*本稿はアジア記者クラブ7月例会での報告をもとにしたものです。(編集部)
司会者:福島第一原発事故を機に、原子力発電と原爆は同根であるという議論が活発になされている。原爆は広島と長崎への投下で両都市を壊滅させ、その後、世界各地で行われた核実験も周辺住民に深刻な被害をもたらした。原発過酷事故の恐ろしさも今回、改めて認識された。福島の事故は原発安全神話の崩壊も招いたが、日本への二度にわたる核攻撃においても「原爆神話」がある。戦争の終結を早め、犠牲者を抑えるとの“大義名分”がいまだにまかり通っている。この主張の欺瞞を打ち破るべく、米国の研究者ピーター・ガズニック氏と共著で『広島・長崎への原爆投下再考 日米の視点』(法律文化社)を昨年末に上梓した鹿児島大教員の木村朗さんを招き、『原爆神話からの解放と核抑止論の克服――ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ』と題して語っていただいた。
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実は今日は先ほどまで、鹿児島選出の川内博史衆院議員から福島の話を聞いていた。私も4月24日に福島県(いわき市)に行き、5月22日から24日まで宮城、岩手両県の被災地(宮城県の東松島市、石巻市、女川町、南三陸町、気仙沼市と岩手県の陸前高田市)を訪れる機会もあった。当初ここでお話することは、ガズニック先生と共著という形で出させていただいた原爆投下問題を中心にということだったけれど、それに現在の状況との関連をプラスする形でお話したい。
本日のメインのタイトルは「原爆神話からの解放と核抑止論の克服」とした。原爆神話、すなわち原爆投下を正当化する虚構の論理というか、これがいまだに、とりわけアメリカ、そして日本においても一部でかなり強い影響力を持っている。この問題は核抑止論と表裏一体の関係で、核抑止論をも正当化することにもつながっている。原爆神話からの解放は核抑止論の克服にもつながるため、核抑止論そのものを詳しくお話するということではないけれど、こういうタイトルにした。
また、3・11以後、福島第一原発の事故で「フクシマ」という言葉が世界化されている。そのことをとらえて、三つの語られ方がされていると思う。一つは、スリーマイル、チェルノブイリ、フクシマという流れ。言うまでもなく原発の重大な事故を並べている。もう一つは9・11から3・11へという見方で、世界と日本を悪い方向へ一変させたという点で非常に大きな意味を持っている。不可逆的な流れを作り出そうとしている面も含めてそう思う。この流れについての私の非常に大きな見方を言えば、原爆投下というものが冷戦につながり、9・11事件は対テロ戦争(「テロとの戦い」)という「第二の冷戦」につながった。原爆投下と9・11事件の関係をそうみることもできる。
そして、今日は「ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」という副題をつけた。広島、長崎は原爆投下、核兵器の問題で、福島は原子力発電の問題であるけれど、核=原子力という意味では共通点がある。私は「NPJ」というインターネット新聞に2008年11月から連載で論評を不定期に書いていて、最近原発関係では4回書いた。その5回目で「原発事故(被曝)と原爆攻撃(被爆)―人類と核(原子力)との共存は可能か」ということを書こうと思っていて、今日はそれとも重なる話が含まれている。
両者の共通点は四点ある。
一つは、核爆発、あるいは核攻撃後の死の光景というようなものを、私も被災地や福島の周辺に行って強く感じた。作家の辺見庸さんなどは「言葉の死」という言い方で、生まれ故郷の石巻が被災したことを受けて語られている。今日の話に関連して言えば、まさにあの光景というものは、爆撃、空襲の後、あるいは原爆投下直後のようだという形容がいろいろな論者によってなされている。私もそのような印象を一部持った。そういう意味でもつながっているのかなという気がする。
原子爆弾も原発も、そのルーツとしてはマンハッタン計画にさかのぼることができるのではないか。原子力=核の軍事利用が原爆=核兵器で、平和利用が原発だ、という風に簡単に分けることができるものではない。両者は放射能被害などさまざまな共通点があるし、原子力の平和利用という言い方自体が欺瞞ではないか。正確に言えば、原子力の商業利用、産業利用、あるいは非軍事利用という言い方がより妥当ではないか。放射能を使った軍事利用計画は必ずしも原子爆弾だけではなかった。そのことも後で少し触れる機会があると思う。
三番目の共通点として挙げられるのが、外部被曝と内部被曝の問題。福島原発事故を受けても、外部被曝の問題だけが表の報道で語られていると思う。「外部被曝で直接亡くなった人はいない。チェルノブイリでも数は限られていた」という言い方。しかし、実際には放射能障害として「晩発性障害」と言われている形で出てくる内部被曝、あるいは低線量被曝、原爆投下直後の残留放射能による被曝の被害が、非常に大きなものであったということが、チェルノブイリの問題も含めて実はある。それが、メディアの問題もあって、あまり語られていないと思う。
四番目の問題は直接的な関連で、被爆国の日本で~私は「唯一の被爆国」という言い方はしないけれど~なぜ、世界で三番目の原発大国と言われる54基、六ヶ所村その他を含めれば55とも言われているような原発、核関連施設を造っているのか。さらに言えば、日本は狭い島国で地震・津波大国。被爆国であり、地震・津波大国であるこの日本になぜ、世界で三番目に多い原発を造ることになったのか、常識的には考えられない。国際社会からも奇異な目で見られていると思う。3・11以後、そういう問いかけが増えているとも聞く。
そこにはやはり、1953、54年ごろの原子力政策の始まりと、54年のビキニ核実験、さらに言えば1964年の中国の核実験成功後の日本の対応の中で、明確な核武装への志向が~中曽根康弘氏などはその代表的な政治家かもしれないが~あるのだと思う。だからこそ、いまだにコストもリスクも無限大である非常に危険な原発をここまで推進してきたということであるし、3・11=福島原発事故を受けても、当事国でないドイツやイタリアが全廃の方向を即座にとったにもかかわらず、これほどの大きな犠牲を払った当事国である日本がいまだにその方向をとりきれていないということにもつながっているのではないか。地下原発を推進する議員連盟も立ち上げられたようだが、そこに結集している人々などは、潜在的な核武装能力を残してほしいという非常にナショナリズムの強い志向のある人々ではないかなという見方を私もしている。
