「台所」を取り込め!―ナチス政治の恐るべき策謀 

参考資料:藤原辰史著『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房2005)

藤原辰史著『 ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国2016)

 

現在は世を挙げての「健康志向ブーム」と言われる。あれほどサプリメントの危険性や副作用が問題になっていても、平気でそれに頼っている。清涼飲料水なども、なにがしかの体に良いといわれるものに代わってきている。このことは「健康で長生きしたい」という人々の願望(世の中の風潮)の表れであろうが、その際、いつの間にか「生きる」ことの目的や意味は失念されてしまい、誰も真剣に問おうとしなくなっているように思える。その一方で、「年寄りは集団自決せよ」といった若い世代の一部からの乱暴な声も聞かれる。年寄りは「生産的な労働力」たりえず、社会の負担になるばかりだ、というのがその背景の考え方である。いずれは自分たちもそういわれる年代になるということを忘却しているのではないか、と訝しくなるのだが、いずれも今日の社会の貧困(物質的のみならず、精神的にも)をよく示していると思う。

参考資料で挙げた書物に関して、「食の思想史」や「農業史」という分野には今まで縁のなかった素人のため、この浩瀚な本の「書評」をものするなどという大それた資格は全くないことをまず白状しておいた上で、これらの本を読んで啓発された挙句の自分なりの問題意識をいくつか拾い上げ、この本に関連させて述べさせていただきたいと思う。

そこで、冒頭に触れた「健康志向」あるいは「正しい食生活」というモットーについてまず考えてみたい。このモットーは、いつ、どんな世界でも妥当するはずのもっともなスローガンではないだろうか、誰もが、なんとなくそう思いたくなる。それが曲者である。

 

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『正しい食生活で健康に』というモットーが、1930年代半ばのヒトラー・ユーゲントの手引書のタイトルである、と聞けばさぞ驚かれるであろう。さてはナチスは国民(ドイツ民族)のためを思い、「正しい食生活」と「健康志向」に気を付けていたのであろうと感心される向きもあるかもしれない。そういう方は、この後で触れるナチスの「有機農業志向」にも同様に感心するに違いない。また、ドイツの有名な高速道路(アウトバーン)にも、大衆車「フォルクスヴァーゲン」に対しても、ヒトラーとナチの功績として素朴に感嘆するかもしれない。

しかし、物事はそう簡単には進まない。この手引書の中の次のスローガンを読めば、そういう素朴な考えはその様相を一変させる。

身体は国家のもの!

身体は総統のもの!

健康は義務である!

食は自分だけのものではない!

『正しい食生活で健康に』というモットーが、国家のため、ヒトラーのために忠誠をつくし、戦争で闘える肉体を作り、立派な兵士として死ぬためのスローガンとしてつくられたものであることは、一目瞭然であろう。

しかし、もちろん、こういう「どんでん返し」的な話はナチスに特有なことではない。自分たちの周辺に目を凝らしてみてごらんなさい、「増税メガネ」と揶揄される我が国の首相が、一方で選挙用に「減税」を謳いあげながら、選挙後の「増税」予定を曖昧なままひた隠しにしていることは、その見やすい実例の一つであろう。また、ウクライナ戦争に関連して、ソ連崩壊後に生活苦に苦しむ東欧の人々が、「EUに入れば、所得もEU並みになる」という甘言に乗せられて、EU加盟を決めたのはよいが、「リトアニアやルーマニアに行って」ごらんなさい。「世の中そんなに甘くないということがわかる」、と松里公孝先生が指摘している(『ウクライナ動乱』)。

それでもこういうプロパガンダを大々的にふりまいて、自国民をその気にさせ、戦争に駆り立てた「実績」はやはりナチスのものである。「大東亜戦争」を鼓舞した大日本帝国が、このナチスのやり方を模倣したこと、しかも「食糧などろくに与えずに、精神主義を強調して忠勤させたこと」、それに大抵の国民が(少なくとも表面上は)喜んで従ったこと、このことも忘れてはならないだろう。

