「天皇制の政治利用」について考える

台風、およびその被害救済作業の真っただ中でも、予想していたように、NHKをはじめとする大手メディアは「皇位継承儀式『即位礼正殿の儀』」の報道を数日間にわたり他にニュースが無いかのように垂れ流しました。
安倍政権は、台風による大被害や国民生活への大打撃などもそっちのけで、この「高貴な」セレモニーに巨額の税金(160億円以上とも言われている)を惜しげもなく注ぎ込み、全国から大勢の警察官を動員して、東京をまるで「戒厳令下」にあるかのように支配し、交通遮断して、厳戒態勢の下でこの儀式を強行しました。
日頃「皆様のNHK」などと「猫なで声」でお上手を言っていました「国民公共放送」は、一気にその正体をさらけ出して、「忠君愛国」「大本営発表」のために仕えるのが我々の使命とばかり、日本国営放送局へと素早く転身をしたのです。
どうしてここまでしなければいけないのでしょうか、何が何でも全国民をあげての「祭りごと」に仕立てようとするには、何らかの魂胆があるに違いありません、どうしてもそう思えてならないのです。
よくいわれるのは、安倍政権を構成しているメンバーが、いずれも「日本会議」などに連なる右翼人脈であり、戦前の天皇制にシンパシーを感じているからそうなのだ、ということですが、これでは何の説明にもなっていないように思えます。
こういう言い方では、右翼思想の持ち主が、戦前の天皇制に愛着を覚え、再びそれを担ぎ出そうとしているのだろう(「右翼は右翼だ」)、という程度の同義反復的な言い方でしかありません。
なぜ今、しかも多くの国民が、予想もできなかった巨大台風による被害で実生活上の困難を強いられている時、やらずもがなの怪しげな「国事行為」-秋篠宮ですら、憲法の「政教分離」を考えれば、天皇家の生活費である「内廷費」を充てるべきだ言っています-に大金を使わなければならないのでしょうか。農漁村の甚大な被害、地元住民の家屋・家財道具などの損壊へは、おざなりな慰めの言葉と表向きの決意表明で済ませています(もちろん、原発被害補償に関しては、「時効」狙いの知らぬ顔です)。
こういう政権側の動きを総合的に考えながら、今回の大々的なセレモニーの意味、その政治的な背景を読み解く必要があるのではないでしょうか。
ここではとりあえず、近・現代史に見られる天皇制(天皇家)と政権との関係を一瞥しながら「天皇制政治利用」問題を考えたいと思います。

「日本会議」の天皇制利用
最初に、菅孝行さんからの引用(菅孝行『三島由紀夫と天皇』平凡社新書2018)をご紹介させていただきます(下線は筆者で、表現は少し変えています)。
≫「日本会議」の改憲派急先鋒である八木秀次は、『正論』2014年5月号で、度重なる明仁天皇の護憲・平和の意思の表明を、安倍政権の改憲の政策と対立する政治的なものだとして、天皇の発言に対する宮内庁の管理が不行き届きだと非難した。政府の「政治利用」に逆らう天皇は「違憲」だというわけである。≪
この八木の主張が何を意味しているのかは、言うまでもないことと思います。彼は宮内庁と先の明仁天皇に対して、「現政権に楯突くな、それに従順たれ」と文句を付けることによって、自ら(「日本会議」も安倍政権も)が、天皇制を、国民を騙す手段として「政治利用している」ということを自白しています。
まあ、ある意味で「天皇制の政治利用」ということは政権党にとっては至極当然のことでした。「天皇親政」のための「明治維新」と言われた事業も、中身を突き詰めてみればこの例外ではありません。