核の問題に絞って言うと、とりわけ2期にわたる前ブッシュ政権以降、先制核攻撃戦略、そして先制攻撃による体制転換、いわゆる予防戦争戦略がとられることになって、これまで以上に核戦争の危機が現実化していると思う。オバマ政権になって少しはいい方向への変化もみられたけれど、現実として、最近三度目の臨界前核実験を強行したように、その本質的な部分は必ずしも変わっていない。厳密に言うならば、オバマ大統領の意思とオバマ政権のとっている政策をイコールとして語るというのは慎重であらねばならないと私は思っている。しかし、オバマ氏がテロとの戦いを継承し、イラクからアフガンに主戦場を移しつつ、パキスタンでは無人機などを使って多くの人々を殺傷するにまかせている現状を見た時に、戦争をやっている当事国の大統領を、「核のない世界」=実質的には核兵器のない世界=をただ目標として宣言しただけでノーベル平和賞がもらえるというのは、どこかおかしいのではという思いを強く持っている。
ただ、世界的には、核廃絶に向けた流れも2006年以降、出てきているとは思う。そういうプラスの面もみていく必要はあると思う。ただ、キッシンジャー元国務長官ら超党派の4人の著名な政治家が提起して、それを受ける形でオバマ政権が掲げ始めた核政策は、必ずしも一時宣伝されたような、核兵器のない世界を彼の任期の間に全面的に実現するというものではなく、そのポイントは、核の不拡散と核テロの防止にある。核軍縮については非常に中途半端、あいまいなままで臨界前核実験も続けるというもので、オバマ政権になっても核兵器を使った先制攻撃戦略を放棄しているわけではないということは押さえておく必要がある。
そのように、核をめぐっては危機とチャンスというか、両面の流れがあるとともに、いま、核兵器だけでなく、原子力発電も含めた核=原子力の全廃の是非をも問うような状況になっている。そういう意味では、日本だけでなく世界が大きな岐路にさしかかっているのではないか。
ここから原爆投下の話に入りたい。原爆投下こそが日本の降伏と戦争の早期終結をもたらしたものであり、その結果、本土決戦の場合に出たであろう、50万人から100万人にのぼる米兵の犠牲者ばかりでなく、それ以上の日本人やアジア人の生命をも同時に救うことになった、というのが早期終戦および人命救済説と言われる「原爆神話」の柱となるような中身。原爆神話というのは二本の柱からなっていて、一つは原爆投下の動機、目的。もう一つは原爆投下の影響、原因について。米兵の命・犠牲のところに連合軍の犠牲を入れて語る場合もある。
動機と目的、すなわち原爆投下を正当化する論理は三点ある。1.戦争をすみやかに終わらせるため、日本を降伏させるためであったという早期終戦説、2.11月1日以降に予定されていた連合軍による本土上陸を回避して、米兵あるいは連合軍の50万から100万にのぼる犠牲から救うためであったとする人命救助説、3.さらに言えば、日本人+アジア人の生命をも救うためであったという正当化が1947の「ハーパーズ」誌上のスティムソン論文などで流布されて今日に至っている。それら1から3を合わせて早期終戦・人命救助説とまとめてみることができる。
それを批判する意見としては、4.ソ連に対する威嚇と抑止が真の隠された動機であったという対ソ抑止説、5.戦後世界における覇権を保持するための実力行使であったという覇権保持説――がある。4と5の両者は関連させて一つのものとして語られる場合もあるということで、正統主義に対する修正主義。アメリカで言えば正統説は原爆投下を正当化する正統主義ということであるので、いい意味でのリベラルの意見がそういう修正主義的意見。日本においても西島有厚先生や進藤栄一先生、あるいは荒井信一先生などを代表的な論者として挙げることができる。
それに加えて新たに出てきているのが、6.原爆の威力を試すための新型兵器の実戦使用、特に人体実験の必要性。これは私が強調しているところであるし、長崎からの視点というか、二発目をなぜ長崎に落とす必要があったのかということも含めて考えた時に、そういったことが見えてくるのではないか。1や2、3だけの目的であれば、広島への一発の投下だけで用は果たせたのではないか。7.戦後の冷戦と核軍拡競争を発動、招来するための、経済的だけではないが、そういう動機があったのではないか。「軍産複合体説」と書いたが、国際金融資本もからんだ見方で、この6と7が実は重なっているのではないかというのが私の見方。象徴的な人物としてはバーナード・バルークという、大統領顧問も務めていて戦後第1回の国連の原子力委員会でバルーク案を作って核独占をやろうとして国際管理を破綻させた人物でもあるし、冷戦という言葉を最初に発した人物の一人でもあると言われる存在。ここらへんの問題については長崎平和研究所(故鎌田定夫先生が1997年に創設、2010年に閉所)の『長崎平和研究』などには書かせていただいたけれど、まだ十分に練られたものではないということで、この本(広島・長崎への原爆投下再考)の中にはまだ入れていない。
そのほかの原爆投下の狙いとしては、官僚機構による惰性説や復讐・報復説、人種差別説、開発費用回収説、個人的野心説など、いろいろな論者が程度の差はあれ、そういったものを出している。とりわけ、単純に言えば真珠湾攻撃や捕虜虐待に対する復讐・報復というのは、8月6日に広島に投下された後のトルーマン声明の中にそのまま盛り込まれていたものであって、意外と本音の部分を表しているのではないか。トルーマン大統領個人の感情レベルで言えばというカッコ付きであるが、アメリカの当時の一般国民の多くも、原爆がもし当時10発あれば10発全て落としてやりたかったということを隠さない人が多かったということを考えれば、こういった要因も無視できない。
人種差別説については、なぜ原爆が当初言われていたドイツではなく、日本に投下されることになったのか? 結果論だけをみれば、原爆実験が成功する前にドイツが降伏したからだと説明されているけれど、実はそうではなくて、日本への原爆投下が最初に考えられたのが43年段階で、戦争政策委員会の中でトラック島周辺の日本艦隊への原爆投下が論議されたという記録が残っているし、44年9月のハイドパーク協定においては、ソ連への原爆情報の遺漏の禁止とともに、しかるべき時に熟慮の上に日本に原爆を投下するという合意がひそかにアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の間で結ばれていたと。44年9月といえばもちろんまだドイツは降伏していないし、ドイツの降伏は45年末になるだろうという予測さえもあったということを考えた時に、なぜ日本への投下だけが政策論議として浮上しているのか、説明が非常にしにくい部分がある。人種差別的な要素があったことも、私は否定できないと思う。
