「司法の危機」から40年

著者: 宇井 宙 ういひろし : ちきゅう座会員
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 1970年9月号の『世界』は「危機に立つ司法権の独立」という特集を組み、小林直樹(憲法・法哲学)、高柳信一(憲法・行政法)という2人の東京大学教授(当時、以下同様)の気迫に満ちた論考と、裁判官らによる座談会を掲載している。当時、「司法の危機」という言葉が論壇においてしきりに叫ばれていたが、それは次のような事情を背景としていた。

 1960年代の半ばから後半にかけて、公務員の争議権に関する訴訟や公安条例や戸別訪問禁止規定に関する違憲訴訟などで、下級審を中心に違憲判決が相次いだ。とりわけ最高裁が1966年10月26日全逓東京中郵事件で公務員の労働基本権を認める方向性の判決を出したあたりから、政府・自民党・財界・右翼ジャーナリズムが司法に対して「偏向判決」という批判キャンペーンを開始した。特に67年9月から『全貌』という右翼雑誌が青年法律家協会(青法協)に所属する裁判官を標的に「赤い裁判官」「共産主義の牙城」などという事実無根の攻撃を始めた。青法協とは「憲法擁護・平和と民主主義」を掲げて1954年、若手法曹・研究者らが結成した団体で、その裁判官部会は1963年以降、研究サークルとして出発したものであり、およそ政治団体などというものではなかった。しかし、1969年1月11日、石田和外最高裁判事が最高裁長官に就任(*1)して以降、司法行政の官僚統制強化と裁判の反動化が一挙に進むことになる。そのきっかけとなったのが、いわゆる平賀書簡事件であった。同年8月、北海道長沼町に自衛隊のナイキ基地建設計画が浮上すると、地元住民が基地予定地の保安林指定解除処分を行った農林大臣の処分の取消を求める訴訟(長沼ナイキ基地訴訟)を提起した。この裁判の担当となった札幌地裁の福島重雄裁判長に対し、平賀健太札幌地裁所長が「書簡」を送り、違憲審査権の行使を控えるようにとの「意見」を伝えるという事件が起きた。この明白な裁判干渉に対し、札幌地裁は平賀所長を厳重注意し、最高裁も注意を与えて東京高裁に転任させたのだが、その後、事態は馬鹿げた展開を辿る。国会の裁判官訴追委員会はこの事件に関し、裁判干渉を行った平賀所長を不起訴とする一方で、干渉の被害者である福島裁判官について、書簡を公表したのは裁判官にあるまじき行為だとして訴追猶予の決定をし、また札幌高裁も同様の理由で、福島裁判官を口頭注意処分にしたのである。保守勢力お得意の「問題のすり替え」戦法である。さらに、福島裁判官が青法協のメンバーであったことから、国(法務省)は福島裁判官に対する忌避申し立てを行ったのである。最終的にこの申し立ては札幌高裁によって棄却されたが、国側が裁判官の忌避申し立てを行うのはまさに前代未聞の事態であった。最高裁も、こうした政府・財界・右翼メディアによる青法協批判に迎合するかのように、同年11月には青法協加入の裁判官に脱会勧告を行った。
 翌1970年の1月には石田最高裁長官が「新年のことば」で裁判官の「中立・公正」を強調し、3月には青法協会員の司法修習生が判事補任官を拒否されるという事件も起きている。さらに、4月9日には岸盛一最高裁事務総長が、「政治的色彩を帯びた団体に加入することは、裁判の公正について国民から疑惑をまねくおそれがあるので、慎むべきである」との談話を発表し、6月29日には、石田最高裁長官が、政治的色彩のある団体への裁判官の加入は好ましくないとの長官訓示を行い、改めて青法協からの裁判官の脱会を求めた。

 『世界』の特集が出されたのはこのような状況に対する危機意識を背景にしたものだった。つまり、政府・財界・右翼メディアという保守勢力が、「政治的中立性」なる言葉をキーワードに、とりわけ青法協を標的としつつ、裁判への介入を図ったのに対し、最高裁がそれに迎合して、民主的裁判官の排除・思想統制強化に乗り出した、というのが事態の大まかな構図である。

 小林直樹・高柳信一両教授の明晰で鋭い分析の紹介は別稿に譲るとして、ここでは、司法の危機はその後どうなったのか、ということを考えたい。最高裁事務総局による青法協会員裁判官への脱会圧力はその後も続き、1971年3月には青法協会員であった宮本康昭判事補が再任拒否されるという事件も起き、司法修習生の任官拒否と罷免も相次いだ。それでも青法協からの退会勧告に応じない裁判官に対する差別的処遇は執拗かつ陰険で、過酷を極めた。裁判官の任地・職務・給与などの人事権を一手に握る最高裁事務総局は、青法協を辞めない裁判官や最高裁の判例に逆らう判決を書いた裁判官に対して、転勤制度と昇給制度を通じて徹底的な差別的処遇を行ったのである。例えば、最高裁判例を覆す判決を出し、青法協会員でもあった安倍晴彦裁判官は、青法協攻撃が始まって以降、岐阜、福井、横浜家裁、川越、浜松、川越と東京家裁八王子支部と、支部ばかりをたらい回しさせられ、定年直前の2年間を除き、総括裁判長にもつけず、給与の昇給も同期に比べて異常な遅れをつけられた。このような陰湿かつあからさまな差別待遇は、もちろん安倍元裁判官だけでなく、青法協会員や最高裁判例と異なる判決を出す裁判官がすべて経験したことである。「支部支部(渋々)と支部から支部へ支部めぐり、支部(四部)の虫にも五分の魂」という戯れうたが青法協会員裁判官の間で語られたという。こうした陰湿かつ執拗な青法協攻撃が続いた結果、青法協裁判官部会は1984年1月、青法協からの分離を決定し、かくして裁判官部会は青法協の会としては解散し、消滅したのである。最高裁事務総局による裁判官統制が強化された結果、裁判官の間では「物言えば唇寒し」という状況が生まれ、上の言うことにはただ黙って従うという風潮が強まり、「見ざる・言わざる・聞かざる」に加えて「考えざる」の4ザル裁判官が増えていった。

