■ ホロコーストは「全部 (ὅλος holos)」+「焼く (καυστός kaustos)」に由来するギリシア語「ὁλόκαυστον holokauston」を語源とし、ラテン語「holocaustum」からフランス語「holocauste」を経由して英語に入った語であり、元来は、古代ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供える犠牲、「丸焼きの供物」、すなわち燔祭を意味していた[3]。またここから派生した意味に「火災による惨事」があり、一般的にはこちらの方が主に使われていた。のち転じて、全焼死や大虐殺を意味するようになった[4]。ホロコーストに相当するヘブライ語は「オラー (olah)」であり、「焼き尽くす捧げもの」を意味した[5]。日本では、永井隆が長崎への原爆投下を「神の大きな御摂理によってもたらされた」とし、原爆投下を「大いなる燔祭(en:Holocaust (sacrifice))」と解釈したこと[6]が論評されている(浦上燔祭説参照)。(ウィキペディアより)永井隆は、こうも語っていたという。「ひとがもし、武器なしに生きることができないのなら、『長崎』は再来せざるを得ないだろう。」
■ 朝鮮戦争で、USAは、核兵器の使用も辞さない、と公表して、ソヴィエトを、アジアを最高度の緊張に追い込んだ。 この私は、「明日、原爆が・・・」というラジオのアナウンサーの声を記憶しており、全身凍りつくよう死の恐怖感を幼時に体験しており、このトラウマが、自然死でない人災としての最期への不安として「死に至る病」となっていた。
その後、核兵器による歴史の終焉は、「渚にて」などの映画や「黒い雨」などの文学によって追跡されてはいたが、24歳で、CO中毒で早逝した兄との関係は、肉薄する「死のとげ」となり、核実験の恐怖を遠景に遠ざけてしまっていた。そして、イラク湾岸戦争で明らかになった米軍の劣化ウラン弾の使用。そして、これを核兵器の一種として認めないUSA政府の世界での陰に陽にの頻用。チェルノブイリ原発事故の5年後のヘルシンキ・オゾンホール国際会議。このときの真犯人とされたフロンガスは、冤罪だったというお話を槌田敦氏から聞き、オゾンホール損壊の原因は、放射能ではないかと考え始めたころに、福島原発第一の大事故が発生した。
永井隆博士の危惧は現実となり、核拡散は、とまらない。1980年代に、イギリス人が、“Hi-Tec Holocaust”という書籍を刊行しており、これは「ハイテク地球汚染」と題されて、和訳が日本でも読めるようになっていた。版元は、ダイヤモンド社。
■ ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺としてのホロコーストを福島原発事故へ引用することは無謀であり、そうした強烈な偏光レンズをあてることには、誰しも抵抗がある。それで、私は、ナチス・ドイツのホロコースト事件に限定しない、以上のような文脈で、「原子力ホロコースト」という概念を提起し、この「火祭り」の弊害の時代的世界的人類史的病理を憲法9条精神のほかには、克服できないことを訴えたく考え始めている。さらに、憲法9条があるから、核開発が可能になるというパラドクスによって、今回の大惨事が起きたことも、失念しないようにしたい。2011年3月11日をひとつの思想的転換点として、すべてをみなおすことを、「原子力ホロコースト」というキーワードを提起することから始めたい。(2012.3.14. 朝)(須藤光郎)
須藤さんへの返信 原発についての考察の深化を期待しますー三上拝
■ 須藤さんお手紙ありがとうございます。テントではいつも挨拶程度で過ぎることが多いのですが、この間にあなたがおっしゃっていた「原子力ホロコースト」という言葉はとても印象深く残っています。あなたからこれについて手紙を頂けるとのことでしたので心待ちしていたのですがこんなに早くとは思っていませんでしたから驚きです。『3・11』はいろいろの意味で僕に多くの考えの再考を促しました。これがどのような結末にいたるのか、どこまで続くことなのかは想像できません。遠くまで行くしかないのですが、これまで自分の考えてきたこと、つきつめられないで残してきたを思いつくままに自問自答している日々です。一方ではもう自分の生涯の時間が少ないことを気にしながら、多分、行けるところまで行くしかないのだろうという断念めいた気持を含みながら歩んでいます。こうした中で原発の存在は考え過ぎる事のないほど考え抜かなければならないものと考えています。でも、これはなかなか時間と手間のかかることですね。人間の存在にとって原発とは何かという根底的な問いを含まなければ考察は進まないということがあるためと思っています。その意味であなたのこうした提起はとても刺激的ですし貴重に思えます。この手紙が何処まで続くのか分かりませんがとても楽しみです。
■ 須藤さん 僕が原発について考えてきたことの一端を披歴させてください。あなたの考察と交差するといいのですが、しばらくは勝手なことを述べさせてもらいます。僕は原発震災が起きた時に原発は人間の存在そのものと倫理的に対立するものだと思いました。「人間は自然の一部である」という場合の自然と相入れないものだということでもありました。人間と自然の代謝(循環)関係を破壊するものだということですね。人間は自然の一部でありながら、自然との共通の基盤にあるというよりはそのままでは自然とは関係出来ない存在様式を持つものです。自然という存在から自己を疎外させて「非自然な存在」になることなしには自然とも関係できない存在です。この「非自然な存在」は人間が自然を非有機的身体にすること自然がそれを人間的身体にするという人間と自然の独自の交換関係です。人間と自然の交換関係が動物と共通する自然の一部とは別の世界を生みだしてきました。僕はこれも広い意味での自然という概念に包摂されると考えてきたのですが、これは何処まで発展するのか、その場合に動物とも共通する自然と矛盾しないかを考えてきました。人間と自然の代謝(循環)関係をこの視点で考えてきたのです。人類史の極点的なものが原子力だと思いました。非自然な存在がまだ自然に包摂されている所を超えてしまうという意味です。そこに根源的課題が見えます 。(三上治)
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