さらに言えば、ドイツが原爆開発を断念したというのがマンハッタン計画に参加していた研究者たちに正式に伝えられたのは44年12月と言われているが、実はアメリカやイギリスはそれ以前の段階で、イギリスはモード委員会の報告書なども出ているが、知っていたのではないかと言われている。そうであるならば、本来の目的から言えば、降伏する前にドイツの原爆開発が断念されたという情報が入った時点で、マンハッタン計画は停止されるべきものであった。にもかかわらず、投下目標を日本に切り替えて計画を継続したことが、非常に大きな二番目のボタンの掛け違えであったと思う。
私は最初の原爆開発の動機=ドイツの幻の核におびえて開発に乗り出した=はやむをえない選択であったという見方についても、全面的に否定する立場である。なぜなら、それはあくまでも原爆=核兵器を必要悪として考える発想であり、他の選択肢があたかもないような言い方だからだ。ドイツの原爆開発を阻止することに全力を挙げるというほかの選択肢もあったし、その作戦もそれなりに奏功したことを考えれば、ドイツへの対抗上、原爆開発を正当化するという論理は成り立たない、破綻していると思う。原爆投下の目的、動機についてはそういう側面で、この側面については、もっと検討される必要があると思っている。
もう一つの柱である原爆投下の影響、原因については、日本降伏の決定的原因は原爆投下であったとアメリカの多くの論者と一部の原爆投下研究者が語っているけれど、ほとんど日本語文献を読んでいない。日本語のできる原爆投下問題の研究者がアメリカではほんの一握りというか、ほとんどいないという実情の中で、日本側の一部英訳された文献や、一部のそういう主張をする日本人の証言や研究だけを引用して結論づけているということで、非常に弱い部分だと思う。それに対しては、先ほどの動機面での修正主義と同じ流れを汲む人々によって~日米双方で~原爆投下よりもソ連参戦の方が日本降伏、とりわけ昭和天皇を含む戦争最高指導部に与えた影響は実は大きかったと。その証拠に、広島が原爆を落とされた後も、仲介を頼んでいたソ連からの回答を待って、即座には降伏決定のための会議を開こうとはしなかったということもあるということ。私もこの見方は非常に説得力があると思う。
ただ、三番目の見方として、あまり強調されないが、日本のポツダム宣言受諾に決定的だったのはやはり、非常に巧妙に隠されたあいまいな表現ではあったけれど、天皇制容認を示唆した8月10日付のバーンズ回答であったのではないか。注意すべきはポツダム宣言とバーンズ回答の関係で、ポツダム宣言にはジョセフ・グルーなどが草案を作った当初の文言の中に、明確な形で天皇制容認の文言があった。しかし、実際のポツダム宣言ではそれが削除されていた。削除されることに決定的な影響を持ったのはもちろん、7月16日のアラモードでの原爆実験の成功であったのではないか。ポツダム宣言というのは、天皇制容認の文言を削除しただけではなく、ほかにも三つ、最初のものを入れれば四つのワナと言ってもいいようなものがあったのではなかったかというのが私の見方である。
もう一つ、二番目の要素は、ソ連を署名から排除していること。言うまでもなくポツダム会談は、米英ソの3か国でやっていた。ドイツに対するポツダム声明も出されたけれど、日本に対するポツダム宣言に、当事国であったソ連~ヤルタ会談以降、米英の要請によって参戦が約束されていた~をあえて排除する形で、会議にも来ていなかった中国をあわてて入れた。ましてや、イギリスの選挙敗北でチャーチルが帰って、新しく首相になったアトリーが来ていない段階で、急きょ3人の首脳の署名をすべてトルーマンひとりが書いたというような形でポツダム宣言が出された。しかもポツダム宣言を出す前日に原爆投下の最終命令が発令されているという事実を併せた時に、ソ連の排除は意図的に仕組まれたものであったと言わざるを得ない。
そのほか、三番目は、回答期限をあえてつけていなかったということ。回答期限をつけるということであれば正式の降伏勧告、最後通牒と言うことができるかもしれないが、そうではなかった。意図的に回答期限が盛り込まれなかった。
四番目は、正式な外交ルートを通じた降伏勧告ではなかったということ。ラジオでいきなり発表するという、日本の政府、軍部にとっては単なるプロパガンダとみなされても仕方のないやり方であった。ポツダム宣言を日本が無視する、あるいは拒否するであろうということは事前に予測されていたと思う。ポツダム宣言を出すことによって一応は、日本に対して降伏のチャンスを与えた。しかし、それを日本が結果的に黙殺、拒否したことで原爆投下の大義名分が整った。そしてソ連がポツダム宣言で約束した「8月15日」の前に原爆投下を急いで行ったということが真相であったのではないか。
しかも、原爆投下命令には、8月3日以降に天候その他、環境条件が整った段階で、連続して原爆を投下せよと明記されていた。最初から1発で終わらせるつもりがなかったことが、そこには表れていると思う。大統領からの中止命令があればただちにやめよということも書かれていなかった。
先ほどの人体実験説~新型兵器の実戦使用説と言うべきだが~について、なぜそういう風に思うのかと言えば、アメリカでも広島については正当化の是非をめぐって議論の余地があるけれど、長崎については議論の余地なく、誤りだったという見方が多くの論者からなされていることもある。一般国民もそう思っている方が意外と多いのではないかと思うけれど、最初の原爆が広島に落とされてから3日という短い猶予しか与えずに、しかもその直前にはソ連参戦という原爆以上に日本指導部に大きな衝撃を与える出来事があったにもかかわらず、なぜ2発目の原爆を長崎(これは結果であって、当初は筆者の故郷である小倉が第一目標であった)に落とす必要があったのか。これはやはり、広島への原爆がウラン型で、長崎がプルトニウム型であり、アラモゴードで実験されたのはプルトニウム型で、2発あったうちの1発を使ったとされている。ウラン型爆弾については濃縮に時間がかかって1発しか準備できなかったが、構造上、比較的簡単に爆発できる、複雑な構造ではなかったという言い方がされていて、それがそのまま広島に投下されたと。しかし、プルトニウム型については実験をする必要があったと。アラモゴードの実験でたとえ成功しても、実戦で本当に目標地点で爆発するという保証はなかった。2発の原爆投下とも、実験的にやられたことは100パーセント間違いない。