「明治の元勲」たちによる天皇の政治利用
この事業の遂行過程で、「王政復古」(天皇親政)論と「公武合体」論とが対立していたことは周知のとおりです。前者は、土佐や長州といった、後の官僚制度の基幹をなした、いわゆる「明治の元勲」たちの発想です。後者は、徳川幕府側(井伊直弼や安藤信正など)や薩摩藩主の島津斉彬、あるいは横井小楠、後藤象二郎などが唱えた路線でした。
前者(尊王派)が、「錦の御旗」を押し立てて、これを大義名分にして倒幕に成功したことは歴史が示す通りです。
しかし、彼ら(前者)は実際に天皇中心の政治を考えていたのでしょうか?明らかに「否」です。
ここでは元勲・木戸孝允(桂小五郎)が品川弥二郎(長州出身の重臣)に宛てた有名な手紙と、明治初期に東大で30年間にわたり医学を教えた、ドイツ出身の内科医(宮内省御用掛も務める)ベルツが残した『ベルツの日記』から傍証したいと思います。
木戸はこう書いています。「甘(うま)く玉(ぎょく)を我方へ抱き奉り候御儀、千載の大事」
あるいは、岩倉具視ですら、『岩倉公実記』で、天皇を「玉」と扱っていることは遠山茂樹さんの『明治維新と天皇』に出てきます。
さらに、ベルツが書き残しているものでは、「(明治33年)5月9日(東京)-伊藤(博文)のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ、生まれるが早いか、至るところで礼式(エチケット)の鎖に縛られ、大きくなれば側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。そういいながら伊藤は、操り人形を躍らせるような身振りをしてみせたのである」(岩波文庫「ベルツの日記」第1部下巻p.19)
松本清張に言わせれば、事ほど左様に、明治の元勲や重臣たちにとっては、天皇は政治利用の対象でしかなく、「本気になられては困る」操り人形で、彼らは全て「天皇機関説」者であったそうです。
2.26事件で暗殺された「統制派」の渡辺錠太郎に関連して、清張は次のように書いています。
≫渡辺錠太郎(教育総監)は山県(有朋)の副官を勤めていただけに山県が一種の天皇機関説論者であったことをよく知っていた。山県に限らず、伊藤博文はじめ明治の元勲たちは天皇機関説であった。ただ、明治の改革が尊皇攘夷を手段として徳川幕府を倒したことと「天皇親政」をスローガンとしたために、天皇を神格化し、それによって国民の「忠義」を造り上げたのである。天皇への忠義というが、明治の為政者のつもりでは、それは「国家に対する忠誠」の別称だった。≪(『昭和史発掘』7.文春文庫1978)
渡辺錠太郎暗殺の直接の原因は、彼がある連隊での演説で、「天皇機関説」を唱えたことだと言われています。
「天皇機関説」、つまり天皇は所詮は高級官僚や政治家の「玩具」にすぎないという考え方が昭和の時代の軍部にまで浸透していたということなのでしょう。当時の法学者の間では全くの常識だったと言われています。
序でに触れておきますが、天皇家の墓というのも微妙なものです。一般には「○○御陵」がその墓だと考えられているようですが、どうもそうではないようです。

天皇家の墓
大角修という方が書いていますが、「江戸時代の歴代天皇の葬儀は京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)で行われた」そうです。天皇家は神道ではないのか、と思われますが、お葬式は、「もちろん仏式の葬儀で、遺体は境内に埋葬された」とのことです。
大角さんによればこうなります。
「『月輪陵(つきのわのみささぎ)・後月輪陵(のちのつきのわのみささぎ)』と呼ばれる区画に14人の天皇陵がある。といっても墳丘があるわけではなく、大名の墓に似た石の九輪塔がぎっしりと立ち並んでいる。」
「古墳のような墳丘が復活したのは慶応2年(1867)に崩じた孝明天皇のときだった。尊王攘夷と王政復古の気運は天皇陵の形にも及び、墳丘が築かれたのである。ただし、その場所は泉涌寺の裏山だった。」
「神仏分離の明治以降の天皇陵は寺院から切り離され、葬儀も神道式になった。とはいえ、明治天皇の大葬には仏教各宗はもちろん、キリスト教団体も参列した。」
「『続日本紀』には、経典を冥土の乗物として亡き天皇の霊を仏の国に送ると記されており、葬儀でお経を読み、死者に戒名をつけて冥土のお守りとする風習の始まりを伝えている。
その後、天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の後光明天皇(1654年崩御)からはずっと土葬である。」
江戸期には完全に零落し、京都で貧乏暮しのお公家さんの一員にすぎなかった天皇家には、自分たちのお墓(御陵)を護る力もなかったようです。それを徳川幕府が資金を調達して修復(修陵)したそうですが、その際にも、例えば「文久の修陵」など幕末の修復には「天皇制の政治利用」=公武合体などへの意図とそれによる幕政の維持、が働いたとみなすべきではないでしょうか。