ナチスが盛んに宣伝実行した国内政策に「アイントップの日曜日」というのがある。「アイントップEintopf」というのはいわば雑炊である。野菜、ジャガイモ、肉などを煮込んだものだ。ドイツの田舎料理。これを「伝統的な国民食」に高めたのがナチスである。このために彼らが採用したプロパガンダがすごい。まず、「食料品の節約」を奨励し、ムダをなくし、飽食故に捨てられる残飯量をへらし、その分を貧困家庭に平等に分配すべきである、更に残った残飯は、家畜(豚)の餌に回そう、というわけである。

そのために、この貧しい国民食を、日にちと食事時間を決めて国民全員で一緒に食べようという運動を起こしたのである。1933年10月1日、国民の休日(「収穫感謝の日」)に、ヒトラー、ゲッペルス、グレーらの幹部が、「アイントップ」を食している写真が、ナチ党機関誌『国民の監視兵』にでかでかと掲載されたのだ。そしてその節約で生み出されたお金を、「(国民)社会主義は民族の給養を確保する」という名目で「冬季救済事業」募金に利用したのである。

こうすることで、国民意識に、下層民も上層民も、同じ食事をしている「同一民族」であるというゲルマン民族意識を植え付けたのである。

こういう目的から次々と考案され実行された民族昂揚の主要な場こそ「台所」に他ならない。生きるためには誰しも食事をする。その土台をナチスのヘゲモニー確立と、東欧・ロシアへの侵略戦争に役立つ兵士の育成に結び付けようとしたのである。

これは恐るべき策謀である。「軍隊は胃袋とともに進軍する」というナポレオン一世の教訓を位相を変えて実践したとも言いうるのかもしれない。

ここではごく大雑把に触れるだけに過ぎないが、手狭な台所をいかにうまく活用するか、「台所の合理的な活用法」、そのための配置、調理道具の改良(テクノロジー化)、それからレシピ(安価な材料、簡単な調理法、無駄をなくした素材活用法、など)、家政学のナチ化…。その結果は、テイラー主義を台所に応用して、台所空間の「工場」化に「成功」した、のである。台所という「戦場」の中では、人間はただの「動物」であり、主婦はただの「調理人」として、台所=工場=戦場で戦う兵士なのである。「ナチスのキッチン」、そんなものはなかった、と著者藤原辰史は指摘する。

 

2.ナチスは「有機農業」志向の先駆者だった?

実際に、ヒトラーやルドルフ・ヘスやハインリッヒ・ヒムラーなどは、菜食主義者かあるいは菜食を好んだそうである。因みに、ヒトラーは死ぬまで、禁酒、禁煙で菜食を好んだという。

また彼らは、従来の「人間中心主義」思考に代わり、「生物圏平等主義」を原則として、その多様性を認め共生を目指す、という「ディープ・エコロジー」という立場に近い主張をしている。そしてそのことにどう影響されたかはわからないが、オーストリアの有名な動物学者で、ノーベル賞受賞者のコンラート・ローレンツは熱心なナチス党員であった。

 

1935年6月26日、ヒトラー政権下のドイツで、「帝国自然保護法」が交付されている。

この中身を「ナチス」だの「ヒトラー」だのという言葉をブラックボックスにして読むと、素直に感激してしまいそうになる。その宣言文を藤原の『ナチス・ドイツの有機農業』から抜き書きしてみると…。

「今も昔も、森や野原の自然は、ドイツ民族の憧憬であり、喜びであり、保養地である。/昔と比べると、故郷の景観は根本的な変化を遂げ、その植物相も、集約的な農業や林業、一面的な耕地整理と針葉樹林の植林によってしばしば変質した。植物相の生命空間が減少することによって、多種多様な、森や野原を活気づけていた動物世界も次第に消えていった。/こうした展開は、多くの場合、経済的必要性によるものだった。今日では、ドイツの景観をそのように改造したことで、観念上の、あるいは経済的な損失が公然のものとなっている。/世紀転換期のころに生まれた「天然記念物保護区」は、部分的にしか指定されなかった。なぜなら、本質的な、政治的及び世界観的前提に欠けていたからである。ドイツ人の改造があって初めて、有効な自然保護の前提条件が作り出された。/ドイツ帝国政府は、最も貧しい民族同胞にさえもドイツの自然の分け前を確保することを自らの義務としている。それ故、帝国政府は、下記の帝国自然保護法を制定し、ここに公布する。」