新型兵器の実戦使用は、日本の侵略戦争で大義名分が立ち、ポツダム宣言も拒否し、1発目の原爆投下では降伏しようとする意思、動きを見せなかったからという理由づけで行われている。戦後のアメリカの核兵器はすべてがプルトニウム型なので、やはり2発の原爆、とりわけプルトニウム爆弾は、実際に落としてその効果、物理的な破壊力だけでなく、人体への影響力も含めて、データを測る必要があったのではないかと思う。そういった原爆投下の狙いについては、戦後の占領期、被害状況も含めて原爆に関するあらゆる情報を秘密にして~日本も原爆を開発していたので真っ先にそこを占領して破壊したということもあるけれど~そういった原爆関連情報が日本内外に伝わることを、厳重な検閲体制を導入して隠蔽した。
そしてもう一つは、ABCC(原爆傷害調査委員会)を広島と長崎につくって被爆者を診察、観察はしたけれど、治療は行わないという形で、そこで得られたあらゆる被爆に関するデータを、髪の毛とか内臓も含めてアメリカに持ち帰って、新しい核兵器の開発や、核関連施設、原発などの放射能被害を防ぐための自分たちの安全基準をつくるのに利用しているという事実がある。これは被爆者の方がよく言われているように、モルモット扱いという指摘が当たっているのではないか。ビキニの時も含めて、戦後行われたあらゆる核実験で、すべての核保有国が似たようなことをやっている。実験地の先住民を含む多くの人が被曝しているし、実験に参加した兵士もモルモットのように、核戦争のもとでいかに人間が極限状況で戦えるかというデータをとるために、爆心地に向かって行進させられ、ある地点での戦闘訓練をやらされたということも重なっていると思う。
原爆投下の問題を考える場合、重要な視点がいろいろある。ここまでの話に関連して言えば、早期終戦のためと言われているけれど、実際には原爆の開発と投下のために終戦をかえって引き伸ばされたということを私やアメリカの一部の研究者(マーティン・シャーウィンなど)も主張している。それはどういうことかと言えば、アメリカの指導部は45年の春において、原爆が夏に完成する、7月には実験が行われるということは知っていた。そうした中でドイツが降伏する。その前に45年2月に近衛上奏文が出され、昭和天皇に対してソ連、東ヨーロッパの状況を説明しながら、早く降伏しなければ東ヨーロッパのように体制転換~君主制が崩壊したり、資本主義が社会主義になったりする~の危険性があり、日本国内も不穏な状況が生まれつつあるという状況認識で上奏したということが事実として残されている。それに対して昭和天皇は、陸軍などが主張していた沖縄戦など、もうひと反撃して有利な形で降伏条件を引き出すという思いから拒否した。45年の5月8日にドイツが降伏し、すでにイタリアも降伏していたので、残りは日本一国となって、勝つ望みは44年ぐらいの段階でも完全に失われていたと思う。東京大空襲も3月に始まっている。そうした中でようやく、ソ連を介して終戦工作という動きが出てきた。アメリカはそういった動きも暗号解読その他でつかんでいた。
日本が降伏しそうだという情報と、原爆が7月半ばには実験できそうだという情報を併せた時に、アメリカの指導部が行った動きは何であったか。
一つは、マンハッタン計画の責任者であるグローブズ将軍が計画のスピードアップを命じたということ。日本が降伏しそうだという動きがあれば、もうマンハッタン計画はいらない、原爆は必要でないとするのが普通だけれど、それが逆だった。日本が降伏する前に何とか原爆を開発して投下すると。それでなければ自分たちがいままでやっていたことは何であったのかというような思いを、グローブズ将軍は意外と率直に周囲のものに語っている。しかも、アラモゴードの実験の後に語ったのは、部下から「これで日本も降伏しますね。おしまいですね、戦争は」と言われたら、「いや、まだだ。2発の原爆を落とした後だ」という風な発言をしたとも言われていて、それとも符合する動きではないかと思う。
もう一つ、ポツダム会談の開催をめぐって、イギリスやソ連などは、ドイツ降伏の後始末と日本への対応を話し合うための3大国首脳会談を早期に開こうという申し入れをしていたけれど、トルーマンがそれを6月、7月と延ばした。7月1日から7月17日=アラモゴードの実験の翌日=まで引き延ばしたのは、やはり原爆実験の成否を見極めた上でやろうということで、意図的に戦争終結が延ばされたと言えると思う。
原爆関連情報で言えば、ソ連参戦の見返りに、樺太や千島列島だけでなく、満州の大きな権益も中国の頭ごなしにソ連に割譲する密約がヤルタ会談の裏協定で結ばれていたわけだが、やはり後からでも中国の蒋介石政府の承認をソ連が取りつけなければならないということで、モスクワで中ソの交渉が行われていた。その中国の代表部と蒋介石に対してアメリカ側が圧力をかけて「引き延ばせ」と。その協定を結んでからソ連が参戦することになっていた。ヤルタ協定の約束はドイツ降伏後3か月以内にソ連の対日参戦を行うということで、結果的にドイツが5月8日に降伏してソ連参戦が8月9日だから、ほぼ約束通りになったわけである。ソ連側の見通しは、ポツダム会談の時点では、中国と協定を結んで、満蒙国境にソ連軍が集結して万全の態勢で対日参戦できる準備が終了するのは8月15日頃だと言っていたけれど、アメリカ側はそれを少しでも引き延ばそうということで、そういう工作も行っていたということが傍証になるのではないかと思う。
さらに言えば、これは仮説であるが、アラモゴードでの原爆実験が失敗した場合にどのような対応をアメリカはとったであろうか、という問題がある。トルーマンなどにはそのことを示唆する文言が日記その他に残されているが、あらゆる意味で全力で日本に対する和平交渉を水面下で始め、天皇制容認を含めた大きな譲歩~海外領土の放棄や戦犯処罰などの面も含めて~を行ってでもソ連参戦前に和平実現に動いたのではないかと思う。