「天皇信仰」に引き継がれる「天皇制の政治利用」と一応の結論
以上追考してきましたことからも明らかですが、そもそもの始まりから「天皇制」は空虚なもので、天皇は「名目上の元首」にすぎなかったと思われるのですが、その後、1928年(昭和5年)4月22日の「ロンドン海軍軍縮条約」調印をめぐって、「統帥権干犯問題」が起き、政党政治の弱体化と軍部の強大化が起きたこと。またその四年後に持ち上がった美濃部達吉・東京帝大学教授の「天皇機関説」に対する、貴族院議員・菊地武夫や同じ東京帝大教授・上杉愼吉による批判(=「天皇主権説」の主張)は、徐々に天皇制・国体を実権化する方向へと世論を導いてゆくとともに、政権内部の権力闘争が、いずれにせよ天皇(玉)を利用することで進められていたことをよく物語っていると思います。

因みに上杉は、元勲・山県有朋(先に渡辺錠太郎のところでみたように「天皇機関説論者」)と接触する傍らで、日本人として初めて『資本論』を翻訳した高畠素之とも親交を結び、彼の「資本論の会」にも出席しているようです。ナチス張りの国家社会主義が彼らの選択肢だったようにも思えますが、はてそれと「天皇主権説」とはどのように絡んでいたのでしょうか。
この点に関して二つばかり付け加えさせていただきます。
先ず第一は、伊藤博文らが作成した「大日本帝国憲法」には「天皇」に関してある種の曖昧さが残されていたということです(先に引用した松本清張の『昭和史発掘』も、「伊藤博文の憲法が、天皇の権能を宗教的な法権のようにもし、また、法人の代表のような機関的な存在のようにもして、両者をはっきり区別しなかったのは周到な用意だが、これがために機関説の紛糾を生じるようになった」と書いています)。第二は、それ故に、薩長や元勲らによってかつての徳川政権並みの支配が行われるのではないかとの恐れが政権内部(あるいは軍部内)にあり、そういう派閥による政権運営への揺り戻し(政権奪取)が考えられるということです。
いずれにせよ、このような「神輿担ぎ」(天皇制の政治利用)が、瓢箪から駒を出してしまったわけです。(清張はまた、同書の中で「伊藤の用意周到にして模糊たる憲法の条文は、天皇の権能の半面である宗教的な神権をして他の半面である法人的な代表権に噛みつかせるにいたった。神権の前には、現実面の法的解釈はひれ伏さざるを得なくなる。…幕藩体制における武士に替る兵士…を天皇に直属させるという形をとった」と指摘しています)。
こうして、1932年1月8日の天皇の詔勅(満州事変の先兵となった関東軍を称揚)「皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス」となったわけです、また1936年の2.26事件における奉勅命令(討伐令)へと連なったのです。いわゆる「天皇信仰」としての「現人神」が出来上がったのです。今日それは、「神社の祭り」として生き残ろうとしています。
また、戦後のアメリカの日本統治も、この「天皇信仰」をもとに行われたということも忘れてはならないと思います。
さて本論を擱筆するにあたり、再び菅孝行さんの本からの孫引きをいたします。
≫藤田省三『天皇制国家の支配原理』(1956)によれば、戦後の天皇制国家は次のように分析される。「…元来君主専制ではなくて、官僚専制を中核としていた天皇制は、官僚の温存・増殖ある限り、天皇の地位の変化によって革命的変革を被ることはなく、支配の実質的機構においては依然として戦前との強い連続性を維持している。けれどもひとたび『無関心的心情』にとじこもり、敗戦後の『原蓄的』インフレーションの嵐の中で最も直接的な個人生活の防衛を経験した国民を積極的にインテグレートすることは容易ではなく、国民生活を貫く『天皇制』は国民各個の生活領域に分極化され、個人とその生活集団との『平穏な』日常を保障する点に主要な機能を見出している。したがってアメリカニズムの流行は、それが日常生活の回転を安易にし、また生活の便宜化をもたらす限り、平穏生活の一つの手法として歓迎され、街や村における『天皇制』と日常生活におけるアメリカニズムとが相互に補強しながら、社会の深部において結合している。この両者の結節点は戦前と異なることなく、無数の小生活集団の長、つまりいわゆる『中間層第一類型』である。買弁天皇制の足場はここに定着する。」…藤田の眼には、敗戦後の天皇制の役割が、アメリカに奉仕することによって、利益を貪る統治形態に見えたということである。≪
2019.11.4   記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/ 
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