 

今日においてもなお、ドイツの自然環境の美しさ、自然保護への情熱には敬服させられる(もっともドイツ人の友人によれば、最近は宅地造成=自然破壊が多くなったというが)。試みに日本の味気ない高速道路の周囲の景観と、「アウトバーン」のそれとを比べてみればよいだろう。その違いは一目でわかる。「アウトバーン」は、設計時から道路に沿って樹木を植え、緩やかな高低をつけて長距離運転の単調さの緩和を意図していたといわれる。

 

ユダヤ民族に対する「絶滅Vernichtung」の話に移る前に、もう少しナチスの自然保護について考察してみたい。その上で、どうしてこういう思想が、あの残虐な「アウシュビッツ」の虐殺へとつながって行ったかを考えてみたいと思う。

藤原の同書によれば、…(以下のゴチック体、下線は筆者が加えたもの)

「ノルウェーの哲学者アルネ・ネスは、ディープ・エコロジーの目標の一つとして、「生物圏平等主義」を人間にまで適用し貧富の差を解消することも挙げているが、ナチスはこの課題を、ネスより40年も前に、「ドイツ民族」という枠内ではあれ、「自然保護法」の中から欠落させることをしなかった(「ドイツ帝国政府は、どんなに貧しい民族同胞にもドイツの自然の分け前を確保することを自らの義務とみなしている」)。言い換えればナチスは、「民族共同体」という枠組みの中で、「人間と人間の平等」と、「生命あるものの平等」の両立を、この法律によって実現しようとしているのである。ナチス・エコロジーはフェリ(フランスの哲学者リュック・フェリ)が考えるよりもずっと多元的で、ディープ・エコロジーほど人間を自然の中に埋没させていない。」

 

下線部に注目しながら、今日のエコロジーを考えてみると、単純にその先駆ではないかと思えてくる。もちろん、それでも慧眼な方々は、「ドイツ民族」とか「民族共同体」だとかいう「枠組み」=制限があることを最初からうさん臭く思われるに違いない。しかし、「人間と人間の平等」とか「生命あるものの平等」とか、それ自体まともそうな思想が、どういう訳でユダヤ人へのジェノサイドにつながってくるのだろうか。

例えば、同じ実数=10も、分母が異なれば(つまり、全体の関係が違ってくれば)異なってくる。10/10は1であるが、10/100は0.1になるのと同じだ。

 

もう少し藤原を引用しながらこの辺りの事情を探ってみたいと思う。

「自然保護法」の一環として成立した「動物保護法」には、こういう内容が書かれている。

「生きている動物たちを輸送する際、必要な配慮を放棄することが―例えば、必要な空間が確保されていなかったり、車体が動物運搬用に向いていなかったり、あまりにも高速にあるいは杜撰に運転がなされたり、また事前に十分な飼料が与えられなかったり、水分が与えられなかったりすることが―動物に対して相当な苦痛と相当な害を与えることも稀ではない。」「つまり、動物の感情にまで思いを巡らすような、実に細やかで、行き届いた配慮」が考えられているのであるが、「この家畜列車に「生きている」ユダヤ人を詰め込んで―「必要な空間」を確保することも「十分な飼料と水分」を与えることもせず―収容所に輸送し続けた在り方が、〈第三帝国〉において共存したこと」。「〈第三帝国〉ほど人間と自然が混在し、逆転し、融合した近代国家が他にあっただろうか。ナチスにおいては、ユダヤ人の「生命」は家畜の「生命」よりも軽い。あるいは麻酔なしの生体解剖は動物には禁止されていたのにもかかわらず、強制収容所の囚人や捕虜たちに対しナチスの医師たちが施したのは、麻酔なしの殺害と、その直後の解剖であった。」

「では、ナチス・ドイツで、人間中心主義からの脱却が、人間の人間に対する「謙虚さ」や人間の生命の尊重をもたらすのでではなく、人類史上まれにみる人間への「凶暴さ」に帰結したのはなぜなのか?なぜ、人間の生命を史上まれにみるほど軽視した国家が、動物の生命をこれほどまでに尊重していたのか?