長崎に2発目の原爆を落としたもう一つの理由としては、もし2発目を行わずに、広島への原爆投下とその後のソ連参戦で日本が降伏した場合、ソ連参戦によって日本が降伏したということで、ソ連の戦後の対日占領政策、あるいは東アジアへの発言権が非常に高まった可能性が考えられる。アメリカ側はソ連参戦の前にあわよくば日本を降伏させたいということで、その前に原爆投下をもってきたことは間違いないと思う。参戦した直後に長崎へ落としたのは、2発目のプルトニウム爆弾の実験のためだけでなく、そういうものを封じ込めるためにも意味があった。これは結果的にもそうであったけれど、当時のアメリカ指導部が事前にそこまで見通していたかどうか、文書としては出ていない。2発目の原爆投下は当初8月20日、それから15日から11日、そして9日に実施が繰り上げられたという風に言われている。そういった動きとソ連の対日参戦とのかかわりは実際、どうだったのか。これも検証する必要がある。
いずれにしても、原爆の開発・投下のために戦争終結は意図的に引き延ばされたということ、原爆投下以外の日本降伏の選択肢は、先ほどから言っている、軍事的手段ではない交渉による和平実現、天皇制容認というその条件が最も日本がこだわっているというのは、アレン・ダレスなどを通じたスイスルートでの和平工作などを含めてアメリカ側には十分伝わっていたし、グルーなどが再三、それを容認して、降伏条件を緩和しさえすれば日本は間違いなく降伏する、という言い方をしていたということもあるので、私はその可能性が非常に強かったと思う。
また、軍事的な選択肢としても、ソ連参戦は間違いなく8月中に行われたであろうし、連合軍の本土上陸はもちろん11月に予定されていた。連合軍の本土上陸がなくても、ソ連参戦だけで日本は遅かれ早かれ1か月以内には降伏したであろうと。これは戦後、日本の将軍たちも語っている。アメリカも、原爆を何発か落としても日本が容易に降伏するとは必ずしも思っていなかったフシがある。トルーマン大統領はポツダム会談の途中でアラモゴードでの実験成功の詳細な報告を受けて強気な態度に変わるが、ソ連の対日参戦、ヤルタ協定の密約を破棄するようなことは最後までしなかった。ソ連の力を借りなければ日本は降伏することはないだろうという風にも見ていたと言えるし、ソ連参戦だけでも日本は降伏するだろうと思っていた可能性が強い。そうでなくても、あえて本土上陸を行わなくても、通常の爆撃と海上封鎖を継続すれば、日本が遅くとも45年末までに降伏するであろうということは誰の目から見ても明らかではなかったかと思うので、なぜあれほど早く原爆投下を急いだのかというのは、そういった観点からもみる必要があるのではないかと思う。
根本的に言うならば、原爆投下論争というのは、軍事的な必要性があれば原爆投下は是、軍事的必要性がなければ原爆投下は非みたいな形でアメリカ側の議論の土俵で日本でも話されてきたような印象が非常に強いと思うが、これは大きな誤りであった。もともとボタンの掛け違えであった原爆開発の着手を、ナチス・ドイツの幻の核の脅威を理由として正当化する論理と同じく倒錯した論理で、毒ガス以上の絶対悪で、かつ悪魔の兵器である核兵器・原爆を、少なくとも民主主義国家を自称する国が選択するということは、たとえ脅しのため、完成しても使うつもりはなかったという言い訳をもってしても、とうてい是認できないものである。降伏寸前の日本に対し、他の選択肢、平和的な手段、他の軍事的手段もあったにもかかわらず、あえて原爆投下で降伏させる体裁をとろうとして実験的に行ったのはまぎれもない戦争犯罪であって、当時の国際法からみても明白な違法であるということは十分言えるのではないかというのが私の立場である。
また、原爆投下と真珠湾攻撃を相殺させる、日本側が原爆投下の問題をアメリカ側に持ち出すと常に、真珠湾攻撃はどうなるのか、あるいは、アメリカ以上にアジアの人々からは植民地支配と侵略戦争の問題が持ち出され、日本側もその問題を反省するがために原爆投下は仕方なかったというような議論が繰り返されてきた経緯・側面がある。これも倒錯した議論だ。真珠湾攻撃の報復という言い方がトルーマン声明にもあったけれど、そもそも真珠湾攻撃は軍事基地に対する攻撃で、結果的に卑怯なだまし討ちにはなったけれど、(米国側が)事前に知った上で犠牲を大きくしたという側面も徐々に明らかになっているというだけでなく、犠牲者の大半が軍人であったという点を考えても、ほとんどが民間人で非戦闘員だった原爆の犠牲者とはそもそも比べ物にならないし、真珠湾攻撃の前に、一晩で10万人の死者を出した東京大空襲を始め、無差別爆撃で亡くなった犠牲者の数は圧倒的に多いわけであるので、そういった事実からしても不毛な議論だと思う。
ただ、私はアメリカの一方的な戦争犯罪として原爆投下の問題をとらえるつもりはない。それはまた、別の意味でおかしいという風にも思う。やはり、どのような犠牲を払おうとも、一向に降伏しようとしなかった当時の昭和天皇を含む日本側の最高戦争指導部の責任も非常に大きかったと思う。だから、この本の中でも、原爆投下というのは、ある意味で日米両国の合作と言うか、共同作業だったという風な側面があるのではないかという言い方をしている。アメリカ側は「無条件降伏」、これは建て前であったと思うけれど、一応最後までそれにこだわって原爆投下にもっていった。これに対して日本側は、これは本音であったと思うが、「国体護持」、すなわち天皇制の維持、最後までそれに固執して国民の犠牲を放置して原爆投下につながった。
この問題をもう少し詳しく言うと、アラモゴードでの実験が成功するまでは、原爆投下をするか、しないか、あるいはさせるか、させないか、のイニシアチブは、ある意味で日本側にもあった。100パーセントとは言えないと思うが、日本側にあったと思う。なぜならば、日本側がメンツにこだわらず無条件降伏を直接的に米英両国と世界に表明すれば、その時点で戦争が終結した可能性は否定できない。日本側の降伏のチャンスは45年2月の近衛上奏文の時にもあったと思うし、3月10日の東京大空襲、5月8日のドイツ降伏の直後、6月23日の沖縄戦の一応公式の終結と言われた時にもあったと思う。さらに言えば、あのような落とし穴、ワナがあったとしても、ポツダム宣言を受諾するという選択肢もあったと思う。ただし、いま言った中で、最後の選択肢については、アメリカ側がそれを許したかどうかは非常に危ういところがあるなと思う。なぜならば、天皇制の容認という条件にこだわる限り、ポツダム宣言の受諾を条件付きで日本側が表明したとしても、時間がいたずらに過ぎる中で最後には原爆投下は避けられなかったであろうというのが私の見方である。