 司法行政の官僚的統制と司法の反動化を推進した石田和外最高裁長官が定年退官直前の1973年4月25日、最高裁は全農林警職法事件判決(最大判昭48.4.25刑集27巻4号547頁)を出し、1966年の全逓東京中郵事件判決でいったん確立された、公務員の労働基本権の制限に関する人権保障型の合憲限定解釈を否定して、判例変更を行った。そして、この時期以降、下級裁判所においても違憲審査権の行使は少なくなり、行政訴訟では住民敗訴の判決が続いた。裁判所と法務省との間の人事交流(判検交流)も以前にも増して活発となり、国を被告とする国家賠償請求訴訟では住民側の敗訴が相次ぎ、最高裁が違憲判決を下すこともほとんどなくなった。さらに、裁判官会同や裁判官協議会の記録は1970年代以降非公開となり、そこでは裁判官が自由に討論する場ではなく、事務総局の見解を拝聴する研修の場へと変質し、事務総局が裁判官の判決に直接統制を及ぼすようになった。

 このように70年頃から一気に進んだ司法反動化の結果、保守的政治勢力に迎合する最高裁事務総局の意向に従順な裁判官が増え、裁判所は人権保障の砦であることをやめ、治安機関としての色彩を強めていったのである。1990年代末から始まった司法制度「改革」も、このような司法の反動化と司法行政の官僚的統制に歯止めをかけるものでは全くなく、冤罪を生み出す刑事司法制度の構造的問題点にも全く手がつけられていない。結局、司法制度「改革」の結果できあがったのは、裁判員制度と法科大学院制度である。前者は「国民の司法参加」の美名の下に、裁判の迅速化と効率化のみが追求される結果、公平な裁判を受ける被告人の権利がないがしろにされ、冤罪を生み出す危険性がこれまで以上に強まっている。また、「予備校のマニュアル化した司法試験対策の弊害除去」と法曹増大を名目に設置された後者の制度により、大学(法科大学院)自体が予備校化し、新たな弁護士の資質低下や就職難をもたらし、何よりも裕福な人間しか法曹を目指すことができないというとんでもない問題点を抱えている。裁判の判決においても、「人権訴訟論(5)(6)」でも述べたように、表現の自由や思想・良心の自由など精神的自由の領域において2000年代に出された判決の中には、憲法の人権保障を完全に骨抜きにするようなひどいものが増えている。

 このように、現在の「司法の危機」は40年前とは比較にならないほど深刻なものであるが、その問題を直視し、問題提起をするジャーナリズムもごく少数のフリージャーナリスト以外にはいなくなってしまった。この危機を打開する道はあるのだろうか?

(注)
*1 最高裁長官は内閣が指名し、天皇が任命することが憲法で定められているが(第6条2項)、内閣の指名は、前長官の推薦に基づいて行うことが慣例となっていた。石田長官の前任者である横田正俊長官は、リベラル派の田中二郎判事を推薦すると見られていた。ところが、これを危惧した自民党同志会会長・木村篤太郎(元司法大臣、法務大臣、保安庁長官)は1968年12月、佐藤栄作首相に会い、自分が司法大臣時代に東京地裁判事から司法相人事課長に抜擢した石田和外を次期長官に指名するよう説得した。そこで木村の意向を受けた佐藤の意思が横田長官に伝えられ、形式的に横田の推薦という慣例に沿った形を整えたうえで、69年1月、佐藤は石田を指名し、石田の最高裁長官就任が決定する、という異例の経緯を辿ったのである。一方、長官を「横取り」された形の田中二郎裁判官は、その後の最高裁の急激な保守化に失望し、1973年、定年まで3年以上を残して退官した。
<参考文献>
小林直樹「政治的中立ということ――教育と裁判への政治侵入」
高柳信一「現代民主主義における司法権の役割」
近藤綸二・森田宗一・花田政道・竹田稔・和田英夫「(座談会)日本国憲法下の裁判官像」
(以上、『世界』1970年9月号所収)
渡辺洋三『現代日本社会と民主主義』岩波新書、1982年
安倍晴彦『犬になれなかった裁判官』NHK出版、2001年
秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』岩波新書、2002年
新藤宗幸『司法官僚――裁判所の権力者たち』岩波新書、2009年
木佐茂男・宮澤節生・佐藤鉄男・川嶋四郎・水谷規男・上石圭一『テキストブック 現代司法(第5版)』日本評論社、2009年

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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