この問題を考える場合に、「ナチズムの悪行を前提にして論を進めること…では、その悪行を常套句で飾り立てることで安心し、かえってその内実やそこに至るメカニズムを見過ごすことになりかねない。重要なのは悪行に至る過程である。この過程の回路図こそ、来るべきエコロジーの羅針盤になるだろう。」

 

この小論では「この過程の回路図」を詳細に追いかけることはできないため、つまみ食い的に掻い摘んで紹介だけさせていただく。

「〈第三帝国〉下のドイツにおいて、エコロジカルな農法、すなわち有機農法の導入が問題にされたことこそ、最大の理由に他ならないのである。例えば、ナチ期農業思想の最も重要な担い手の一人、ゲオルク・ハルベは、有機農法を単に農業の様式としてばかりでなく、人間の自然認識の変革をもたらすものとしても捉えていた。ハルベは、ユダヤ人やイギリス人がもたらした「物質主義的世界観」が現在の自然科学の基礎となっていると指摘し、…攻撃している」

ここで、有機農業とは、決して原初の時代に返ることを意味するのではなく「生態系内の自然律を最大限利用する本来の農業を、近代化の中で意識化し体系づけること(がその)基本的性格に他ならない」。彼らが重視する農法は「インドール農法」であり、土壌内の微生物や有機物を重視する農法である。

 

続いて登場するのが、シュタイナー(有名な「シュタイナー学園」の創始者)である。

「1924年の人智学者ルードルフ・シュタイナーの「バイオ・ダイナミック農法(BD農法)」―ゲオルク・ハルベが礼賛:農場を、様々な生命体―生け垣、沼地、、作物、家畜、人間など₋が共生する一つの閉じた「有機体」ないしは「個体」とみなし、工場で大量生産される化学肥料の使用を、その「有機体」の循環を壊すものとして拒否、その代わりに、農場内の家畜の糞尿を加工した有機肥料を用いるのである。」

ところがこのシュタイナーの有機農法は、「準戦時体制を作り上げるために、1934年から食糧増産キャンペーンを繰り広げ」たナチの政治方針とたちまちぶつかることになった。食糧増産のためには、「化学肥料と農業機械の大量の投入が必要不可欠」だからである。

 

この「有機農法」を堅持するか、それとも準戦時体制下で、化学肥料と機械化による食糧増産体制に転換するか、この選択は当然ながらナチスの農業政策の根幹にかかわってくる。「ヒトラーは、まず1928年4月13日、ナチ党の綱領である「25ヶ条綱領」(1920年2月24日に発表)の第17条に記されていた「土地の無償没収に関する法律の制定」の修正を宣言する。ナチ党は、私有財産性を支持しており、17条に記した「土地の無償没収」とは、もっぱら、ユダヤ人の土地投機会社のことを指しているとヒトラーは公式に表明したのである」。

その結果、「農民たちの多くはナチ党を選んだ。1932年7月21日の共和国議会選挙で、ナチ党は37.7%の得票率を獲得し、第1党に躍り出たのである。重要なのは、「ナチ党農業綱領」において、エコロジカルな視点が皆無なことである」

ポプリスティッシュ(大衆迎合的)な性格を多分に持つナチ党は、このように「党綱領」も平気で修正する。こういう実例はいくつもある。例えば、「反ユダヤ主義」に関しても、大財閥のロスチャイルド家は例外であった(『ロスチャイルド』新潮社)。また、当初は庶民の味方として、金持ちの財産を貧乏な人たちに配るような様子(デパートへの攻撃など)をしていたが、それも結局は財界との妥協の中で雲散霧消している。