しかしここで押さえておく必要があるのは、アメリカ側は43年頃から戦後の日本の占領政策の骨格を作っていて、そこでは、やはり天皇制を容認して、天皇を占領政策に利用するという明確な意思をすでに持っていた。また、ポツダム宣言の最初の草案まではその方針はそのまま生かされていた。それが削られたのは、わずか、アラモゴードでの実験が成功して2発目の原爆が投下されるまでの間だった。バーンズ回答で、あいまいな形ではあったが、やはりそれを復活させている。これはいろいろな論者も示唆している。明確な論証はされていないが、バーンズ回答以外にあらゆるルートを通じて、天皇制容認を日本側にわからせる努力をしていたのではないか。たとえばアメリカ側の新聞にリークする。8月9日以降のアメリカの新聞はもう、日本が降伏する、天皇制は容認することになろうということを最初はあいまいに、その後は明確に書いていた。日本が降伏する前に。これはアメリカ当局の意図的なリークによるものであるという風に思う。このことは小田実さんなども書かれていた。そういう指摘はできると思う。
もう一つ挙げるならば、これまでのほとんどの論者は、原爆投下あるいは日本の降伏の時点で原爆投下問題をだいたい総括されている。でも私はもう一つの視点が必要だと思う。マンハッタン計画そのものが45年末、正確には46年まで続いていたと言われているように、原爆の開発とその投下でマンハッタン計画が終わったわけではない。原爆を実際に日本に2発投下した後、日本を占領して原爆情報を検閲で秘匿しつつ、人体実験の延長としてのモルモット的なかたちで被爆者からデータを採取。こうしたプロセスが無くしてマンハッタン計画は完成しえなかったと思う。
いろいろな論者が原爆投下の目的について、戦後当初はスティムソンという戦争省長官、現在はバーンズという国務長官に注目し、特にバーンズ国務長官が原爆投下のすべてのイニシアチブをとった、大統領以上に政治的な経験が強くて人種差別主義者で強硬派でというように言われている。私は、そういったものもあるけれど、マンハッタン計画の責任者であったグローブス将軍、あるいは今日はあまり触れられなかったけれど、バーナード・バルークという大統領顧問など、これまであまり光を当ててこられなかった人々に注目し、戦後の冷戦を見通して、新型兵器の実験をあえて降伏寸前の終戦間際でやるという、冷戦をむしろ招来させるためにも必要なプロセスとして原爆投下をみることができるのではないか、という風に考えている。それは45年末までの動きをみればわかる。だが、原爆投下の狙いのところで触れている、マンハッタン官僚機構の勢い、弾み、官僚機構による惰性説というのは、そういう意味で言われているわけでは必ずしもない。巨大な官僚機構が原爆投下に向かって動き出した時に、たとえ大統領=トルーマンであっても、それを止めることはできなかっただろうという言い方で触れられることは多いと思う。しかし、それとは別の意味でマンハッタン計画、それを推し進めている巨大な官僚機構、そのバックには巨大な軍産複合体と国際金融資本がついていたと思うが、当初から予定されたシナリオに従ってなされた可能性が強いと思う。
原爆投下の問題をみていく重要な視点としては、最初の福島との共通性のところでも述べたけれど、むしろ重視されるべきは真珠湾攻撃でなくて重慶爆撃だというのが、この無差別爆撃と大量殺戮という視点。ナチス・ドイツによるゲルニカ爆撃は無差別爆撃の起点として重視されているけれど、本当の意味での無差別爆撃、とりわけアジアでは最初であるが、それを行ったのは日本であり、それが38年から43年まで5年半続いた中国の臨時首都・重慶への無差別爆撃であった。無差別爆撃にナチスがゲルニカで先鞭をつけたと言われるが、それ以上に本格的な無差別爆撃に道を開いたのは日本であると。その枢軸諸国によるゲルニカ爆撃や重慶爆撃を批判していた米英などの連合国が、ゲルニカや重慶を上回る、さらに残虐な無差別爆撃と大量殺戮をドイツ(ドレデンなど)と日本(東京など)に対して行った。戦略爆撃というのはもともと軍事目標主義で、軍事施設(基地・工場など)に対して行う精密爆撃というかたちで始められたと言われているが、総力戦体制の中でエスカレートし、戦争におけるルールというか倫理というものが完全に取っ払われるような形で、容赦ない無差別爆撃につながった。この流れは戦後も一貫していて、つい最近のアメリカによるイラク、アフガン両国への一方的攻撃などにもつながっている。強調しておきたいのは、日本は加害国であり、被害国でもあるということ。しかも、一つだけ言っておかなければならないのは、無差別爆撃を行ったドイツ、日本~戦前の非人道的なファシズム、軍国主義国家~は、敗戦国となって戦後に国家体制が変えられたわけだが、戦勝国で「民主主義国」を自称しながら戦後も現在まで国家体制が変わらない国々によって、当時もいまも戦争犯罪である無差別爆撃と大量殺戮を形を変えて続けられていることの意味合いを考える必要がある。
もう一つが「グローバルヒバクシャ」という視点で、広島が最初の核攻撃を受けた地で、長崎が最後の被爆地だという言い方、そして日本は「唯一の被爆国」であるという言い方があるけれど、この「唯一の被爆国」も非常に欺瞞的な言い方。原爆投下で犠牲になったのは15か国、7万人以上の日本人以外の方が犠牲になっている。亡くなった外国人は3万人以上で、被ばくしたのは7万人以上、と言われている。その大半が朝鮮人の方だったのだが、こういった事実も日本の教科書はほとんどまともに扱っていないので、日本人の大半は知らない。重慶爆撃についてもほとんど知られていない。それがサッカーの試合(2004年に重慶などで開催されたアジア杯)の時のいろいろな騒動につながっているということを考えた時、この無差別爆撃と大量殺戮という視点は非常に大きな意味を持っている。いま、重慶爆撃と東京大空襲の訴訟が、遺族の方、あるいは生き残りの方を含めて行われている。その問題とも重なる。
グローバルヒバクシャの問題で言えば、実は広島の前にもヒバクシャ(被曝者)はいたし、長崎の後にもいたのである。確かに、そうした人びとは戦時における核兵器による攻撃の犠牲者ではないけれど、当時のベルギー領コンゴなどのウラン鉱山に従事した労働者、その多くは先住民であった。核実験の場所も先住民の住んでいる場所が多い。それは「ニュークリア・レイシズム」ともつながる問題で、ウラン鉱山でウランを取り出すのに借り出される労働者の被曝は現在も続いていると思うし、マンハッタン計画の核関連施設に従事した研究者、技術者、労働者も被曝している。アラモゴードの核実験でも先住民、米兵が被曝している。
