、政治活動だけでなく環境問題、市民活動をする者を監視しているのである。

1965年頃のある朝、4~5人の警官が住んでいた小岩のアパートのガサ入れに来た。寝ていた私は起こされ、理由を聞くと、選挙違反の容疑だという。私は選挙運動に関係したことはなく、手当たり次第に住所録などを押収しようとするので争った記憶がある。

それから2~3年後、小岩でビラ貼りをしていて、小岩署に連行されたことがある。そこで六法全書ほどの厚みのあるファイルを見せられた。私の横顔の写真の首には6桁ほどのナンバーが打たれている私個人に関する情報である。私のような小市民まで監視されているのかと、空恐ろしくなった。私は立派な思想犯になっていた。

1968年ごろ、数寄屋橋でデモ隊の座り込みの指導をしたとして、執拗に警視庁公安2課につきまとわれた。警視庁に出頭すれば逮捕しないというので、弁護士と相談して出頭した。金属探知機をくぐり地下の取調室で聞かれたことは「デモの座り込みなど問題ではない。社会党の先生方は議会制民主主義だが、あなたがたの思想は暴力革命を志向しており、警視庁はその思想は絶対に許さない」、という公安からの脅しであった。思想信条の自由は、公安警察には通用しないのだ。

この頃、私は上一色(現在の西小岩)の一軒家を借りていたが、警察は、家主の母屋の二階の長男の部屋に上がり込み、私の家の出入りを監視していた。1970年頃、転居するので家主に挨拶に行った時に家主から初めて明かされた。

71~2年頃、妻の弟(大学1年)が駒場の街頭デモで逮捕された。未成年なので家庭裁判所からの出頭要請のはがきの通知が隣家に届けられた。盗聴などとともに近隣住民に広めて委縮させる公安の常套手段だそうである。

75年6月、日本化学工業㈱の六価クロムの公害を公表すると、警察の執拗な嫌がらせが続いた。ある日、自宅の近くで自転車に乗っていると二人の警官から停止させられ、これは盗難届けの出ている自転車だと職務質問された。私は直ちに警察手帳の提示をもとめると、二人の警官は暗闇の中に走って逃げていった。

また、ある日は、外出しようと集合住宅の13階の玄関を開けると、のぞき窓から家の中をのぞいていた背広姿の男の顔面を直撃した。男は「ついそこまで来たので」と、ばつが悪そうに口ごもった。公安二課のデカだった。

ある日、亀戸9丁目の日本化学の本社前の抗議行動で私がマイクを持って話をしているときに城東警察署長が警察の車両から大音量で逮捕すると警告してきた。その時、私の後ろから耳元で、「城東警察署長の権限であなたを逮捕できないから続けて大丈夫だ」とつぶやく人がいた。後ろを振り向くと、例の公安二課のデカだった。所轄の警察と警視庁の縄張り争いだが、警視庁公安課の権力は絶大なのである。

1968年頃のメーデーで、四ツ谷駅付近の外濠通りでジグザグデモの隊列で進行中、わきの歩道から私を呼ぶ声がするので振り返ると、かって取り調べを受けた東京地検の検事で「兄や義兄の出世の妨げになるから行動を控えるように」と言われていた。

敗戦後も検・警察が一体となって市民の行動を監視しており、そうした体制が1952年に大分で起こった菅生事件を生む温床となっている。

「共謀罪」法がない現行でもこのように市民の行動が監視されているのに、法が施行された先に特高警察の復活が懸念される。

私は1934年生まれで、戦時中には招かれざる「集団疎開」も経験し、戦争末期には小学校の校庭で「本土決戦」の竹槍訓練もさせられ、敗戦ショックで1年以上も不登校になった経験からこれ以上の監視社会は何としても阻止しなければと思っている。

「共謀罪」が成立して、検・警察の監視体制は一層強まり、平和運動、反原発運動、市民運動への監視は厳しくなり、リベラルな市民主義社会は大きな試練を迎えるだろう。

2017年6月

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

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