 

こうして「農民票を獲得することに成功したナチ党は」、食糧増産体制採用に絡めて、「シュタイナーの神秘思想がナチズムの世界観と相いれない」との考えをもとに「1935年11月1日、ヒムラー率いる国家秘密警察(ゲシュタポ)が人智学を禁止する事件」を起こす。つまり、「この協会は、インターナショナルの立場に立ち、外国のフリーメイソン、ユダヤ人、平和主義者と緊密な関係を保っている」、また「個人主義的」である、というわけである。こうして、それまで有機農業の普及に献身していた、「ダレーたちのBD農法普及運動も、戦争遂行・食糧増産への圧力がかかる中、結局第三帝国の世界観において異端な存在となってしまった」。

 

先述したように、ナチの有名な運動に「無駄なくせ闘争Kampf dem Verderb」がある。

「(そこでは)女性と男性の関係性がはっきりと規定されている。つまり第三帝国において女性の戦場は家庭の中、とりわけ台所である。「無駄なくせ」運動の主役は主婦なのである。…「有害生物」、「宿敵」、「破壊者」、「防御せよ」という大げさな表現…そこには主婦に闘争心を掻き立てようとする意図がある。…それよりも重要なのは、この文体がユダヤ人攻撃のプロパガンダの文体とほとんど変わらないことである。実はヒムラーたちは、倉庫の害虫対策のために、I.G.ファルベン傘下のデゲッシュ社によって開発されていたツィクロンBをそのままユダヤ人ガス殺の道具に転用してしまうのである。」

「ポーランド東部の都市ルブリン近郊の「マイダネク強制収容所」…「絶滅収容所」…実際、1943年11月3日、わずか一日で1万5000人もの囚人を殺した大虐殺があった。…マイダネクでは、人骨を菜園の肥料として用いていた可能性が高い。人骨の肥料化はマイダネクだけにとどまるものではなかった。アウシュヴィッツ収容所の「特務部隊作業班1005班」、すなわち死体処理班であったウクライナ人、レオン・ヴェリチカーが手記を残している」

「「人間と動物の境界」や「人間と植物の境界」よりも、「人種と人種の境界」に太い線を引くナチスの志向は、囚人を「家畜」に変えたばかりではない。それはドイツ農民たちをも、彼らが創出した景観に慣れ親しむような「家畜」や「種苗」に変えるのである。「人間を動物に変える巨大な機械」は、収容所の有刺鉄線を超えた〈第三帝国〉全体のシステムであったのであり、「有機農法」は、収容所にせよ、占領地の農地にせよ、そこで農法を営む人間を「生命空間」の中の一要素に変換する方法でもあったのだ。」

「「人間中心主義」の磁場から史上最も逸脱した国家〈第三帝国〉は、史上最大と言われる虐殺を成し遂げ、1945年4月30日のヒトラーの自殺によって崩壊した」

ナチスにおける有機農業の結末は、人間の解放ではなく、人間の自然への隷属であった。それは、結局、貨幣の交換によって成り立つ経済からの脱出を、自然の要素という別の交換原則に置き換え、疎外状況を別の疎外の形態に変形したに過ぎない。問題を乗り越えたのではなく、問題を別の箱に移し替えただけである」

 

  • 総括

上記の「人間の解放ではなく、人間の自然への隷属であった」という見解は全く素晴らしいと思うし、共感しうる。

そして、この「総括」という項では、それ以上に付け加えることもないのであるが、最初に書いたとおり、この小論は、あくまで自分なりの問題領域に引き付けての「講評」に過ぎないのであるから、その点から少しまとめてみたいと思う。

もちろん、ここではナチスが最終的に何を目指したのか、や、ナチスをこれほどまでに成長させた社会的な要因は何だったのか、などを問うことはしない。それは当時の時代状況の分析、それに関連させてドイツ国内の事情、等々の詳細な検討をもって初めて語ることのできる大問題であり、今、それだけの準備の持ち合わせなど到底あろうはずがない。