また特別のケースだが、広島の原爆投下の前に、放射性物質を使った人体実験がアメリカの国内でやられていた。これは90年代半ばのクリントン時代の情報公開によって明らかにされた事実。広島、長崎の後で言えば、原爆、それから水爆を含む核実験が戦後繰り返された。ビキニ、その他の先住民、あるいは米兵も実験材料にされているし、日本も第五福竜丸事件で二度目の被曝を経験している。そして原発の労働者、技術者、さらに原発、あるいは核関連施設の風下の住民にも大きな放射能被害が出ているというのは、鎌仲ひとみ監督の映画(「ヒバクシャ」、「六ヶ所村ラプソディー」、「ミツバチの羽音と地球の回転」)を見ればよくわかるところだろう。福島はそれにつながる流れになった。だから「ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ」と副題にはしているけれど、真ん中にはビキニもあるということで、三度の放射能被害を受けている世界で唯一の国家である日本という国がやるべきことは、核兵器だけではなく、原子力発電を含むすべての核の廃絶運動の先頭に立つことではないかという強い思いを持っている。
ここから先は、核兵器、核をめぐる現状の問題に触れたい。NPT(核拡散防止条約)は発足当初から、これほど不平等な条約、体制はない。ただ、これこそ必要悪として過渡的には必要な条約であり、体制であったのではないか、核不拡散体制という名の下に。当時の核保有5か国は保有が認められる代わりに誠実なる核廃絶を含む核軍縮に努めるという前提条件があった上で、非核保有国が核保有の意思を放棄、断念する。ただし、非核保有国も原子力の商業利用、産業利用~平和利用とは言わない~は容認されるが、IAEA(国際原子力機関)などによる厳格な査察を受けなければならない。
しかし、NPT体制は意図的に今日まで形骸化されてきていると思う。2000年には画期的な核廃絶に向けた合意もいったんはできたのだけれど、2001年に登場したブッシュ政権によって反故にされて、今日まで有効な対策をとることなくきているのが現状だと思う。NPT体制の中で、実はIAEAの最大の核査察の対象国は、言うまでもなく日本である。日本はプルトニウムを再処理するというプルサーマルの権利も認められ、すでに5千発以上の原爆保有が可能な、50トン近くのプルトニウムの蓄積さえしているということであり、もともと核武装の意思があった国であるということはアメリカも知った上での、非常に意図的な、甘い対応が今日までとられてきている。原発政策を日本で推進させるというアメリカの意図は、もちろん原子力産業その他の利益という思惑もあったとは思うけれど、明らかにダブルスタンダード。日本やインドに甘く、イスラエルはまるっきり枠外に置くような扱いをする一方で、イランや北朝鮮などについては非常に厳しい要求を行い、核保有の証拠が明確にない段階であっても武力制裁を含むあらゆる制裁が可能であるかのような最近の動きというのは、非常にダブルスタンダードそのもので、危ない動きだと思う。
NPT体制は核保有を目指す国に対して軍事制裁を認めるような体制であったわけではないと思う。核保有国が核軍縮や核廃絶へ向けた努力をしないならば、NPT体制を存続する理由さえなくなってしまうというのが私の主張で、核保有国を除いた形であっても、別の形での核禁止条約グループ体制をつくるべきである。それは、ほかのクラスター爆弾その他でもそういう方法をとって有効な結果を残しているので、そういう選択肢もあるのではないか。
重ねて言うならば、正義の戦争、人道的介入と言う名のもとの予防戦争~ユーゴスラビアへ1999年3月に行われたコソボ紛争を理由としたNATO(北大西洋条約機構)による国連を無視した空爆~も、明らかな国際法無視、国連憲章無視の信じられないような侵略戦争だったと思う。一方の戦争当事者の側の戦死者がゼロという、戦争という名にも値しない一方的な殺戮行為であった。あれにはドイツもフランスもカナダも参戦していたことを覚えておく必要がある。また、9・11事件のショックのあまり世界中が思考停止している状況の中で行われたアフガニスタンに対する報復戦争には国連も全面的に関与したし、ドイツ、フランス、カナダも参戦している。そして最近のリビアやコートジボワールに対するアメリカだけでないフランス、イギリスの前のめりの参加、ドイツは参加していないけれど、国連の積極的関与であった。特に、潘基文(パン・ギムン)事務総長は、一部で「史上最低の国連事務総長」などと言われているけれど、私もリビアや最近の動きを見て、事務総長に問題なく再選されたことからも分かるように、アメリカの傀儡であるばかりでなく、それ以上に確信犯的に同じ価値観で行動しているネオコンとほとんど違いがないくらいの危険な人物だと思う。その人が国連事務総長になって国連の歴史に汚点を残し続けているのが現状ではないか。イランに対する核攻撃はこれまでアメリカとイスラエル、あるいはイスラエル単独で何度も試みられてきたが、ブッシュ政権の時からオバマ政権になっても依然として続けられている。かろうじていまの段階まで阻止されているけれど、再びそういう動きもいま出ているのではないか。そもそもテロとの戦いは50年続くという言い方がされているけれど、「終わらない戦争」ではなく「終わらせない戦争」。見えない戦争ではなく、見せない戦争であるというのが本質であって、当時のラムズフェルド国防長官やチェイニー副大統領などは、これからは20~30か国に対して戦争をずっと行っていくかのような発言さえしていたことを想起する必要がある。
このような危険な動きに対して、いま私たちに何ができるのかということについて、ここであまり楽観的に語ることはできないけれど、やはり正義の戦争や人道的介入論の欺瞞性あるいはアメリカの正義、ダブルスタンダードを徹底的に暴露して、戦争犯罪を戦争犯罪として裁く。カダフィ大佐を戦争犯罪人としてICC(国際刑事裁判所)はいま裁こうとしているが、それも非常に本末転倒した動きであるし、アムネスティ・インターナショナルはその後押しをしている。人権擁護はいいけれど、国家主権を無視してアメリカの侵略戦争を正当化する役割を演じているのは大きな問題だと思う。そこの誤りにまず気づかせることが大きな課題となっている。