次善の策として、ここでは藤原辰史の著書に関連するいくつかの言葉などを取り上げて、それについての補足(感想)やコメントを書いて一応の結びとしたい。

まず、「健康な肉体を作るための食事」に関してであるが、これが「立派な肉体を備えた兵士の育成のための食生活」につながることを考えたときすぐに、「24時間戦えますか」とかいう昔流行ったコマーシャルを思い出した。今日の資本主義社会も、コンテキストを少し変えただけで、しっかりと「労働力として役に立つ」人材の養成をしているのである。しかも、ナチスよりももっと悪辣なのは、「戦う身体作りのためのサプリメント(栄養剤)」を労働者が自腹で買うように仕向けて、そこでも搾取しているのである。

「アウトバーン」のすばらしさは、先ほど触れた。実際にドイツ人の友人の車で走ってみて、果てしなく続く両サイドの緑豊かな森、道幅の広さや道路の頑丈さ(アスファルト舗装ではなく、コンクリート舗装されているためだが)に驚かされる。しかし、これはナチス時代に戦闘機の滑走路として、また戦車が走っても大丈夫なように作られたものであることを知れば、感激は恐怖へと一転する。

ユダヤ民族に対する「絶滅Vernichtung」に関しては、野村真理著『ウィーン ユダヤ人が消えた町』(岩波書店2023)に次のような記述がある。

「ナチの指導部において、ユダヤ人の絶滅政策はいつ決定されたのか。1939年9月1日の第二次世界大戦開戦時に遡れば、9月末策定の指針③に基づき、総督府内の都市ゲットーが設置された。その中で最大規模であったのが、1941年3月の最大時で推定約46万人が閉じ込められたワルシャワ・ゲットー(1940年11月16日に封鎖完了)である。しかし、それまでのユダヤ人の生計を破壊し、ゲットーへと隔離した結果としてナチは、自活できない膨大な数の人間集団を抱え込むことになった。そのため月日が経つに従いゲットーの管理にあたるナチ幹部の間では、ユダヤ人の一部はゲットー外の建設現場やゲットー内のマニュファクチュア等で労働力として使用されているとはいえ、ゲットーの維持にかかるコストを考えれば、ゲットーは割に合わないという不満がくすぶり始めていた。そもそもゲットーの設置は、「ユダヤ人の管理と移動を容易にするため」であった。しかし、移動/追放先がないまま、1941年6月の独ソ戦開戦後、10月に開始された大ドイツ帝国領域のユダヤ人の東部移送がゲットー政策のさらなる行き詰まりを露呈させる。」

食糧も水もろくに与えられないまま、毎日の重労働に駆り出され、挙句の果ては「不要な生き物」としてガス室で処分される。まるで、先に触れた台所での「害虫退治」のようではないか。

 

そして歴史が巡り、今やガザで同じようにパレスチナ人を飢えや爆撃で虐殺しているのが、ユダヤ人が建国したイスラエルの軍隊であること、これらの事実を知るにつけ、改めて実数=実体なんてものはそのままでは存在せず、実際には関係全体の項に過ぎない、全体の関係(コンテクスト)が変われば、それに応じてまったく異なった姿で現れるものだということに気づくのである。

つい先日(5月24日)「東京新聞」の夕刊に、藤原辰史が「ガザ飢餓による虐殺」という立派な記事を書いていた。それは、ユヴァル・ノア・ハラリ(イスラエル人歴史家)によるネタニヤフ政権批判の不十分性を実に鋭く指摘したものだ。藤原のハラリ批判の結論部のみ紹介してこの小論の締めくくりとしたい。

「…だが、歴史家ならこう付け加えるべきだった。イスラエルもナチスと同様に飢餓を通じた虐殺をしている。ナチスの最大の被害者はロシア人だったとはいえ、ユダヤ人も餓死した。ならば、いまのイスラエルこそ、ユダヤ人の受難の歴史を冒涜している、と。いま真っ先に論じるべき問題は、イスラエルの存続の危機などではない。人間の尊厳が地に落ちたことである。」

2024.5.27記

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture1322:240528〕