これまで続けられてきた原水爆禁止運動を始めとする核廃絶に向けた取り組みを一層強めていく必要があることは言うまでもない。ただ、私が本末転倒であると思うのは、オバマ大統領が核のない世界を目指すという風にぶち上げたこと。事実上は、核兵器のない世界をとりあえず掲げてみるというだけであって、自分の任期中にはもちろんそれはできないと。自分が最も取り組まなければならないのは核不拡散と核テロの防止であると。核不拡散を起こす国々、ならず者国家、悪の枢軸に対しては核兵器の先制使用も辞さないということを含みながら、そのような流れになってきているのは非常に本末転倒な動きだなと思っている。戦争をする大統領が核のない世界という裏づけのない主張をするのではなく、まずやめるべきは自らもかかわっている戦争である。核兵器のない世界ではなく、原発も含めた核と戦争のない世界を目指すべきであるというのが私の主張。
そして先ほどから言っている無差別爆撃の禁止条約。これは陸戦条約というのは結ばれたけれど、空戦条約というのも実は1920年代に合意寸前までいって原案もなかなか有効なものがあるけれど、それをもう一度俎上に上げて締結する必要がある。もちろん核兵器については明確な核兵器禁止条約を結んでいく必要があるし、その前に核先制使用禁止、これは非核保有国に対してはもちろんであるけれど、核保有国同士も先制使用の放棄をすることが核抑止論の崩壊、核廃絶にもつながる近道だと思う。さらに何といっても、戦争が今日まで続く根本原因は、世界的規模での軍産複合体と国際金融資本の存在とその投機、金儲けの動きだと思うので、この両者に対する国際的な規制をより一層民主化された国連を中心に本格的に行っていく必要がある。そのためには国連の改革も当然必要になっていくであろう。
とりわけ戦争の民営化の中で民間軍事会社がいま、アメリカやイギリスやイスラエルといった当初から暗殺をも否定しないような国だけでなく、ドイツを含めて世界中で拡大しつつあり、一切の規制ができないようになっている。そんな現状に大きな歯止めをかけていく必要があると思う。そのためにいま私たちにとって何が一番できるのか。そういった権力と資本、国家と企業の暴走、これはさらに言えばメディアの暴走や技術、科学者、研究者の暴走もあるが、これは原子力村(ムラ)にもつながる問題でもあるけれど、そういったものを根本的に変えていくために、これまで行われてきた、権力とメディアが一体化して行ってきた、あるいは行っている、情報操作や世論誘導のメカニズムを明らかにして、それに代わるものとして市民による独立したソーシャル・メディアのネットワークの構築、そして何といっても市民自身がさまざまな情報を主体的、批判的に読み解く能力、メディア・リテラシーを身につけていくことが最も重要ではないか。その点、2005年以降、日本でも顕著になってきたけれど、既存の大手マスコミに代わる大きな役割影響を果たし始めた市民メディアの動き、この新しい流れは非常に大きなものがある。もちろん、既存メディアの中にも魂のあるジャーナリストがいてそのような働きをしているというのは言うまでもないが、そういった人々にさらなる健闘をお願いしたい。私のゼミの卒業生もメディア関係にかなり入っているので、彼らにも頑張ってもらいたいと心から思う。
<質疑応答>
会場:原爆投下の原因や理由について意図が明確にあって隠されているのか、米国自身も整理ができていないという可能性はないのか。例えば、トルーマン大統領が明確に意思決定していて(意図が)隠されているのか、最高決定者が分からないということはないのか、実際はどうなのか。
木村:それについては、ピーター・ガズニック先生と私も認識の9割以上は一致するのですが、必ずしも一致しないところが残されている。非常にリベラルな方ですけれども、人体実験説というか、新型兵器の実戦使用が実は大きな狙いであったという視点については同意をいただいていない。やはり誰に焦点を当てるのかといえば、これまで政策決定者(政治指導者)に当てていたこともあり、トルーマン大統領に影響を与えたというスティムソン論文があったので当初はスティムソン(陸軍長官)に注目し、最初は素朴にスティムソンが原爆投下に影響を与えた人物だと考えていた。ところが時間が経って情報公開が進んでくる中で、7月になって国務長官がジェームズ・バーンズに替わったこと、それまでも暫定目標投下委員会などに大統領代理として出席していたこと、ものすごい強硬派で決定的影響力をもっていたこと、原爆について大きな砲弾くらいの認識しかなかったトルーマンを操って原爆投下に持ち込んだという説が有力になった。私は政策決定過程ではその見方は基本的に誤っていないと思う。ピーター・ガズニック先生の言葉でいえば、ブッシュ政権で事実上の大統領がチェイニー副大統領であったのと同じように、バーンズ国務長官が影の大統領的役割を果たしたという見方は当たっている。
ソ連に対する威嚇、あるいはソ連が参戦する前に原爆投下を急いだ理由として、ガー・アルベロビッツ氏などが主張されている原爆外交説がある。この外交手段として原爆が使われたという見方は当たっていると思う。ただ原爆投下を外交的政治的道具として、政策決定者の手段という側面だけを見ていいのか疑問がある。それだけであれば一発目の原爆で用は足せたのではないかと。なぜ2発目の原爆が必要であったのか、表向きは1発目の原爆で降伏しなかったからだというだけでは説得力に欠ける。現場で原爆投下のイニシアティブを発揮していたのはグローブス(将軍・マンハッタン計画の実務責任者)だ。彼は、ウランとプルトニウムを使った原爆をそれぞれ人員も予算も分けて準備していたのに「日本の敗北・降伏が事実上決まったから使わない」などという選択肢はないという明確な意思をもっていた。日本占領後の米国の動きも含めて、マンハッタン計画全体の位置づけを考えて判断する必要があると思う。実は2発の原爆投下が初めにありきで、ソ連への威嚇とか世界への示威は副次的目的であったのではないか。なぜならソ連参戦は広島への原爆投下で早められ、むしろソ連の原爆開発に拍車をかけたからだ。日本に投下しても原爆情報は遺漏する。本当はそうしたことまで見越した上で原爆を投下した可能性が強い。
さらに検証する必要性があるとすれば、大統領顧問としてルーズベルト、トルーマンの両大統領に大きな影響を与えていたバーナード・バルーク氏(大統領顧問で、「国連原子力委員会」のアメリカの主席代表)の役割を解明することが必要ではないかと考えている。
■2011年7月22日(金)18:45~20:45
■明治大学リバティタワー1065教室(6階)
■主催 アジア記者クラブ、明治大学軍縮平和研究所
■ゲスト 木村朗さん(鹿児島大学教員)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study413:110905〕